深まる、気持ち
ミステはこんなにも華奢だ。きっと通常の狩猟ですら、ほとんど見たことはないだろう。
鹿を殺せば、こんなに血があふれることすら、知らなかったかもしれない。だからこそ、あんなに無邪気に、俺の狩りに同行することを望んだのだと思えば、色々納得できる。
それなのに俺は、そんなミステのショックを益々煽るような、獣に近い荒々しい方法で、鹿を仕留めた。……一見人間と変わらない姿の俺が、躊躇いなく鹿の頸動脈を噛み切った姿は、ミステの目にはさぞかし異常に映っただろう。
………ミステはこんな俺を、嫌いになってしまっただろうか。
こんなことなら効率が落ちても、せめて、牙でなくて爪でとどめをさせばよかった。そうしていれば少なくとも、今みたいに、まるで獲物を捕食したかのように、口が血まみれになることはなかったのに。
暗い後悔に囚われながら、鹿に手を掛ける。
……どうせ怯えられているなら、今のうちにさっさと処理を済ませてしまおう。こんなに血に塗れてるなら、もっと血に塗れても同じだ。……それに鹿の解体に集中している間なら、怯えるミステを見なくて済む。
そう、思っていた時だった。
「待って! 私、する。鹿。捌く」
ーー頭上から降って来た言葉に、目を見開いた。
「ローグ。倒した。鹿。……してない。私。協力。だから、私。鹿。捌く」
上った時よりも、幾分かスムーズに木から下りて来たミステは、俺の元に駆けよると、にっこり微笑んだ。
「ローグ。すごい。早い。かっこいー。だった。だから、私。がんばる」
……俺に、怯えていない。
それどころか、俺のあの狩りの仕方を、肯定してくれている。
こんな俺に都合が良い現実が、あって良いのだろうか?
「……待て。ミステ。無理はするな」
俺が惚けている間に鹿に手を伸ばしていたミステを、慌てて止める。
「獲物の解体なんて、気持ちだけでできることじゃない。……狩りに役立てなかった分、俺の為に何かしたいというお前の気持ちは嬉しい。だから、それで十分だ」
獲物を狩るということは、命を頂くことと同義だ。
自らが生きる為に生き物の命を奪ったのなら、その罪の分、より丁寧で無駄がなく、その命を食い尽くす必要がある。
だからこそ、ここは、鹿を仕留めた俺が、責任を持って鹿を捌くべきだろう。
「大丈夫。心配。ない」
しかし、ミステは俺の言葉を聞かずに、鹿に手を掛けた。
「私。解体。上手」
折れそうな細い手が、優雅にナイフを握って鮮やかに動く様に目を奪われた。
「……すごいな」
本当に、心配なんていらなかった。
ミステはもしかしたら、俺以上に鹿の扱いが上手いかもしれない。
血に濡れることに臆する様子もなく、するすると器用に鹿の皮を剥いていくミステの姿に、感嘆の溜息が漏れた。
……華奢で繊細なように見えて、こんな一面を持っていただなんて。ますます惚れ直………好感が、持てる。
俺の感嘆の言葉に、ミステは微笑みながら、額の汗を拭った。
胸の奥が、また、きゅっと締め付けられた気がした。
狼獣人の狩りは、基本的に群れで……即ち家族で、協力して行われる。
最も狩り能力が高い父親を群れのボスになり、番や子ども達に役割を振る。狩った獲物を最初に捧げる相手は、番である妻と決まっている為、母親である妻は狩りの主体は夫に任せて、解体等の後始末に従事することが多い。
……今の状況は、まさにそれではないか。
『ねえ、父さん』
まだ人型も取れない子狼だった頃、父に聞いたことがある。
『何で母さんは、俺や姉さんより狩りがずっと上手なのに、獲物の解体ばかりしているの?』
俺の言葉に、父は嬉しそうに目を細めて、獲物を捌く母を見た。
『それは母さんが、俺の番だからだよ』
母を見る父の顔が。
そして父の視線に気づいて微笑み返す母の顔が。
あまりに幸福そうに見えたから、幼い俺はその光景を「幸福な光景」として、心に刻み込んだ。
いつか自分も手に入れると信じて疑わなかった光景が、俺には永遠に手に入らないのだと知ったのは、人型を取れるようになって頬の番紋に気がついた時だ。
成人してから、狩りは一人で行うようになった。
両親から独立した今、俺の群れのメンバーは俺だけだ。
このまま一生一人で狩りをし続けるのだと、そう思っていた。
ーーそれなのに、かつて憧れ、諦めた、幸福が、今ここにある。
俺の捉えた獲物を、楽しそうに捌くミステがいる。
俺の視線に気づくと、優しく微笑んでくれる。
それは泣きたいくらい、「幸福」な光景だった。
「ありがとう……綺麗に捌けている」
獲物の解体が終われば、いつもはそのまま一人で抱えて持ち帰っている。
だけど今日同じようにしたら、ミステは絶対に自分も手伝おうとするだろう。鹿一匹を解体して疲れているミステに、これ以上徒労をかけさせたくない。
少し考えてから、普段はあまり使わない転移魔法を使って食料庫に飛ばすことにする。
肉体に頼らない魔法を展開するのは本能的にあまり好かないが、別にこだわる程でもない。ミステをこれ以上疲れさせないことが第一だ。
処理が面倒な頭部と、内臓の一部を残して転移させると、何故かミステがうろんげにこちらを見ていることに気づいた
『ーー駄目よ。ローグ。脳味噌や腸も、調理の仕方次第ではいくらでも美味しくなるんだから。手間を惜しまず命は余さず頂かないと』
先ほど子狼時代のことを思い出していたせいだろうか。
幼い頃に、母親から言われた言葉が脳裏に過ぎり、ばつが悪くなる。
「このまま残していても……森の獣が、食べるから………」
28にもなって、子狼時代と同じ言い訳をしている自分が情けなかった。
……今度は母親に、今まで捨てていた部位の調理の仕方を聞いてみよう。
「血で体が汚れているだろう。風呂の準備をするから、入ると良い」
俺の言葉に、慎み深いミステは首を横に振った。
俺に、先に入って欲しいと身振り手振りで訴えるミステに、胸の奥がやんわり温かくなる。
「俺は今から夕飯の準備で、さらに汚れるかもしれないから、ミステが先に入ってくれ。あがった時に、食えるようにしておくから」
夕飯と言う言葉に、渋々従い、風呂へ向かったミステの背中を見送ると、俺はかごを持って外の菜園に出た。
「……料理の腕が腕だから、せめて素材だけでもましなものを……」
俺は菜園に実る野菜、一つ一つをじっくり検分して、できるだけ良い物を収穫していく。
……正直、料理はあまり得意ではない。成人してからはずっと、自分の食事は自分で用意していたから、調理自体には慣れているが、元々俺は旨いものに対する興味が薄い。
簡単で、腹が膨れることが第一で、味は二の次だった。適当に切って、焼くか煮るかすれば、よほど処理が必要な部位でない限り、それなりに食える。
そんな適当な食生活をして来たことを、俺は今、心から後悔をしていた。
「ミステが苦労して鹿を捌いたのだから……できる限り美味く調理してやりたい」
人間という種族が、獣人よりよほど「食」に対する関心が強いなら、なおさらだ。