開幕.堕ちた聖女は鏡の中に
いつからここにいるのかはわからない。目を覚ますと、眠りに就く前の記憶は靄がかかったように不鮮明になるから。
「誰か、誰か」
助けて、と叫んだはずなのに、声は埃に塗れて消え失せた。狭い部屋。無造作に積まれた古臭い調度品。開かない窓に、ひび割れた鏡……その中で私は、たったひとり閉じ込められている。
助けは来ないことは知っていた。きっと、私にその価値はないのだろうから。
……何故? 手掛かりは私の手足に絡みついている。
右手に手枷、左足に足枷。無骨な金属から、重たい鎖が垂れ下がっている。鎖の先が千切れているのは、どうしてだかわからない。
このように戒められている私は、きっと咎人なのだ。罪を犯した私は、神様に赦しを乞わければならない。だから修道服を着ているのだろうか。裾が解れた修道服。擦り切れるまで祈って尚、私は赦されていないのだろうか……
その時だ。私以外の全てが静まり返った部屋に、何かが動いた気配がした。驚いた私は部屋中を見回す。狭い部屋だ。それはすぐに見つかった。
古ぼけた鏡。その向こうに、人間だろうか。蠢く黒い影が映っている。あまり疑問を抱くことなく、私は鏡を覗き込んだ。孤独に苛まれていた私は、誰でもいいから縋りつきたかったのだ。
「助けてください。ここから出して」
『また忘れたのか。お前は、そこから出られるはずだ。そうだろう?』
鏡の向こうから、男の声が聞こえた。身体の芯まで響く低い声に、ぞっと身震いがした。背中を冷たいものが伝う。速さを増した鼓動が煩い。
……どうしてこんなに、恐ろしいの。
『さあ、仕事の時間だよ』
鏡の向こうの男は、私の名を口にした。その時私は、全てを思い出す。
鎖が私を戒める。悪いものが、鏡の外へ出ていかないように。
私が、外の世界へ解き放たれないように。
嗚呼、そうだ。私は――
―Lucifer―
それは、神に背いた天の明星。
翼を折られた失墜の星は、神の鎖に縛られて、永遠の罰を受け続ける。