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25年前の邂逅

「ミステリューズ教授。この狼獣人に関する研究図書は、貴女のお父様であるハルノート教授が出版した中で、一番のヒット作です。もちろんご存知でしょう?」


「それは……もちろん、知っているが……」


 知っている。むしろ愛読書と言っても良い。この本が、私が文化獣人類学を学ぶきっかけになったと言っても過言でない。

 だが知っているからこそ、余計に躊躇してしまう。

 何故なら、この本果は偶発的状況から生まれたもので、その後いくら望んでも、父がこれ以上研究を重ねることができなかったことを、私は誰より知っているからだ。


「25年前……たまたま父は、狼獣人の村人から助けられる形であの村にたどり着くことができた。だが一度村から離れた後は、どれほど探しても、あの迷いの森を抜けることはできなかったんだぞ? そんな所に、私が潜入できると思うのか?」


 獣人と人間が、長い闘争の末に和解し、同一社会の中で共存するようになってから、ゆうに200年は経過している。

 それぞれの……特に人間側から獣人に対する差別意識は完全になくなってはいないものの、今では双方の関係はそれなりに穏やかなものになり、異種族ながらも互いに愛し合って子を成しているカップルもさほど珍しくはない。人間と獣人のハーフから成る共同体も、あちこちで見られるくらいだ。

 しかし狼獣人だけは例外だ。彼らはそんな現状においてなお、人間と……否、同じ獣人である他種族とすら、ほとんど交流することなく、独自の共同体を築いて、200年前と同じ旧態依然の生活を続けている。

 彼らが生活している村は「迷いの森」と言われる、独自結界か張り巡らされた森の奥深くにあり、村人から招かれない限りは、村に入れないようになっている。

 そして村人自身も村を出ることは至極稀であり、その交流相手もごくごく限られた信頼おける者のみとなので、その生活実態は今もなお謎に包まれているのだ。

 ……そんな所に、私が潜入できるのだろうか。



「確かに、とても難しい研究だと思います。猫獣人の長の孫娘として生まれた私ですら、未だに狼獣人の姿を見たことはありませんから。……だけど、だからこそ、今のように獣人の生態が一般的になった世の中でで、読者の関心を集める文化獣人類学的題材は、狼獣人の生態記録しかないのです」


「……生態記録って……そんな動物に対するような言い方は……」


「……また、教授はどうでも良いこと気にしますね。言っておきますが、獣人からすれば、教授がそう言う風に気にすることの方が、人間側の無意識の傲慢だと感じますよ。だって私達は自らの獣性に誇りを持ってますから。獣と扱われるのも、人間と扱われるのも、どちらも同じこと。何なら、数え方が、匹や頭でも気にしません」


 ……そ、そんな所にも、人間である私の無意識な差別意識が表れているのか……! ショックだ。

 しかし、この事実は興味深い。実に興味深いぞ。

 これは次の論文のタイトルは敢えて「生活実態」や「文化形態」などの言葉を使わず、「生態」と言う言葉を使うべきかもしれないな。そうすることで文化獣人類学会に、新たな風を入れることができそうだ。

 ……て、違う。違う。今はそういう話じゃない。

 そもそも研究自体成り立つかというのが、問題なんだ。


「まあ、でも多分大丈夫ですよ。ミステリューズ教授ならきっと迷いの森を抜けれます」


「無責任な……何を根拠に」


「根拠は、この本です」


 アミーラはにいっと笑いながら、本の導入部分を開いて私に突きつけた。


「だって、あの迷いの森の中で、最初に狼獣人に出会ったのは、ハルノート教授ではなく、当時3歳のミステリューズ教授だったんでしょう? 一度出来たなら、きっと出来ますって」





『ーーだれか……だれか、おとうさんを、たすけて』


 誤って崖に落ちて気を失った父の傍らで、泣きながら助けを求めていた。

 木々の間から降り注ぐ雨が冷たくて。

 遠くから聞こえてくる、正体もわからない獣の遠吠えが、怖くて仕方なかった。

 きっとこのまま、私は父と共に死んでしまうんじゃないかと思った。

 その時、隣の茂みが揺れてーー……。




「ーー残念だが……私が出会ったと言っても、あの時はまだ3歳だからな。狼獣人のことは、ほとんど記憶がないんだ」


 あの森の中で恐怖に泣いていた記憶だけはとても鮮明なのに、その後の記憶は、25年経った今となっては、ほとんど覚えていない。

 字を読めるようになって父が書いた本を読んで初めて、私と父を助けてくれたのが、狼獣人だったのだと知ったくらいだ。

 かろうじて覚えているのは……ああ、そうだ。村には、とても愛らしい子犬がいたということくらいだな。それ以降、犬を飼いたくて仕方なくて、父に子犬を強請って困らせていた記憶がある。

 ……せっかく、狼獣人と邂逅という貴重な状況を経験しておきながら、覚えているのが子犬の記憶だというのは、文化獣人類学の研究者として実に口惜しいな。子どもだったのだから仕方ないが。


「それ以降、迷いの森に行ったことはありますか?」


「いや……私はないが」


「なら、やっぱり駄目元で試してみましょうよ。もしかしたら、前回のそれで、土地との関係が縁付いてるかもしれませんし。ほら、一度通過した人は通してくれる結界って結構あるじゃないですか」


 ……それなら、一緒に村に滞在していた父も、同じように通れたと思うのだが。


 しかし、改めてこう言われてみると心惹かれるものがあるのも確かだな。

 研究者としてあまり認めたくはないが、未知の種族に対する純粋で原始的な知的好奇心は、私にもある。

 ……どうせ、今は他に研究したいテーマもない。このままなら、出版契約は打ち切り。ひいては研究資金が足りずに、大学を追い出される羽目になるんだ。

 研究が成功して本が売れれば、次の研究の為の資金も貯まり、世間の文化獣人類学に対する知名度も上がって、あの下等理事長にひと泡吹かせることもできるかもしれない。

 ここで一発、大博打を打ってみるのも悪くないだろう。


「ーーよし、わかった。次年度の前期分、まるまる休暇を申請し、狼獣人の村に潜入してみることにしよう。私はこの研究に、文化獣人類学者としての人生を賭けるぞ!」


 私の言葉にアミーラは、しっぽをピンと立てて、顔を輝かせた。


「本当ですか!? よかったー。こんなにあっさり決断して下さるんなら、変な遠慮せずにもっと早く打診すればよかったです」


「? 遠慮なんかする付き合いでもないだろう。何をそんな言い渋っていたんだ」


「いやだって……ミステリューズ教授、独身でしょう?」


「それがどうかしたか?」


「実は数年前から企画自体はあったんですけど、うら若き独身女性を未知の獣人の村に潜入させるなんてという声が編集部で上がりまして。せめてミステリューズ教授が結婚するまでは保留ってことになっていたんですが……いやはや。結婚する前に、うら若くもなくなってしまいましたね」


「…………」


「ところで私、人間の平均結婚年齢ってよく分からないんですが、いくつくらいですかね? ちなみに、猫獣人は16で結婚が普通で、私は晩婚なので20で結婚したのですが」


「………今は男も女も、だいたい、18くらいだな。最近では、仕事を優先するあまり晩婚の男女も増えているが、遅くとも25までにはだいたい結婚している」


「………あれ。ミステリューズ教授って、25年前に3歳って言ってましたよね。なら今の年齢は……」


「28だ! ちなみに、結婚予定はもちろん、付き合っている相手すらいない! そもそも28年間で、男女交際に発展した異性すら皆無だ! 悪いか!」


 ーー文化獣人類学の為に、人生を捧げて来たんだ。

 恋愛経験が皆無だとしても、仕方ないだろう………っ!


 

 

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