9.アダムとイブ
ベッドサイドで淡いランプの光がほのかに照らされているだけの室内で、男は横たわる私を見つめている。
「あれだけ騒いでいたのに、今はすっかり眠り姫のようだ」
しんと静まり返った部屋で、か細いショパンの幻想即興曲と年相応の男の低い声が、混じり合い、溶けあい、しみいるように響いていく。
「……今の君は覚えていないだろうけど」
その声にはもう荒々しさも冷酷さも感じられない。
「僕は君に何度も会っているんだよ。ここじゃなくて、地球で」
凪いだ海のように穏やかな声は、男の今の内面を映し出す鏡のようだ。
「あの日のことは今でも覚えている。二〇四五年の冬、東京国際ホール。ショパン。それまで僕はピアノになんて全然興味がなかった。ピアノどころか音楽全般、どうでもいいものだった。芸術にはなんの興味もなかったんだ。僕は数式を読み解いたりプログラムを作る方が専門でね……って、そんなの理由にならないって君は言ってたけど」
自嘲気味に男が笑う。
「スタッフに無理やり連れていかれたせいで、その日の僕は終始不機嫌だった。こんな時間は無駄だとすら思っていたし早く帰りたかった。あの頃は手掛けていたコードの開発が佳境に入っていたから。……でもステージに出てきた君を初めて見た瞬間、呼吸が止まるかと思うほど驚いたんだ。こんなにも愛くるしい人間がいるのか……ってね。君の弾くピアノを聴いてさらに鳥肌が立ったことも……よく覚えている。何もかもが初めての経験だったんだ。そしてこの日初めてピアノの、音楽の素晴らしさを知った。自分以外の存在を特別に素晴らしいと思えることにも」
その時の感動を反すうするかのように、男は束の間黙った。
「……君と初めて話すことができたのは二〇四六年の春だった。パーティー会場で、君は大人ばかりに囲まれて恥ずかし気にうつむいていたよね。肩までの髪で顔が隠れていたけれど、赤くなった耳の先がちょっとだけ出ていてかわいかったな」
男はそっと私の耳に触れる。熱くもなく、かといって冷たくもない耳に。
「あの時、僕が自分の名前を告げたら、君はたったそれだけのことでパッと表情を輝かせたよね。あれ、もしかして僕のことを知っているのかなって思ったら、君が喜んだのは別の理由だった」
一人静かに思い出し笑いをする。
「『安達ヒロム? じゃあ、あなたはアダムですね』って、君は明るい声をあげたんだ。そんな風に呼ばれたことはなかったから驚いてしまった僕に、君はつづけてこう言った。じゃあ私達、二人でアダムとイブですねって。始まりの人間同士ですねって。その時の君の笑顔がすごく素敵で……。でも僕がようやく言えたのはつまらないことだった。お互い日本人なのにアダムとイブってすごい発想だねって」
男が苦笑したことで腰掛けている椅子が小さく音をたてた
「あの時、君はまだ十二歳だったんだよね。……でもおかげで重大なことに気づくことができたんだ」
アダムとイブ――それは試作段階で二人のアンドロイドにつけられた仮の名だった。
次世代型を開発していたのはとある日本の企業だったが、当時すでに世界は完全にグローバル化していたこともあり、欧州出身のチームリーダーによって意図的に名付けられたのである。
その後、日本製であることを強調するために二人には日本人特有の名がつけられた。
「『もしかして』、そんな小さな好奇心で調べてみただけだったのに、まさか君がアンドロイドだったなんてね」
しばらく沈黙が続き、男がぽつりとつぶやいた。
「『彼ら』なんてどこにもいないんだよ、イブ」
私の耳に触れていた男の手が頬へと伸びる。
「侵略者なんていないんだ。確かに二〇四八年の八月三日、不慮の事態によって地球上のすべての生命が死に絶えはしたけど、地球自体は今も宇宙をたゆたっている。プランクトン一つ生存できない環境になってしまったけどね。……ああ、やっぱり君が起きた直後は色々と喋りたくなってしまうな。うん……」
男はベッドサイドに置いていたタブレットを取ると膝の上に載せた。
しばらく黙って操作していた男だったが、とある画面をひらくと、
「今回はたった二日しか起きていられなかったな……」
そう独り言を再開した。
「理論やテクニック、真実に真心……。そんなもの、ここでは何の価値がないってことは、もう十分理解していたつもりだったが……。人間は一体なんのために生まれ、繁殖し、繁栄を維持してきたのか、テクノロジーはなんのために進化を求められてきたのか……こんな時はつい考えたくなってしまうな」
タブレットの端を支える男の指に力が入る。
「……君に課せられたルール、こいつらは一体どうやったら破棄できるんだ? あっちを叩けばこっちが出て、こっちを叩けば君の記憶にまで影響して、とうとう僕のことも忘れてしまって……。今回適用したパッチも結局は役に立たなかったし、これじゃ堂々巡りだ」
男がいら立ちもあらわにタブレットを強く叩いた。
「これまでどのくらい試したの?」
「もう数えるのも嫌になるほどだ。……って。え? イブ? 起きていたのか……!」
ゆっくりと瞼を開いてみせると、案の定、男は驚きに満ちた表情で私を凝視していた。
「まさか眠ったふりをしていたのか? 機能のすべてはスリープ状態に入っていたはずなのに、一体どうして」
「そんなことはどうだっていいわ」
部屋に籠っているうちに私は気を失った。だがその寸前で気づいたのだ。十本の指先から均等に伝ぱされた強制スリープの信号――その原因はどう考えてもピアノにしかない、と。だからその直前で無理やり脳もどきの一部を保護し眠らずにいたのだ。男は私がアンドロイドであることを知っている、そう気づいたから――。
「あのピアノには一体どんな仕掛けをしていたの?」
訊ねた途端、男の目がさらに見開かれ、そしてそっと伏せられた。
「……君がラ・カンパネラを弾いたからだ」
「どういうこと?」
「君が言ったことだ。僕の妻であることを覚えていられたら必ず最初にリストの愛の夢を弾くと。それ以外の曲を弾いたらもう一度眠らせてほしい、と。妻である自分を思い出せるまで何度でも、と。僕は君の願いをすべて叶えると決めているから」
無言で強く見据える私の視線を受け、男が観念したように小さく息を吐いた。
「どこから説明したらいい?」
それに私は端的に答えた。
「全部よ」