三.叡智
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突如として視界が眩しい光に照らされ、私は何も見えなくなってしまいました。一面の白、白、白……
「何? 何が起こっているの?」
甲高い叫び声は、アナスタシア様の声でしょうか。私は足元がふらついて、咄嗟に何も見えない空を掴みました。無駄だとはわかっていながらも――
「――っ」
その時でした。気がつくと、私の身体はしっかりとした腕に抱きとめられていました。この腕を私は知っています。ええ、とてもよく知っている……
「アラン、なの?」
「そうですよ。大丈夫でしたか、シシィ様。お傍に参るのが遅くなってすみません」
私はあまりにもほっとして、その優しい腕に縋りついていました。捕らえられ、ひとりではどうしようもなくて、諦めるよりは、と強がってみました。けれども私は、決してひとりではなかったのです。アランが、いつだって私の傍にいてくれたのですから。
「ああ、眩しすぎましたかねー? すみませーん、今なんとかしますからー!」
ブリジッタ様の声でした。先ほど聞こえた時からずっと、何だか聞き慣れない調子でよく響いていましたが、この声は間違いなくブリジッタ様の声です。
「はーい、こんなもので大丈夫でしょうかー?」
そして次の瞬間、部屋の隅々までを満たしていた白い光が突然ふっと掻き消えたのです。それは、光に包まれた時と同じくらいに唐突に。
今度は急に光を失って、白い世界から真っ暗な世界へ。けれども部屋の明かりは元のままなので、私はだんだんと視力を取り戻していきました。
そして、久しぶりに目にした光景は、思わず息を呑むものでした。
お城の衛兵ではない、奇妙な服装をした人たちがいつの間にか大勢いて、この場を完全に制圧していたのです。見たことのない黒い塊……あれは武器なのでしょうか? 圧倒的な威圧感を放つその黒に、聖騎士家の方々も、私たちを囲んでいた衛兵も、そして国王陛下すらもが、為す術もなく恐怖を瞳に色濃く浮かべています。
「な、なんだ此奴らは!?」
「衛兵は? なぜ助けに来ない?」
誰かがそう叫んでも、部屋の外から衛兵が駆けつけることはありませんでした。代わりに騒々しい音と、金属が激しくぶつかり合うような音が聞こえてきます。ブリジッタ様と共に現れた人たちは、まだ大勢控えているのでしょうか。彼らは、ブリジッタ様の私兵……?
「驚かせてしまって申し訳ない。これらは全て、先史人類が残した叡智の結晶ですよ。我が書物の記述をじっくりと解析して、少しずつ復元させてみたのです。皆様のおっしゃるところの〝異端〟ですね」
今度はブリジッタ様そのものの声でした。声のする方に目を向けると、テラスに続くガラス戸の方から、ブリジッタ様が悠々とこちらに向かって歩いて来られるのが見えました。ガラス戸が開いているので、テラスから入ってこられたのでしょうか。でも、どうやって……その手がかりは、ブリジッタ様の背後にありました。
「ブリジッタ殿。この事態を説明していただきたい。一体我々にどうしろと言うのだ? しかも陛下にまでこのような無礼、到底許されるものではありませんぞ」
「いえ、何のことはないんですよ。こうでもしないと、皆さん大人しく私の意見に耳を傾けていただけないでしょうから……この崩壊の始まった千年王国の行く末について、ゆっくり話し合いましょうよ」
テラスの向こう側に、轟音を伴った大きな影が見えたのです。それはやがてテラスを離れ、音と共に徐々に小さくなってゆきました。小さくなった影はまるで、翼を広げた鳥のようで。まさか、まさか……
「やあ、シシィちゃん。助けに来たよ。遅くなってごめんね、もう大丈夫」
「ブリジッタ様は、空を飛んでいらしたのですか?」
思わず口から飛び出てしまった言葉に、私は恥ずかしくなって口元を押さえました。そんな私にブリジッタ様は優しく微笑み、私の指を解いていきます。
「ふふ、そうだよ。後で一緒に乗ろうね……君がそう望むのなら」
その微笑は、自信に溢れたものでした。ブリジッタ様の仕草、振る舞い、言葉の全てが堂々としていて、誰もが思わず注目してしまうくらいに。
「ブリジッタ=ティアティラ。早く申し開きをせよ。そして我々を解放せよ。話だけは聞いてやるから、早く。その娘の肩を持つ気なのか」
見慣れない武器を恐れたためか、いつもよりもルイ様は切羽詰まった様子でした。ブリジッタ様は軽く頭を下げて謝意を示されます。
「遅刻はしましたが、実はミコさんを通じてその、審問とやらを聞いていたのですよ。シシィちゃんはしっかりと自分の芯となる考えを持ってましたね。ただ糾弾するしかできないあなた方とは違って」
いつの間にか、私たちの側までミコ様がいらっしゃっていました。私は目の前の状況を呑み込めず、自分には関係の無い世界を眺めているような錯覚すら覚えていました。今は不敵な笑みを浮かべるブリジッタ様から、ただただ目が離せないでいます。
「そんな……裏切りの家の娘だ。心の内まではわからないだろうが」
皆様の主張はもっともです。ブリジッタ様の目的は一体何なのでしょうか。こんな……異端を堂々と、隠すどころか見せつけるようにしてまで、ブリジッタ様は、何をしようとしていらっしゃるのでしょう。
「では、はっきりと言いましょう。私はこれから、神に叛旗を翻すつもりです。理由は、私自身が抱く神への不信感から。そして、私が本当の意味で自由に生きてゆきたいから」
神様への叛逆。私は思わずごくりと唾を飲みこみました。それは、禁忌の中でも最上級の禁忌。決して許されることのない行為。
わかっています。それなのに、そのはずなのに、どうして。どうしてこんなにも、胸が昂ぶってしまうのでしょうか。
「そうですね。あれは、今から八年ほど前のことでしょうか。私の家の庭に、空から一冊の本が降ってきたのです。不思議なことにその本には、まるで〝千年王国〟の創世を見てきたかのような内容が記されていました」
ブリジッタ様はほんの少しの間、目を閉じられました。それは呼吸を整えるだけのようにも、祈りのようにも見えて。伏せたまつ毛の影が青く仄かな光をまとっていて、その美しさに思わず息を呑みました。
「そこにあったは、私の知らない歴史でした。先史人類のこと、神の怒りと天変地異、そして千年王国の創世について。それら全てが、とある個人の視点から記述されていたのです。そう、神様についても……それはそれは率直に、着飾ることのない言葉で記されていましたよ」
そう話すブリジッタ様の目は、熱を帯びて爛々と輝いていました。まるで、好奇心に満ち溢れた少年みたいに。
「その本を読んだ時、それまで私の心を占めていた違和感が晴れた気がしたのです。この国は全てが充たされているようで、実際のところは私たちに本当の意味での自由はない。そのことに気づいてしまった人間は、人間らしく生きていけないのです」
自由。私は声に出さず、唇だけで繰り返しました。自由。それは、本当ですか? 私は自由ではなかったのですか?
自由。もう一度だけ、心の中で呟きました。舌の上で転がして、じわりじわりと噛み締めて。
「さあ、遵従なる神の僕の皆様。どちらを選ばれますか。大いなる神の裁きを受け容れ、管理されたままの不自由に甘んずるのか。我々の矜持をもってして、自由を勝ち取る賭けに出るか。どちらにしろ、この国は壊れ始めています。
ブリジッタ様はこの場の皆様に問われたはずなのに、まるで私だけに真っ直ぐ問いかけられているようで。他の方々も同じ感覚なのでしょうか。
神様。私たちの世界を創られた、絶対的な存在。そんな方に逆らうだなんて、露ほども考えたことはありませんでした。何より私は、フィラデルフィアですから……
ああ、だからなのかもしれません。ふと、ある考えが浮かびました。お父様はフィラデルフィア家当主として、その道を選ぶことができなかった。選ぶことを許せなかったのではないか、と。
〝希望の切符は、若い世代へ〟。ならば私は、お父様に託されたのでしょうか。お父様が選ぶことのできなかった道を。
「神への叛逆など、決して認めぬ」
返事をされたのは国王陛下でした。温和な陛下からは耳にしたこともない、思わず慄然としてしまう声。けれどもその声は、木の洞を吹き抜ける風のようにも聞こえて、ぐるぐると結論の出ない思考に冷水をかけられたように感じました。
「我々は遠い遠い昔、神と契約したのだ。それ以前のありとあらゆる犠牲と引き換えに、神の怒りを鎮めたのだ。此度の出来事も、全て神のご意志。ならば私は、神のご意志に従うのみ……そして、千年王国の破滅を阻むためなら、どんなことも厭わぬ所存だ」
国王陛下がご自分の意志をはっきりと口にされたのは、初めてのことでした。だから誰も知らなかったのです。陛下が、このように恐ろしい目で……冷徹な一面をも持ち併せていらっしゃったとは。
「我々人間が、殊に聖騎士家の人間が、神に逆らうなどあってはならぬことなのだ。その少女も、そこの付き人も、ミコ=スミルナもブリジッタ=ティアティラも、全員まとめて神の御前に突き出してくれる!」
陛下が一度、両手を打って音を立てました。すると、今まで鳴りを潜めていた衛兵たちが動き出したのです。ブリジッタ様の私兵は確かに得体の知れない武器を持っていましたが、それを使う素振りは見られませんでしたから。今なら押せると。陛下の威厳に奮い立ち、衛兵たちは一気に盛り返し始めたのです。
私はただ、陛下のお顔を呆けたように見つめることしかできませんでした。アランが……皆が、捕まってしまう。それだけは、絶対に避けなければ。
「話し合いは決裂、受け容れられず、と。さて、我々も早急にするとしましょうかな」
ミコ様は噛み締めるように、ゆっくりとそうおっしゃいました。
「どうしてしまったんです……ミコ様も、ブリジッタ様も。どうして、そんなフィラデルフィアのようなことを?」
「キーラさん、私にも大切なものがあります。ただ、このまま黙って滅亡を受け入れたくないだけですよ」
ブリジッタ様はそっと、まだあまり大きくなっていないお腹に手を添えながらそう返されました。それはそれは、聖母様のような微笑みと共に。
「さあ、シシィちゃんはどうしたい?」
ブリジッタ様が今度は私に問います。新しいことがあまりにも多すぎて、私はまだ頭の中で整理ができていません。ですが、それでも。
「私は、もう何も失いたくない……ご一緒します、ブリジッタ様。可能性が、少しでもあるのなら」
これが正しい選択なのか、わかりません。熱に浮かされたように、うわごとのように、気づけば私はそう答えていました。
「では、捕まる前に撤収しましょうかね。皆様もご賛同いただけるようでしたら、その時はぜひご一報を」
そう声を張り上げて、今度はブリジッタ様が両手を打って合図します。それまで防衛に徹していた兵たちが、例の黒い武器を振り回しながら抵抗し、どんどん撤退してゆきます。あの武器の使い方はわかりませんが、ちゃんと使えばもっと恐ろしい威力を発揮しそうな、そんな予感がします。
「やめなさい。これ以上神の怒りを買って、滅びの時を早めるつもりか」
陛下がそう叫ぶと、私たちの方へ真っ直ぐに指さしました。衛兵たちが続々と駆け寄ってきます。私たちの周りには、数人の兵が残って囲むのみ……危機的状況に置かれていることはわかっているのに、なぜだか全身がふわふわします。
「行こう。急ぎテラスの方へ!」
「そうはさせるものですか!」
キーラ様がヒステリックに叫んで、服の下から何かを取り出されたのが見えました。それが何かはわかりませんでしたが。
「シシィ様、伏せてください!」
アランがそう叫んだのと同時に、乾いた大きな音が鳴りました。何が起こったのかは全くわかりません。アランが私に覆いかぶさって、ふたり一緒に床に倒れ込んでしまいましたから。ただ、アランの腕の陰からキーラ様の表情を見てとることができました。
憎しみに染まったキーラ様の顔。普段あんなにお綺麗な方なのに、ひどく歪んでしまっていて。
「そんな……どうして」
そう呟かれたキーラ様の表情が、どんどん青ざめてゆくのが見えました。声も、消え入りそうに震えています。何が、あったのでしょう?
ふと、キーラ様の手に何か黒いものが握られていることに気がつきました。あれは何なのでしょう? 掌よりは少し大きくて、細長い筒のような部位の先端からは、薄く煙が立ち上っています。
「……陛下!!」
どなたかの悲鳴のような声と共に、背後で鈍い音が響きました。幾つもの足音が駆け寄ってゆくようです。いつまでも動かないアランにどうしたの、と尋ねました。するとアランは弱々しく笑って、私を解放してくれました。
「痛ってぇ……掠っただけで済んでよかった」
「アラン? どうしたんです、血が……」
アランの右肩に血が滲んでいました。赤く細い線がいくつも伝うアランの傷口を、咄嗟にハンカチで止血しました。私を庇った時に床で擦ったのでしょうか。いえ、体勢的に有り得ません。では、先程の乾いた音のせいなのでしょうか……何も、わかりません。何が起きたのでしょうか?
「大丈夫ですよシシィ様。僕は大丈夫です……そんなことより」
アランが固い表情で後ろを見たので、私もそちらに目を向けました。私たちを追っていたはずの衛兵の姿は、なぜだか消えていて。ある一角に人垣ができていました。皆、困惑と焦りの声を口々に上げて……確か、そこに立っていらっしゃったのは。
「陛下……?」
人垣の中心に、国王陛下がいらっしゃいました。仰向けに倒れた身体は、弱々しく震えていて。目は虚ろで、土色の顔をされていて。
陛下の胸元に広がるどす黒い染みと、中央から流れる鮮やかな赤が、痛いほどに鮮烈に、私の意識に刻まれました。
「そんな……私、そんなつもりでは……」
キーラ様の狼狽え方はまるで、ご自身の手で陛下を傷つけてしまったかのようで。けれど、どうやったというのでしょう? キーラ様と陛下は、触れることのできない距離にあったのに。
「これじゃあどうしようもないな……急ごう。アラン君、シシィちゃんを連れてこっちへ」
焦りを押さえきれなかったのか、ブリジッタ様は珍しく舌打ちをされました。兵を使って威圧したものの、決して人々を傷つけることはなかったブリジッタ様です。このような結末となってしまったことを、悔やんでいらっしゃるのでしょう。
もしも陛下が……いえ、今考えるべきではないのかもしれません。ですが、どうすればいいのでしょう。私は、正しい道を選んだのでしょうか。わかりません、わかりません……考えなければならないのに、うまく頭がはたらきません。そうやってぼんやりしていたから、周りが何も見えていなかったのです。
「逃がすか」
ようやくテラスへ出たかと思ったその時です。ガクンと引っ張られるような衝撃と共に、私の身体は前方へと投げ出されました。急いで身体を起こすと、アランが懸命にもがいているのが見えました。部屋の中から伸びた手が、アランの腕を掴んで離さないのです。
「アラン!」
「シシィ様、先に行ってください。僕も後から向かいますから」
アランはその場に似つかわしくない、穏やかな微笑すら浮かべていました。そんなアランの背後から、カール様が羽交い締めにしてゆくのがわかりました。私にはその様子が、水の中のようなゆったりとした動作のように思えました。実際にはたった数秒の出来事でしたが。
嫌……嫌だ。このまま失うなんて、この優しい笑顔を失うなんて、そんなのは嫌だ。
意を決して猛然と立ち上がった、その時でした。
「ほんっと……いい加減に、してよ!!!」
ほとんど悲鳴のような声で叫びながら、か細い人影がカール様の横腹に突進していったのです。突然のことにカール様は完全に不意を突かれ、その顔が苦痛に歪んでゆきます。その全ての様子が、まどろっこしいくらいの速度で流れてゆきました。
「シシィの邪魔はさせないわ、お父様。シシィは私の……大事な親友なんですもの!」
そう叫んだ声の主と目が合いました。よく知っている、感情豊かな瞳。その瞳にいたずらっぽい色を浮かべ、彼女……エーファは笑っていました。
「シシィ、早く!!」
そんなエーファの勇気に後押しされて、私はひとつ、大きく頷きました。ありがとう、エーファ。これ以上何も失いたくない。私の大切な人を、失いたくない……
それからは無我夢中でした。エーファが作り出してくれた隙に飛び込んで、カール様の腕からアランをもぎ取ったのです。アランは信じられないような目つきで私を見ていました。そして、状況を理解した瞬間に、再び弾けるような笑顔で笑ってくれたのです。
アランと手を繋いで走ってゆきます。テラスの先には、巨大な鳥のような形の影。大きな塊が軽々と空に浮かび、唸るような轟音が空気を揺らしていました。空を飛ぶそれはゆっくりとテラスを離れようとしています。その中で、手を振って手招きするブリジッタ様の姿が見えました。
私とアランは、手を繋いだままでテラスを駆け抜けました。そして渾身の力で手すりを蹴って……地面を離れ、空の中へ。焦がれてやまなかったあの空へ。あの全てを染め上げるほどの青に、吸い込まれてゆくように――
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