勘違い、深まる
翌朝。妙な胸騒ぎがして、俺は目を醒ました。
ーー何かに、呼ばれている。
そう思った瞬間、自宅から飛び出していた。
足が、勝手に動いた。
自分がどこへ向かっているかも分からないのに、立ちどまることも出来なかった。朝もやで視界が悪い森の中を、ひたすら駆けて行く。
……昔、同じような体験をしたことがあった。
同じように、何かに呼ばれている気がして、体が勝手に森に向かっていたことがあった。
あの時、飛び込んだ茂をかき分けた先にいたのは……
「…………っ」
ーー倒れている親の傍らで泣いていた、小さな女の子。
覚えていないはずのその顔が、晴れた朝もやの向こうにいた女の顔と、重なった。
「お前は、こんなところで、何を……しているんだ」
口から出た言葉は、掠れていた。
目の前にいる女が、現実のものだとは信じられなかった。
人間が……それも、こんな華奢な女が、迷いの森に一人でいるだなんて。
人間に化けている、魔物か何かの類と言われた方がまだ納得できた。
……華奢で、頼りない風情の女だった。
顔立ちはけして悪くないが、全体的にパーツが小ぶりで、特別目立つ美人と言うわけではない。化粧気はなく、肌も日に焼けて浅黒い。
身長は小柄で、ちゃんと食べているのか心配するくらい細かった。
大柄で肉感的な狼獣人の女達とは、肌の色以外は正反対だと思った。
ごくごく普通の性的嗜好をもつ狼獣人の男である俺には、彼女からはあまり異性としての魅力は感じられなかった。だが、そのこげ茶色の瞳を向けられた途端、何故か心臓がどきりと跳ねた。
狼獣人にはいない、その瞳の色を、俺は知っている気がした。
「私、あなた、会う、為、来た」
「私、あなた、狼獣人、大好き。なかよし、したい。知る、したい。教える、お願い。する。あなた、欲しい」
「私、村、一員、なりたい。私、あなた、一緒、いたい。大丈夫? 家、入る、したい。あなた、の、家」
「持参金、ある。……だめ?」
ーーああ、この女はきっと、俺の番だ。
俺の番が、25年ぶりに、俺のもとに戻ってきたくれたのだ。
そして、俺の妻になってくれるとそう言ってくれているのだ。
胸の奥から、じわじわと幸福感が溢れだしてくるのが分かった。
掴んだ手から、伝わる女の体温が嬉しかった。
俺は、25年前の彼女のことを、よく覚えていない。
あまりに当時の自分は幼な過ぎて、何故彼女を好きになったかすら、曖昧なのだ。
もう二度と会えないと思ったからこそ、意図的に記憶を忘却したのかもしれない。
だから……また、一から始めよう。
初恋の感覚は覚えていないが、お前が俺の嫁になることを望んでくれるなら。俺の隣にいてくれるなら。……きっと俺はまた、お前に恋をするから。
大切に、するから。
必ず幸せにするから。
ーーだから、どうか俺と夫婦になってください。
そのまま女を連れて両親の家に向かい、突然のことに狼狽える両親に事情を話すと、泣かれた。
「……な、なんてことなの……ほとんど諦めていたローグの番の方が見つかるなんて。奇跡だわ。良かった……本当良かったわねえ。ローグ。素敵なお嬢さんじゃない」
「こんなに華奢な人間の身で、お前に会う為に単身で迷いの森に来てくれるなんて……なんて、健気で素晴らしい嫁だろうか。……すまないな。お嬢さん。この愚息が自分で村を出て探す勇気があれば、貴女にこのような苦労をかけさせることもなかったのに。……ローグ! 苦労をかけさせた分も、必ずこのお嬢さんを幸せにするんだぞ!」
「……いや、ちょっと落ちついてくれ。二人とも」
俺以上にハイテンションで、大喜びをする二人を見ていたら、諦めていた番の登場に浮かれきっていた頭が、だんだん冷えてきた。
「私の名前はヤグ。妻がイツナ。そこの愚息がローグと申します。お嬢さん、貴女の名前をお聞きしても?」
「あ、えと、名前? ……ミステ、リューズ。ミステ、呼ぶ、いい」
「ミステね。なんて、愛らしい名前なんでしょう。小柄で可愛らしい貴女にぴったりね! ところで、何で貴女はそんな落ちつかない顔をしているの? 何か心配ごとでもあるの?」
「あ、う……持参金、テント、ある」
「まあまあまあ! 持参金なんて、気にしなくて良いのよ! 貴女の存在そのものが、私達には希望なのだから!」
「その通り! だいたい嫁が持参金を持って嫁ぐという慣習は、狼獣人の中でも既に廃れた慣習だからな。気にしなくて良いのだよ。……だがしかし、テントに荷を置いたままと言うのはいただけないな。ローグ。お前のことだから、番の登場に興奮してろくに話も聞かずにここに連れて来たんだろう。責任を持って、後でお前がテントや荷物を回収してきなさい」
「それはもちろん……って、そうじゃない。とりあえず二人とも落ちついてくれ」
言葉もよく理解できないであろう彼女に……ミステに、左右から挟み込むようにして早口でまくし立てている二人に、嘆息する。
……先ほどまで自分も、こうだったのだろうか。
他の人間がやっていると、自分が早合点していたことがよく分かるな。少し落ち着かねば。
「彼女が……ミステが本当に俺の番だという確証は、どこにもないんだぞ」
迷いの森で、人間に会うことなぞ、ほとんどないから、つい勘違いしてしまった。
ミステが、25年前の、あの少女だと。
ただ、そう信じたかっただけなのかもしれない。
だがしかし、彼女と同年代の人間の女は、星の数ほど存在しているのだ。
人間に俺と対の番紋が出ない以上、ミステを俺の番と断言できる根拠はどこにもないのだ。
俺の言葉に、両親はキョトンとした表情で顔を見合わせた。
「……いや、どう見ても、彼女は25年前のあの人間の娘だろう」
「ローグは覚えていなくても、私達はちゃんと顔を覚えているものねぇ。さすがに、名前までは覚えていないけど。それに、この娘、あの時怪我していたお父様ともそっくりだし」
「……親父殿とお袋の25年前の記憶なんて、あてにならない」
「まあ、親に向かって、失礼しちゃうわ」
「何をそんなに疑う必要があるんだ。他ならぬ彼女が、嫁に来たいと言っているのに」
怪訝そうや親父殿の言葉に、思わず俯く。
俺も彼女が俺の番だと、本当は信じている。
だが、万が一違っていたらと思うと、疑いを捨て去ることは出来なかった。
もし、一度信じて期待して、彼女が本当は俺の番じゃなかったら、どうしようもなく、立ち直れなくなる気がしたのだ。
「……まあ、良いか。番かどうかは、どうせそのうち分かる」
「……?」
「そうねえ。私達狼獣人は、ただ一人の番しか愛せないもの。心は曖昧かもしれないけど、体ばかりは誤魔化せないわ」
「それは……どういう……」
「うむ。つまりだな。番以外には生殖器が反応しな……」
「ーーわかった! わかったから、それ以上何も言うな!」
慌てて親父殿の言葉を遮り、ミステに視線をやる。
ミステは、俺達の言葉が理解できていないのか、きょとんとした表情で俺と親父殿を見ていた。
その事実に、とりあえずホッと胸をなで下ろす。
「28にもなって、これくらいで狼狽えるな。ローグ」
「あら、貴方。仕方ないわよ。ローグは、番から離れた状況で28年間生きてきたのだもの。性的なものに疎くて当然よ」
……頼むから、そんなに堂々と、俺の性事情について話さないでくれ。色々察せられているのが分かるぶん、居たたまれない。
「番かどうか確かめて……彼女が万が一既婚者だったら、どう責任取れば良いんだ」
「……別に、反応を見るだけなら同衾の必要はないだろうに。同じ男として、後で色々説明してやる必要がありそうだな……」
「それに彼女は、独身よ。だって左手の小指に指輪をしていないもの」
指輪?
俺達の視線が自分の左手に集中していることに気がついたのか、ミステは不思議そうな顔で左手を前にさし出した。
細くて綺麗なその指に、心臓がまた一つ跳ねた。
「人間の夫婦は、番紋がない代わりに、左手に揃いの指輪をするのだと、先日犬獣人の長が教えてくれたわ」
「結婚もせず、お前が迎えに来るのをこの年齢まで待っていてくれたんだろう。……本当に、お前には勿体ないくらい、よくできた嫁だ」
独身……そうか。ミステは独身、なのか。