2.僕は君の夫だ
視界の下の方で直射日光の欠片をとらえ、その衝撃で私は目を覚ました。
なんだか頭が重い。ゆっくりと体を起こすと、自分が踝までの長さの白いワンピースを身に着けていて、毛布もタオルケットも、何もかけずに寝ていたのだと気づいた。風邪をひいてしまったのかもしれない。
背を立てると、肩から胸にかけて長い髪がはらりと流れた。艶のある栗色の髪はふくよかな胸の上を滑り、そのまま臍のあたりまで落ちていった。
「……私の髪、こんなに長かったかしら」
ノースリーブから伸びる腕にも違和感を覚えた。やけに長くて――そしてきれいだ。
と、最大の違和感の源に気づいた。
「ここは……どこ?」
私が眠っていたのは見知らぬ場所だった。
まず室内のそっけないほどの簡素さに意識が動いた。たった今まで眠っていたベッド、それにもう一つ同じ形のベッドが並んでいる以外には、室内には何もなかった。もう一つのベッドはシーツに若干の乱れがあり、誰かがそこで寝ていたのだという事実をはっきりと私に告げてきた。相部屋だということは、私の他にも誰かがここで暮らしているのだ。
ベッドから降りる。壁の一面にある鏡面のようなドアは、私が近づいただけで音もなく自動で開いた。ドアの向こうにはごく短い廊下があり、その奥には下に降りることのできる階段が見えた。
裸足でぺたぺたと歩いていく。ひんやりとした感触を足の裏が感じるたびに、ぼんやりとした頭が刺激され、覚醒していくようだった。
長くもない階段を半分ほど降りたところで、ピーピーという単調な一音の繰り返しを耳が捕らえた。階下のどこかから鳴っているのだ。
あれはいったい何の音だろう、そう思ったのは束の間のことだった。今は音の区別なんてどうでもよかったからだ。実は私は先ほどから幾分焦っていた。なぜなら――大切なことを何一つ思い出せないでいる。
ああ、それよりも……。
私にとって大切なこととは一体なんだったのだろう……。
「……イブ?」
階段を降りきる直前で、どこか遠いようで近い距離から声が聴こえた。
「イブなのか?」
薄暗い場所に、ぼんやりと誰かが立っている。
ピー、ピー。
「起きたのか?」
歩みを止めた私と違い、その人は躊躇なくこちらに近づいてくる。そしてお互いの姿と顔を確認できるほど接近し――目が合ったところで、
「近寄らないでっ!」
私は本能のままに叫んでいた。
初対面だということを抜きにしても、男の存在はなぜか恐怖でしかなかったのだ。
起き抜けのせいか、出てきた声は他人のもののように感じる。
「お願い、こっちに来ないでっ……」
全身を硬直させて後ずさりする私に、その人――男は困ったような顔をした。そうすると目元や眉間に簡単に皺ができた。見た目どおり、男は四十近い年齢のようだ。
「イブ、怖がらないでくれ」
「イブ……?」
「そうだよ。イブ、それが君の名前だ」
「私の名前……?」
キュインキュイン……。
聞き覚えがあるような、ないような音がどこからか聞こえ出す。男の向こう側で発せられているピーピーという単調な音の連続とともに耳にしながら、しばらく考える。と、ようやく思い出した。
「そう……私の名前はイブ」
思い出した、というのが実に正しかった。
「どうして私、自分の名前も忘れていたんだろう。……待って! 近寄らないでっ!」
男が半歩ほど近づいたところで足を止めた。
「君に近づいたらいけないかな?」
「ごめん、なさい。でもなんだか怖くて……」
キュルキュル、キュルキュル。
目まぐるしく動く思考の中、本当のことを言えば私はこの男の前から逃げ出したかった。階段を上り元いた部屋に戻りたかった。
あの部屋に一人で籠ってしまいたくて――たまらない。
ややあって男が悲し気に目を伏せた。
「人が怖くなっていても仕方ないね」
「そう……なんですか?」
「ああ。君は暴動に巻き込まれて以来、ずっと意識を手放していたから」
「暴動……?」
「ああ、やっぱり覚えていないか」
顔を上げた男の表情からは幾分陰りが消えていた。
「だと思ったよ。簡単に言うとね、君はとある暴動に巻き込まれて大怪我を負ったんだ。それから長い間、君はポッドの中で眠っていた。治療が終わった後に一度目を覚ましたけれど、その時も君は何も覚えていなかったんだ」
「ポッド……って何ですか」
「ああ、うん。自動治療装置って言えば分かるかな」
「自動? 病院とかお医者様ではなくて?」
「ああ、そういう知識……うん、いや」
男が少し言葉を濁らせる。
「いくらか記憶は残っているんだね。よかった。でもそれはもう一昔もふた昔も前のやり方だよ」
「えっ」
「今は違う。なんて言えばいいんだろう……そう、全身が入る入れ物っていうか、寝袋のような箱っていうか……そういうものなんだけど分かるかな」
「……よく分かりません」
「あとで見せてあげるよ」
男が浮かべた笑みに、なぜだろう、私はこれまで以上に強い戸惑いと警戒心を覚えた。
「いいえ。けっこうです」
それよりも、と自分から話をつづけたのは、そうしなければこの場の空気が悪くなりそうだったからだ。なのに視線をそらしてしまったのは、男と見つめ合うことに不快感を覚えたからだ。
不快……こんなふうに強すぎる言葉でたとえるのは失礼なことなのかもしれない。けれど、どう譲歩しても快適とは言い難かった。
男は先ほどから不躾なほどに私を見つめ続けている。
深い海を思わせる青い瞳で。
「ここはどこなんでしょうか……。病院、ではないんですよね」
ノースリーブのワンピース一枚の恰好が急に頼りなく思えてきて、むき出しの二の腕を両手で抱きしめつつ、あらためて周囲を見渡していく。
「デジタルディスプレイがたくさん。普通の家ではないけれど、会社や研究室のような場所でもないし……」
ダークグレイに囲まれた空間は、木工製品や自然の草花などから感じられる温かみとは無縁だ。
「どこか近未来的な感じの場所ですね。映画やアニメに出てくるような」
くすっと、男が笑った。
「今は西暦何年か分かる?」
「二〇四八年だと思いますが……もしかして違うんですか?」
訊ね返しながら、つい男の方を見てしまった。
男はやはり私の方を見ていて、目が合うや笑みを深めた。
「今は二〇六一年だよ」
「……本当ですか?」
「ああ。君は本当によく眠っていたからね。で、さっきの質問だけど、ここは宇宙船の中だよ」
「宇宙船……?」
「ああ、君は僕の言葉を信じていないね」
茶目っ気のある表情で男がわざとらしく腕を組んでみせた。そうすると親しみやすい雰囲気がして、男に対する初対面からの不可解な感情、恐怖のようなものが幾分薄れた。
「すみません、まだ状況が飲み込めてなくて」
頭を下げると、栗色の長い髪がさらさらと肩を滑り目の前に垂れた。ああ、この長い髪も『よく眠っていた』せいだったのだ。耳に髪をかけながら頭を上げる。
「覚えているかぎりだと、二〇四八年は一部の裕福層が宇宙旅行にでかけてはいました」
「うん」
「でもまさか、ただの一般人の私が乗ることになるとは思わなくて」
自嘲気味に語ると、男は意外にも笑みを消して真剣な面持ちになった。
「君は一般人なんかじゃない。特別な存在だ」
特別――そう他人から評されて嬉しくない人はごく少数だろうけれど、今この時の私はまさにその少数派だった。なぜなら何も覚えていないからだ。
「あの、あなたは」
名前と素性を訊ねたつもりだったのに、男は「僕は君の夫だ」と別次元からの回答をしてきた。
「……夫?」
「ああ」
私は未婚のはずで、恋人も許嫁もいなかった――はずだ。
なぜなら――。
けれど私が口を開くよりも先に「起きたばかりで出歩いて大丈夫なのか? 体調は?」と訊ねられてしまい、機会を逃してしまった。……ううん、本当の理由は違う。本当のことを言っていいものかどうか、一寸迷ったからだ。
「大丈夫です。……あの、少し喉が渇きました」
それに男は軽く息を止め、それからほほ笑んでみせた。
「じゃあ飲み物を用意しよう。詳しく話すのはそれからだ」