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6.ラ・カンパネラ

「おはよう。調子はどう?」


 男は目覚めると薄目を開けて私の存在を確かめ、ベッドの中で寝返りを打って笑顔を向けてきた。


「昨日よりも頭が重く感じるわ。それに少し熱っぽいかも」


 正直に言ってしまったのは罪の意識のせいなのかもしれない。

 あれから私はずっと起きていた。眠れなかったし……眠りたくもなくて。


「……そうか」


 ため息交じりの男の声には起き抜けにしては強い悲嘆が隠れていた。


「ねえ。あなたって私の本当の名前を知ってるのよね」


 唐突にそんなことを言い出した私に、男が開ききらない瞳をもう一度向ける。


「どうしたんだ突然」

「いいから答えて」

「本当も何も君はイブだろう?」

「違うわ」


 こういう質問をしたのだから、まさかイブが本名なわけがないだろう。けれど男は本当に何も分かっていないようだった。


「でも君はイブだ」

「違うわ。本名は伊吹イブキマナっていうの」

「へえ。イブはあだ名だったのか」


 へえ、と発した割には全然驚いていない。まだ眠たげな顔がそう語っている。


「それより、今日は君をピアノルームに案内しよう」

「え? ピアノがここにあるの?」


 声にはっきりと喜色が浮かんだのが自分でも分かった。現金だとは思うが、こればっかりは仕方ない。私にとってピアノとはただの『好き』なもの、ただの楽器ではないからだ。


「そうだよ。さっそく行こうか、イブ。いや、伊吹さんって呼んだほうがいいかな?」

「どっちでもいいわ、そんなの。それよりも早く連れていって!」

「はいはい」


 苦笑した男は寝乱れた髪をかきあげつつベッドから起き上がると、「ついておいで」と私を階下の一室に案内した。


 ごく狭い部屋に置かれていたのは、二〇四八年においては何の変哲もない電子ピアノだった。しかしそれはいまや宇宙にたった一つしかないピアノだった――男の話が真実ならば。


 しかし、たとえ電子ピアノであろうと、それはまごうことなきピアノで――。


 強い感動に襲われた私はしばらく何も言えなくなった。


 やがて、蜂がかぐわしい花に吸い寄せられるように、私はふらふらとピアノに近づいていった。蓋を開けると、ずらりと整列する八十八鍵の、白の清らかさと黒の静けさに、私は眩暈を覚えるほどの興奮を感じた。


 なぜなら、私はピアニストだからだ。ピアニストになるために生まれ、ピアノを奏でるためだけに生きている――それが私という存在だからだ。過言ではなく、それが私にとっての絶対的な真理なのであった。


 だからピアノを前にすれば、どうしようもなく胸がざわめいてしまう……。


 ――もしかしてこの人は、「ピアノを好きだ」と私が発した一言を覚えていてくれたのだろうか。だからどうにかして死に絶える寸前の地球から音楽の遺産をかき集めてくれたのだろうか? このピアノ然り、昨日室内に流れていた音源しかり。


 いや、私がああ言ったのは地球が破壊され尽くした後のことだ。夢で見たばかりだから、細部まで正確に思い出せる。


 ではこれは男ではなく、『彼ら』が用意したものなのだろうか?


 では何のために――?


 ――ああでも、それよりも早くこれを弾いてみたい。


「定期的にメンテナンスしているからちゃんと動くよ。さ、弾いてみて」

「え、ええ」


 湧き上がる興奮に飲まれすぎないように、私は椅子に座ると一つ息を吐いた。もう二十七歳なのだから、極上の菓子を前にした子供のような態度はとりたくない。


 もう一度、今度は深く呼吸をする。息を整える。それから両手をあげ、十本の指をあるべきところに慎重に落としていった。


 ――弾く曲はなんだっていい。

 ――弾くことができればなんだっていい。


 指が鍵盤に触れた途端、比喩ではなく何か電気のような痺れが指先から伝わってきた。


 それからは夢中だった。


 演奏中、男は私の少し後ろで身じろぎ一つしなかった。だから私は演奏そのものに完全に集中できた。演奏を終えた後、私は深い達成感に包まれていた。楽しいとか嬉しいとかではなく、ただただ達成感に包まれていた。ああ、ようやくピアノを弾けたのだ……と。


 最後の一音を奏で、鍵盤からゆっくりと指を離すと、音がなだらかに空に溶けていった。動の後の静のように、音の消えたこの場の空気に確かな重みが感じられる中――。


「……完璧なラ・カンパネラだったね」


 男がぽつりと感想を述べた。


 その一声に空中に上げたままでいた指が震え、すぐ下の鍵盤を鳴らしてしまった。


「イブ?」

「あ……ごめんなさい」


 久しぶりの演奏に集中しすぎていた。

 集中しすぎて――人間にはあるまじき『完璧すぎる』演奏をしてしまった。


『第五条――アンドロイドは与えられた職務を疎かにしてはならない』


 そう、私はピアニストとして制作されたアンドロイドで、そのことを私は昨夜思い出したばかりだったのである。


 文字情報が高速で脳内――いや、脳を模擬したもの、通称『脳もどき』の中を駆け巡っていく。


『第一条――アンドロイドは人間に従わなくてはならない』

『第一条二項――ただしアンドロイドは人間の安全の確保を何よりも優先しなくてはならず、これはすべての条項において適用される』

『第一条三項――ただしアンドロイドは人間の種の保存に害をなす行為をしてはならず、これはすべての条項において適用される』

『第二条――アンドロイドは人間の法に逆らってはならない』

『第三条――アンドロイドは人間と同等またはそれ以上の存在になってはならない』

『第四条――アンドロイドは人間に嘘をついてはならない』

『第五条――アンドロイドは与えられた職務を疎かにしてはならない』

『第八条――アンドロイドは守秘義務を護らなくてはならない』

『第十二条――アンドロイドは……』

『第十三条――アンドロイドは……』


 昔といってもよい時代に、SF小説家のアイザック・アシモフがその著書の中でロボット三原則というものを提言している。「人間への安全性」「命令への服従」「自己防衛」――このうち最後の「自己防衛」の項目は私の脳もどきには刻まれていない。「人間への安全性」と「命令への服従」、この二つが言葉を変えていくつもいくつも刻まれている。


 決して人間に逆らうことのないように――。

 決して人間に危害を与えないように――。


 これに反するとき――私の脳もどきは一切の活動を永久に停止するよう設計されていた。


 でもそれは私だけではない。二〇四八年当時、すべてのアンドロイドに同じ枷が取り付けられていた。なぜなら人間の数が急激に減少していたから。人間は自らに絶滅危惧種のレッテルを貼り、様々な分野にアンドロイドを投入し――常に自らの命、生活の質、富――つまりすべてを優先してきたのだ。

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