7.三百二十五のルール
「イブ? 本当に大丈夫か?」
「……大丈夫。それに私のことなんて心配なんてしなくていいわ」
「何を言ってるんだ。妻の心配をしない夫なんていないよ」
さらりと述べられた発言は、今まさに私の琴線に大きく触れた。
「だから私はあなたの妻じゃないって言ってるでしょうっ?」
勢いよく立ち上がったところで、いまだ空をさ迷っていた両手が強く鍵盤を叩いてしまった。鐘という題名のとおりの荘厳な音色で満ちていた室内に、砂嵐のごとき騒音が響き渡る。だが頭の中は、それよりも激しく騒々しい警告音で満ちていた。
『第一条――アンドロイドは人間に従わなくてはならない』
『第一条二項――ただしアンドロイドは人間の安全の確保を何よりも優先しなくてはならず、これはすべての条項において適用される』
『第一条三項――ただしアンドロイドは人間の種の保存に害をなす行為をしてはならず、これはすべての条項において適用される』
「……『彼ら』からの接触があったらちゃんと妻のふりをするわ。それくらいできる。だからもう私のことを妻と呼ぶのはやめて!」
第一条三項のとおり、私は人間と夫婦になることを禁じられている。
けれど第一条二項のとおり、人間の命を護る義務もあった。
人間の命を護るためであれば妻のふりくらいしてやれる。どんなことでもしてやれる。手を繋ぐこと以上のことでも、なんでも。アンドロイドならば誰でもそのように設計されているものだ――『本当の夫婦』にならなくて済むならば。
それが今の状況、アンドロイドである私にとっての唯一の選択肢だった。
「お願い。妻になることを強いらないで。……私をゆるして」
ゆるして、と言ってしまうのは、自分よりも上位にある人間を相手にしているからだ。
「……そんなに嫌なのか」
「ええ」
「僕の妻にならなければ死ぬとしても?」
男の脅しともとれる低い声音にも、ひるむことなく見つめ返す。
男と結婚をすれば第一条に反した私は永久に動かなくなる――そうなれば、妻がいなくなった男は『彼ら』に殺されてしまう。
けれど私と男が結婚しなくても――私が接触の時だけ演技しつづければ、男は殺されずに済む。
ならばやはり、私にできることは一つしかなかった。
「お願い、分かって……」
――あなたを、人間を救うためにはこれしかないのだから。
しばらく見つめ合っていたが、一変、男が深い悲しみに満ちた表情になった。
「そうか……。やっぱり君には『また』眠ってもらうしかないんだね」
「眠る……?」
脳もどきの中に格納されている辞書は、その単純な一言を別の言葉に変換した。
「あなた……私を殺すの?」
「妻を殺すなんてことはしない。そうじゃない、ただ眠ってもらうだけだ」
だが男の瞳にはあの冷徹な色しか見えなかった。体感できるわけもないのに、その視線からは痛みと冷たさしか感じられなかった。
けれど、その瞳を覗き込んだ瞬間――私はさらなる重大な過去を思い出した。
私はだいぶ前にも一度目覚めている。その時も私は男の妻となることを拒んでいる。すると男は「残念だ」と言ったのだ。「残念だよ」と、私達アンドロイドよりも冷たい青い瞳を向けてきたのだ――。
「あなた……前にも私を眠らせたわね……?」
男の体がわずかに動くのと、私が駆けだすのはほぼ同時だった。
男がこちらに近づくよりも先に、私は男の背後に回り込み、ドアを通り抜けていた。そのままの勢いで階段を駆け上がり、ベッドのある部屋にたどり着くと、内側から急いで鍵をかけた。もちろん、脳もどきから特殊な信号を送ることによって、だ。
「イブ!」
男はあっという間に追いつき、ドアを力任せに叩いてきた。
「イブ! ここを開けろっ」
「嫌よ!」
アンドロイドは人間に逆らってはならない。そう定められている。けれどそれも人間の安全を護るためであれば反古にできる。
ここを開ければ私は眠らされてしまう。
しかしそれは受け入れられなかった。
たかが普通の人間、私のことを人間だと思い込んでいるこの男に、私ほどの高性能のアンドロイドを思うがままに制御できるとは到底思えない。どんな方法を使って私を眠らせたのか、そして記憶を奪ったのか……そこまでは覚えていないけれど、もしも男が手段を誤り私を壊してしまったら、男は『彼ら』に殺されてしまうではないか。
私達二人の心の変化こそに『彼ら』の興味があるというならば――私が動かなくなれば男は用なしになってしまうではないか。
その可能性は無視できないほどに高い。
――だったら私は絶対にここを開けられない。
絶対に、だ。
「でも……分からない……」
さっきから脳もどきが激しく動き回り、キュインキュインとうなっている。
「本当にこれでいいの……?」
自らが鳴らす騒音がうるさくて仕方がない。
「ずっとここに籠っているしかないの……?」
「イブ! ここを開けるんだ! 君はまだ本調子じゃないんだから無茶をしたら駄目だ!」
「ああもう、うるさいっ!」
男の声がうるさいのではない。私の脳もどきがうるさいのだ。尋常でない回転数に達し、音の質が変化しはじめている。キイン……と鳴る異常音によって脳もどきが制圧されつつあり、そのせいで敏感に設計された聴覚がおかしくなりかけていた。
「イブ……!」
これも男が私を思い通りにしようとしたせいなのだろうか。それとも、もう私の脳もどきは寿命に達してしまったのだろうか。脳もどきどころか、体中のあちこちで嫌な感覚がするのは、地球に住んでいた頃には覚えのないものばかりだ。
――そうまでしてこの人は私と夫婦でありたいのだろうか。
いや、それも当たり前か。私と夫婦でいなければ『彼ら』に殺されてしまうのだから。
けれど私には男に説明することがゆるされていなかった。他のアンドロイドにはない特別なルールが私には課せられているからだ。
『第三百二十五条――アンドロイドは自らがアンドロイドであることを暴露してはならない』
熱い……。頭が熱い……。
「イブ……!」
突如、顔を覆う両手がわななき出し、指先から――全身から力が抜けていった。