彼の苦悶
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「ーーローグ。欲しい。ここ、寝る」
甘い声と、向けられる甘い声と、こげ茶色のつぶらな瞳に、湧き上がった唾を嚥下する。
……どうしよう。
限りなく番だと思われる相手から、閨に誘われている。
ミステに頼まれた荷物やテントは、早々に見つかった。
俺たち狼獣人は、外部から遮断された環境で生きる分、外部の物や人が纏う気配に敏感だ。
ミステに頼まれた、テントを中心に四方に配置された魔法具も問題なく回収して、家路に急ぐ。
一刻も早く家に帰って、ミステの傍に行きたかった。
「………っ」
居間へと続く扉を開いた瞬間、暫く呼吸を忘れた。
15で成人して実家を出て以来、13年住んでいる見慣れた自宅。材料の木を切る所から、全て一から自分で作ったこの家に、知らない場所なんて、何処にもない……はずだった。
だけど、今は、その中にミステがいる。……25年間求め続けた、俺の番、が。
俺は、まるで都合の良い夢か幻のようなその光景が信じられなくて、思わずその場に立ち尽くした。
俺の家は、こんなにも美しい場所だっただろうか。………目にしただけで、今にも泣きそうなくらい、胸が締めつけられるような、こんな場所だっただろうか。
俺の気配に気づいたのか、ミステの視線がこちらに向く。その途端、我に返った。
……だから、ミステが本当に俺の番か分かってないと言うのに。何を浮かれているんだ。俺は。
俺は緩みきった顔を瞬時に顰めて、ミステに荷物を渡した。
「ありがと……助かる」
……ああ、糞。そんな風に、無防備に俺に笑いかけるな。
勘違いして、後戻りができなくなるだろう。
「持参金、見る。良い。……ローグ、気に入る。嬉しい」
……だから、それ、やめろ。頼むから、やめてくれ。
追い打ちをかけられた言葉に荒ぶる心を治めているうちに、いつの間にかミステが持参金として持って来たものが、テーブル一面に並べられていた。
ミステは片言ながらも、一つ一つ丁寧に説明してくれたわけだが、申し訳ないことにほとんどまともに聞けていない。
ざっと見たところ………とりあえず食べ物が多いな。人間は特別食べ物に拘るという話は本当だったのか。
………俺は、ミステに満足出来るような食生活を、ここで与えられるだろうか。
画集やオルゴールも、繊細な技術が使われていて、とても美しいと思ったが、だからこそ内心で秘かに落ち込んだ。
俺の村には、こんな繊細な芸術は存在しない。……この村はミステを、がっかりさせはしないだろうか。
共通貨幣が存在しない状態で、ミステが一生懸命自分にとって価値がある、持参金に値する品物を集めてくれたのは解る。その気持ちは素直に嬉しい。だからこそ、彼女を幻滅させたくないと尚更思ってしまうのだ。
その時俺はふと、見慣れぬ品々の中で、見慣れた品が混ざっていることに気が付いた。
「あれは……魔宝石の、欠片、か?」
それは、小さな小さな魔宝石の欠片だった。
魔宝石なんて、俺の村では珍しくない。
村外れにいくつもある洞窟を少し掘れば、この欠片よりも純度が高い大人の拳ほどの石が、ごろごろ出てくる。
……だけど、村の外の世界ではそれが、かなり高価なものであることを知っている。
こんな小さな欠片であっても、ミステがこれを入手するには、さぞ金がかかっただろう。
……それに、この色は……。
「ローグの目。色。同じ」
まさに考えていたことを口にされ、どきりとする。
狼獣人にとって、瞳と同じ色の物を贈ることは、求愛の行為だ。
それが花であっても、その辺りに落ちている石であっても、瞳と同じ色であれば、その品物自体の価値は関係ない。それが、贈られることに、価値があるのだ。
ミステは、俺の家にある魔宝石にちらりと視線をやると、おずおずと魔宝石の欠片が入った瓶を差し出した。
「……ローグ、良い。もしも。なら。………指輪、する。良い。小さい、価値ない……けど」
ガンと頭を殴られたような、衝撃的な言葉だった。
暫く前に、母親が口にした言葉が頭に過ぎる。
ーー『それに彼女は、独身よ。だって左手の小指に指輪をしていないもの』
ーー『人間の夫婦は、番紋がない代わりに、左手に揃いの指輪をするのだと、先日犬獣人の長が教えてくれたわ』
指輪は、人間にとって結婚の証。
……だからミステは、俺の結婚指輪を作る為に、この欠片を、大金を費やして持参金として用意してくれたのか。
俺の瞳と同じ、琥珀色の、この石を。
差し出しれた瓶を受け取る手が震えた。
尻尾が勢い良く左右に揺れるのを、止められなかった。
ああ、俺は馬鹿だ。
ミステに幻滅されることを恐れて、彼女の気持ちを蔑ろにするところだった。
……彼女はこんなにも、俺を想ってくれているのに。
受け取った瓶を、そっと胸に抱く。
この魔宝石の欠片は、この村では実質的な価値はない。
……だけど俺にとっては、他のどんなものよりも価値がある、贈り物だった。
「私、狩り、行く。ローグ、一緒、良い」
ミステからこう言われた時、正直困った。
こんな華奢な体のミステに、狩りなんてできるはずがない。獲物以外の獣が現れる可能性もあるので、できれば安全な家にいて欲しかった。
「だめ? ローグ。……お願い」
だが、俺はどうにも、ミステのこげ茶色の瞳に弱いようだ。
この瞳でまっすぐ見つめられると、否とは言えなくなる。
……魔法障壁をミステの周りに張った上で、安全な場所に避難させておけば、まあ良いか。そう自分を納得させてはみたものの、やはり心配なものは心配だ。
道中、ミステが俺の菜園に気を取られているようだったので、そのまま興味を移してくれないかと期待したが、名前を呼ぶとすぐに俺の跡を追ってきた。……腹を、括るしかない。
「ミステ……木は上れるか?」
ミステは少しだけ考えてから、頷いてすぐ傍の木に上ろうとした。
子狼より危なっかしいその動きにハラハラしながらも、後ろからミステの周辺に魔法障壁を張る。……これで万が一落ちたり、獣に襲われたりしても、怪我はしないはずだ。
ついでに、ミステが上っている木が折れないよう、木自体に強化魔法をかけ、獣避けの加護もつけておく。半日も効果は持続しないが、とりあえず狩りの間ならこれで何とかなるだろう。
ミステが木の上に何とか上ったのを確認してから、俺は、少しだけ離れた所の木を上った。獣避けの加護はあの木だけなので、これくらい離れている分には問題はない。
後はただ、待つだけだ。
ミステが辛くないように、早めに獲物が現れることを祈りながら、気配を殺す。
そして半刻後。木の下に現れた鹿の姿を見た瞬間、俺は木から跳び降りた。
狩りの決着は早めにつけるに限る。跳び降りた先にある鹿の背中に爪を立ててしがみつき、その頸動脈に牙を立てる。
狼獣人の牙も爪も、人間のそれより多少鋭い程度しか、傍目は変わらない。
だが、体内の常在魔力によって無意識的に強化されるそれは、狩りや戦闘時においては、どんなに鍛えた刃物より殺傷能力が高い武器になる。
そうやって、意図的に魔法を使わずに、己の体一つで、獲物を仕留めることが、狼獣人には誉れなのだ。
瞬く間に絶命し、倒れた鹿を見おろして、口元の血を拭ってから、ようやく俺は自身の失敗に気がついた。
ーー今の俺の姿は、ミステの目には、野蛮で恐ろしいものとして映ったのではないだろうか。
ミステから、怯えられる。
その未来を想像した途端、ざわりと肌が粟立つのが分かった。




