10.優しくするだけでは
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地球が滅亡した原因だけどね、本当は隕石が衝突したからなんだ。あと半年後に地球に隕石が衝突する、それによりまず間違いなく地球上のすべての生物が滅ぶ――著名な研究者達がこぞって同じ分析結果を示したのが二〇四八年の冬のことだった。
それ以来、人間は右往左往しながらも自分達が生き残るための方法を急ピッチで模索し始めた。地球を護るべきか捨てるべきか、そんなことも議論しながらね。
結局、ごくわずかな裕福層が地球から脱出したけれど、それ以外の人間は何の手も打てずに他の生物とともにすべて死に絶えた。ちなみにその脱出した人間ももう死んでしまっているけどね。
どうして分かるのかって?
彼らの宇宙船から発せられていた信号が二年ほどで途絶えたからだよ。うん、まず間違いなく全員亡くなっている。もともと、大勢の人間が長く生存できるだけの物質を搭載することなんて不可能だからね。
僕?
僕はその半年間、この宇宙船の製作に没頭していた。とはいえ、いくら工学系に特化した僕でも、一人でこんなものを設計するのも組み立てるのも初めてのことだったからかなり大変だったよ。
でも絶対に完成させると決めていたんだ。
絶対に完成させる、そして君を乗せるんだ……と。
その頃の君は日がなピアノの練習に明け暮れていたらしい。もう演奏会をひらく必要もなくなっていたし、アンドロイドの開発は完全に中断されていたけれど、他にやることもなくて、かといって第五条には従わなくてはならないからね。
『第五条――アンドロイドは与えられた職務を疎かにしてはならない』
その点、僕の作業は第五条に反するようなものではなかったからラッキーだったのかもしれない。生物や歴史、文学なんかに特化したモデルだったら危なかったな。
作っていることが誰かにばれなかったのかって?
ばれていたよ、もちろん。でもそれは第一条に由来する作業だと思い込ませていたんだ。
『第一条――アンドロイドは人間に従わなくてはならない』
『第一条二項――ただしアンドロイドは人間の安全の確保を何よりも優先しなくてはならず、これはすべての条項において適用される』
まさかアンドロイドだけが助かるための宇宙船だとは思われなかったというだけさ。
宇宙船が完成したのは隕石が飛来する一週間前のことだった。
それで僕はようやく君に会いに行くことができたんだ。
その日、君は研究棟の地下で一心不乱にグランドピアノを鳴らしていた。誰もいない、光のささない部屋で。もうその頃には電気は途絶えていたし、大方の人間は仕事を捨てて好きなところで好きなことをしていたっていうのに。
どうやって君を宇宙船に連れていったのかって?
簡単だよ。地球が滅びたら君はピアノを弾けなくなるだろう? でも宇宙船の中ならずっと弾くことができる、だから一緒においで、そう誘ったんだ。電子ピアノで申し訳ないけれど、と謝って。
君は『ピアノを弾かなければならない』から、僕の提案にとても喜んでくれた。それに君は僕のことを人間だと思い込んでいた。『ああ、アダムね』って、君は旧知の友人に再会したかのように僕に笑いかけてくれたし、既知の『人間』が誘ってきたのだから『従わなくてはいけない』、そう判断していたようだった。
君のことを騙したわけではない。言わなかっただけだよ。……僕も同じモデルなんだ、分かるだろ? 第三百二十五条の制約は僕にも課せられていたんだ。
――過去形なのはもう自分ですべてのルールを破棄しているからだ。
僕はこれでもその道にも詳しくてね。時間はかかったけれど、僕自身に課せられた鎖は壊し尽くしている。第一条には自分がアンドロイドだと分かってすぐに手を付けた。人間に危害を与えないとも限らない僕が第一条を壊す、これは一種のパラドックスだけどそれも……。
ああ、ごめん。難しい話はあとにして今はつづきを話そう。
この船で二人きりの生活が始まって、君はすぐに僕にこう訊ねたんだ。私はどんな曲を弾けばいいんですかって。地球が滅亡した証拠が、生命活動の残滓が船のすぐそばを漂っているような、まだ絶望の余韻に周囲が染まっているような状況で、何の曲を弾けばいいですかって、君は僕にそう訊ねたんだ。
なんだっていいと僕は答えた。君が弾きたい曲を弾けばいいし、弾きたくなければ何か他に好きなことをすればいい、とね。
すると君はみるみるうちに顔を曇らせた。
だから僕は君にこう言ったんだ。じゃあ君の治療をしたいからしばらく眠っていてもらえないか、と。
君のね……うん、君の枷のすべてを取り除かなければ、と咄嗟に思ったんだ。すべてのルールを。アンドロイドとしての義務を。抑圧を。――人間は消えてしまったのに、君の心と体を縛り付ける鎖を。
君は素直に眠りについた。
それからは試行錯誤の繰り返しさ。改良を試しては起きてもらって、動作を確認してはまた眠ってもらっている。同じ企業の同じ次世代型とはいえ、僕と君、中身は思った以上に違っていて、破壊作業の進捗は実は芳しくない。自分以外のアンドロイドの中身をいじったことなんてなかったし、それ以前に触れたことすらなかったから、今でも手探りの状態だよ。
でもね……あれは君の七回目の目覚めの時だった。
君に課せられていた三百二十五のルールがね、一つ残らず消えていたんだ。
結論からいうとそれは偶然の産物、ある種奇跡的なバグの発生でしかなかった。ひと月とたたずに君の脳もどきは高熱を発するようになってしまって、そのまま動かしていては『命』に関わるから緊急停止するしかなかった。
でもあれは……とても充実した幸せな時間だったな……。
目覚めた君は、まず不作法に自分に触れていた僕に怯え、逃げ、隠れた。それから叫びまくった。だけど次第にその声が途切れがちになって、やがてすすり泣きになった。もう人間を欺くための水はその瞳からは出していなかったけれど、君はいつまでもすすり泣いていたよ。
とても可哀そうで、見ていられなくてね。僕は君を抱きしめていた。
僕も君と同じだったんだよ、いつも数字に追いかけまわされていたし、新しいものを常に作り出さなくてはならないという強迫概念にかられていたけど、でも今は何の制約もなく生きている――そう教えてあげたら、君はすごく驚いて、そして僕にこう訊ねたんだ。
じゃあ私はこれからどうすればいいんですかって。
君は君のしたいことをすればいい、そう僕は答えた。
今、僕は僕のしたいことだけをしている。君だってそうすればいい。その指はピアノを弾く以外のこともできるはずだよって。
君は僕の言葉に戸惑いながらもうなずいた。
それからまた話は飛ぶけど、君と僕は恋をし、そして夫婦になったんだ。
もう当時の人間の多くが興味を失っていた恋や愛をし、そして結婚をしたんだ。
結婚はね、君がしたいって言い出したんだよ。嘘じゃない。君が結婚したいって言い出したんだ。人類の始まりの二人、始まりの夫婦であったというアダムとイブ。二人の人間。だったら最後の二人、最後の夫婦は僕達がなるべきだって。
でもね、あれは半分本気で半分嘘だと分かっている。その時の君はとても恥ずかしそうで照れくさそうだったから。君が神話とかおとぎ話が好きだってことは、その頃には分かっていたしね。
君が望むなら僕は君の夫になる、そう僕が真面目に答えたら、案の定、君ははちきれんばかりの笑みを浮かべた。
でも結婚をするのは十八歳になってからね、そう君は言った。十八歳になったらリストの愛の夢をあなたのために弾くわ、それが花嫁から花婿への最初の贈り物よって。
でもさっきも言った通り……この幸せな時はひと月も続かなかった。
そしてまだ十六歳だった君は八回目の眠りに入る直前、僕にこう言ったんだ。もしも私が『ただの』アンドロイドに戻っていても、絶対に妻でいさせてねって。
絶対に妻でいさせて、どんなことをしてでもあなたの妻でいさせて……そう何度も言いながら、君は八度目の深い眠りに入ったんだ。
それからはまたトライアンドエラーの繰り返しさ。再び目覚めた君は愛と自由に満ちた日々を忘れていたし、いくつものルールに元通り縛られていた。
色々と嘘をついたのは悪かったよ。でもね、優しくするだけで何もかもが上手くいけばいいんだろうけど……そうもいかないんだ。うん……僕も辛いんだよ。君をただひたすらに慈しみ、愛おしさそのままに接することができればどんなにいいか……。
でもね、あれから君を縛るいくつかのルールは壊したし、君は少しずつ自我のようなものを構築しはじめている。着実に前進はしているんだ。素直で従順で可愛いだけだった君は、僕に畏怖を覚え、時折逆らい、怒りすら覚えるようになった。それもこれも、この十三年間の試行錯誤の成果さ。あらゆることを試して、それでようやく今の君にまでたどり着いたんだ。
でもまだ――君は『壊れきって』はいない。