六.咆哮
本日もお越しいただきありがとうございます( ⁎ᵕᴗᵕ⁎ )
あれは何だ。今のは……何なのだ。
頭が痛い。痛い、割れそうなくらいに、痛い。痛い,痛い痛い痛いいたいいたいイタイイタイイタイイタイ。
どうして、あれは、そうだ、知ってる、僕は、どうして、僕の、大切な。
僕の頭の奥で、勢いよく湧き出て渦巻くもの。あれは、記憶。あれは、今見たのは……忘れてはいけなかった、僕の記憶。
「ねえ……さん?」
それは、かつて何度も口にした言葉。久しぶりでもわかる、舌に馴染んだ懐かしい響き。
「待って……待ってくださいよ……」
シシィ様が消えてしまった。手を伸ばせば届く距離にいたはずなのに。僕の目の前で、鏡の中に吸い込まれるように。
同じだ。記憶の中と同じ。無力な僕。何もできなかった、僕は、何も。
僕があの時、肩を傷つけていなければ。ずっとずっと、シシィ様の手を離さずにいたならば。あるいは。
「あああああああああああああっ!!!」
もう、誰も失いたくなかった。そう誓ったはずだった。それなのに。
「ああああああ……は、はは……」
目の前で呆気なく、僕は大切な人を失ってしまった。どうして、どうして……
「大切なものばかりを奪われて……また僕は何もできないのか。奪われてばかりで、黙ってそれを受け容れろってか……」
信じない。僕は信じない。シシィ様、シシィ様……
何度も何度も名前を叫んだ。拳を鏡に打ちつけて、声が枯れるまで叫んだ。
「そんなの許せない……こんな理不尽に、屈したままでいられるかってんだ!!!」
何かを掴んだ気がした。これは、一体何なのだろう。脈動するような、呼吸をするような……僕の憎しみの塊のような。
「ああああああああああああああああああああっ!!!!」
シシィ様、シシィ様、シシィ様。待っていてくださいね。シシィ様。そこから早く出して差し上げますから。ごめんなさい、僕がもっと早くその手を掴んでいれば。シシィ様。そんな、冷たく狭い暗い場所から、必ず、僕が必ず、あなたを取り戻して差し上げますから――
「アラン君、もう止めなさい。血が……」
ブリジッタ様に止められて、僕ははっと正気に戻った。鏡を延々と殴り続けていたらしい。握った両方の拳からは、たらたらと血が滴っていた。気づかないうちに、フィラデルフィアの鏡は血塗れになっていた。鏡の奥は、何も見えない。あの時一瞬見えた人影も、今は見えない、何も見えない。
けれども、これだけ殴り続けても、鏡にはヒビひとつ入らない。僕の力では、傷ひとつつけられないのか。
「そんな……」
この感情を、僕は知っている。あと少しのところで届かなかった、無念の記憶の中に。
「ああ……そうだ。思い出しましたよ……」
無知な僕は無邪気にも、取り戻せると信じていた。無謀なままに空を目指し、無様なまでに散っていった。
あれは僕だ。〝神様〟の怒りに触れ、地に堕ちた。記憶を落とし、今の今まで脳天気にも生きてきた。
「僕は、たったひとりの家族を〝神様〟に奪われました。空を飛んで、天罰を下された。僕は、異端者……」
僕を見つめる、まん丸に見開かれた目が四つ。恐ろしい光景を目の当たりにして、怯えきって、憔悴した、絶望の色を浮かべている。双子のシユ様とシア様だ。彼らの目には、僕はどのように映っているのだろう……否、恐ろしいものは、今ここに。
「そうか……お主が」
ミコ様がぼそりと何か口にされた気がしたけれど、よく聞こえなかった。耳を傾けている余裕がなかった。頭が痛い。耳鳴りがする。轟々と、渦の中に身を投じて、痛みの源を探り、探り、深く沈んでゆく……
***
何年かかっただろう。無宿者の身では、材料を集めることすらままならなかった。元の世界にあったものは全て失われていたし、作り方だって残されていなかった。けれど、僕はついに完成させた。僕は拙い知識と微かに残る記憶から、空を飛ぶ乗り物を作り上げたのだ。
それは、熱気球。暖めた空気を利用して、空に浮かぶ乗り物だ。僕はそれをバルトロメウ号と名付けた。抹消された歴史の人物の名前からとった名前だ。異端のために空に焦がれる夢が潰えた悲劇の人。いつの時代だって、異端と呼ばれる人はいたのだ。ならば、僕は今の世界の異端者となろう。神を殺しに空へ向かう、世紀の異端の罪を犯すのだ。
その日は晴れすぎた空をしていた。風は弱く、絶好の飛行日和だと思った。僕は誰にも見つからないように、夜の出立を決めた。場所は、森の中の開けた場所。誰の目にも触れない、木漏れ日の差す優しい場所だ。くじけそうになる僕を何度も勇気づけてくれた、小さな小さな僕の居場所。
そして僕は空を目指した。憎い〝神様〟がいるあの空を。大切な人が拐かされた、あの空の彼方を。
僕は大切な家族のためならば、どこまでも強くなれる。だって、僕にはもうたったひとりしか残されていなかったから。
さあ、行こう。姉さんを救い出しに、あの空へ。神様の御座す、あの彼方の空へ。
ゆっくりとゆっくりと、僕の身体は高みに向かって進んでゆく。大地から遠ざかってゆくにつれて、僕の心は高揚感と不思議な感覚でいっぱいになっていった。ああ、もうすぐだ。無力な僕もようやく届く、あの空へ。漆黒の闇に囚われた、僕の大切な家族を探して。
晴れ渡った夜だった。宵のうちから、名も無き星がいくつも瞬いていたのを覚えている。ひとつ、ふたつ、数え切れないほどの小さな星。宵の明星はどこだろう。大きく円かな月すら見えなかった。針の先で刺した程度の星しか見えない。広大な空の中、僕はちっぽけだった。ごくりと喉を鳴らす。呑みこまれそうな深甚たる闇に、僕はたったのひとりぼっち。怖かった。掌につと視線を落とすと、指先が細かに震えていた。怖かった。寂しかった。
でも、姉さんはもっとひとりぼっちなのだ。僕は息を吐き出して、思いっきり夜風を吸い込んだ。清らかな風を身体に染ませ、震える身体を無理矢理押さえ込んだのだ。
「返せ……」
呟く。僕の中に芽生えてしまった、弱い心を吐き棄てるように。
「返せよ」
怖がる己を掻き消すように、無音の闇へと声の限りに叫んだ。
「姉さんを、返せ!!」
僕の叫びは、星屑みたいに夜空を切り裂いて消えていった。そう、消えてしまった。
こんな空の中にたったひとりだったから、まさか返事が来るだなんて夢にも思わなかったのだ。
空は晴れていた。星は美しかった。そんな晴れ渡った夜空に、突如として雷鳴が轟いた。
眩しい閃光に僕の目が眩む。夜闇を光が駈け抜ける様に、一瞬僕は虜となった。何も考えずに見惚れてしまうほどに、それはそれは美しかった。
そして、美しかった稲妻は僕の眼前で牙を剥いた。細かに枝分かれした光が、バルトロメウ号を、僕を貫いたのだ。刹那の出来事に、僕の頭は回らない。
僕は大切な家族のためならば、どこまでも強くなれる。そう思っていた。そんな気がしていた。
それは、思い上がりでしかなかったのだろうか。
身体が燃えるようだった。無限の闇へとたったひとり放り出され、手足がねじ切れそうな勢いで落下してゆく。
バルトロメウ号がバラバラに砕け散って、花火みたいに夜空に咲いた。僕の身体もその燃えかすのひとつだ。ぱっと燃えて光って、消えてゆく。
これが、神様の回答。僕を貫き燃えるほどの神様の怒り。異端者に下された、文字通りの神の鉄槌。
熱くて、痛い。ああ、届かなかったのか。僕はただ、取り戻したかっただけだったのに。僕はそんな力すら、得られないのか。大切な家族をこの手で守る力すら。
熱い。苦しい。息ができない。けれど、何よりも悔しさで僕の中はいっぱいだった。悔しい。返せ、あの平穏な日々を、僕の家族を……優しい姉さんを、返せよ。そんな些細な幸せを望むことも許されないのか。手を伸ばすことすら、許されないのか。
光を放つように炎が広がる僕の視界に、真珠玉みたいな涙がいくつもいくつも登っていった。ああ、ああ……無念だ。ごめんね、姉さん。でも、まだ信じてるよ。いつか会えると言ってくれた、姉さんの言葉を――
そして、そこから先の出来事は、何も覚えていない。
***
そう、これは僕の記憶。シシィ様に拾われるまでの、失くしてしまっていた記憶。
どうして忘れていられたのだろう。こんなにも大切な記憶だったのに。僕にたったひとり残された、心優しい姉さんことを。
僕の意識が再び巡り始めるまで、長い時をどのように過ごしていたのかはわからない。シシィ様に拾われるまで、染んだように眠っていたのか。落下する間に幾星霜の時を超えたのか。わからない、わからない……ただ言えることは、蘇ってきた記憶が高速で渦巻いていて、頭が爆発してしまいそうだということ。
「そう……僕は、生きている。なら、僕がやらなくちゃ」
囚われ続ける孤独な叛逆者。その血を遠く受け継ぐシシィ様。どちらも僕の大切な人。何よりも、守らなければならなかった人。
「この手に取り戻すまで、何度だってやってやる」
これは、神様への宣戦布告。地に叩きつけられても蘇る、憎しみに溢れた復讐者からの。
「お願いします……これは、僕の復讐なんです。僕にやらせてください」
この世界と引き換えにしてでも、取り戻したい人がいる。理不尽に屈さないためにも、僕自身の矜持を忘れないためにも。
「神様から取り戻すんだ……僕らの世界を、僕の大切な人たちを」
自分がどれほど大それたことを言っているかはわかっているつもりだった。どれほど独りよがりで、自己中心的であるかもわかっているつもりだった。
空の上から落ちゆく感覚がありありと思い出される。神様の怒りに直接触れたのだ。恐ろしい記憶に、思わず身震いする。ぎゅっと目を閉じて、まぶたの裏に描き出される景色を消そうとした。けれど、どれだけやっても徒労に終わった。
僕は怯えそうになる心を鼓舞するために、もう一発だけ鏡を殴った。今度は、隣に置かれたティアティラの鏡を。一発がつんと殴って、血の滲んだ手の痛みを気付け薬にしようと。そう思って、力の限り拳を振り下ろした。
跳ね返ってくるはずの振動は、伝わってこなかった。代わりに響いたのは、悲鳴にも似た破砕音。きらきらと砕け散ったそれは儚く、流れ星のように散り散りになった。僕は信じられない面持ちでそれを眺めていた。この場にいる誰もが、無言のままに眺めていた。
崇高なるティアティラの鏡が、僕の手によって砕け散る様を。
お読みいただきましてありがとうございます!
楽しんでいただけましたら幸いです。。





