はじまりは、金欠から
「ミステ」
私の愛称を呼ぶ低い声にも、向けられる硬質で威圧感がある整った顔にも、特別な感情は何も感じられない。
しかし金色の目の中に浮かぶ瞳孔と、ちぎれんばかりに左右に振られた灰色の尻尾が、彼の内心の感情を何より明確に現している。
目の前に投げ捨てられる、血に濡れて、まだ温かい鹿の死骸。
最初は単純に獲物の解体を任せられているものだとばかり思っていたが、今の私にはそれが彼の最大級の愛情表現だと理解している。
彼ら狼獣人が自ら狩った獲物を最初に捧げる相手は、彼らにとって最愛の相手でなくてはならないものだから。
「ミステ……サテ・シュアレ・ナ」
最近になってようやく翻訳できた熱烈な愛の言葉と共に、鋭い尖った歯で優しく首もとを甘噛みされる。
………今なら、わかるさ。これは狼獣人が人生にただ一人だけと定めた「番」にだけ行う、求愛行動だということを……!
一年前はさっぱりだったけどな!
「ーーミステリューズ教授ー。上司の意向で、次の本が目標額売れなかったら、うちとの出版契約切ることが決まったんで。すみませんが、そのつもりで次の研究テーマ選んで下さいね」
全てのはじまりは、昔馴染みの猫獣人編集者から言われた、この一言だった。
「え……ちょっと待ってくれ! 本の印税が無ければ研究ができなくなるから、困るんだ!」
私が文化獣人類学教授として勤めるシュテフィアス大学は、国内で最多数の学科を誇る巨大学芸組織だ。
創立者にして、世界有数の大富豪であるターナー・シュテフィアスは「全ての知識人の知的好奇心が満たせる環境を」をモットーに、国内外のあらゆる分野の学問を、一つの大学の中に集結させた。
『実用的意味がないと思われる知識であっても、長期的な観点から捉えれば、必ず国益に繋がる』
そう公言し、自らの有り余る財産を大学の為に費やしたターナーを、私は心の底から尊敬している。
実際、道楽とも言われた彼のこの事業のおかげで、一体我が国がどれだけ発展したことか。これぞ何よりも価値がある金の使い方だ。実に素晴らしい。
……しかし、その創立者の慧眼は、残念なことに孫にまでは遺伝しなかったらしい。
『学問は、実学こそ全て。実益にならない研究分野に出す予算なぞない』
昨年、早期引退した父親の代わりに、新理事長に就任したウィリー・シュテフィアスは、就任直後にそう言い放った。
………あんの、学問の意味を理解していない、ケツの青い若造めが!(……と、言っても、ウィリーの実年齢は私より年上なわけだが。国内一高名な……否、世界一高名な獣人類教授であった父のもとで、人生のほとんどを文化獣人類学に捧げた私からは若造も同然なのだ……学問的造詣という意味では)
しかも、奴はよりにもよって! 非実学分野は他にもあるのに、よりにもよって!
『……特に、文化獣人類学などという無意味な学問は、即刻弊大学から排除したいですね。獣人等という下等な種族から学ぶものなぞありませんから』
等と抜かしやがったのだ……!
前時代的な人間至上主義の差別主義者め……。お前のような石頭にこそ、文化獣人類学を学ぶことが必要だというのに。
目に見えるものばかり追っていると、本質を見失うということを理解していないお前こそが下等なんだ……! 愚か者めが!
ーー少し落ちつこう。
ついつい、新理事長のことを考えると頭に血がのぼってしまうな。
そんなわけで、その後の必死の抗議も却下され、予算をめいいっぱい削られた私には、充分な文化獣人類学の研究が出来るだけの予算がない。
裕福な学生が学ぶ研究室では、寄付金で研究費用をまかなっているところもあるのだが、残念ながら私の研究室にはそんな奇跡は起こり得ない。……というか、研究室に所属する学生すらいないのが現状だったりする。
……言っておくが、私の講義に魅力がないわけではないぞ。あの下等な理事長が、『実用的でない学問なんて、一般教養で充分でしょう』と言って、専門コース自体を無くしやがったのだ。
20代にして教授職を得た、文化獣人類学分野一の才女と謳われる私に対して、何たる仕打ち……!
呪学の教授から定期的に購入する理事長を模した呪い人形は、日に日に増えるばかりだ。(なお、理事長は金に物を言わせて、高価な呪術防止のペンダントを所持している為、ほとんど効果はない。……ハゲ散らかせばいいのに)
そんなわけで、私の研究資金は雀の涙のような大学予算と、内職としてやっている獣人言語の翻訳の仕事、そして自らの研究をまとめた本の印税だけで賄われている。
正直、かなりギリギリで厳しい状況だ。他の非実学分野の教授も同様で、ぞくぞくと退職者が出て来ている。……実際、あの新理事長も、そうやって私が大学を去るのを待っているのだろう。
それなのに、今度は本の印税までなくなってしまうなんて……!
「いやあ、ミステリューズ教授の事情も分かりますしね。教授ともそれなりに長いお付き合いですから、私としても心苦しいんですけどね。うちも慈善事業じゃないんで、売れない本をいつまでも出版してられないんですよ」
……いや、そんな風に肉球つきの手で顔を洗いながら言われても、ちっとも心苦しそうには見えないんだが。
猫獣人の習性からして、気まずい気持ちを切り替えようとしているのだろうとは思うが、人によってはそれ、馬鹿にされていると思って怒るぞ。
「……売れないって……前回の文化獣人類学会では、先日出版した本の研究は大絶賛を受けたんだぞ。既に研究され尽くされていた犬獣人の文化を、新たな観点から捉えたと高評価だったんだ。それなのに、どうして……」
「だーかーら、それは、あくまで文化獣人類学を学んだ方々の間では、の話でしょう? うちの本を買う人の中では、そんな専門分野の造詣が深い人は一握りです。もっと大衆受けを狙わなければ」
「大衆、受け………」
「ええ………つまりは、『見世物』です」
猫獣人編集者アミーラの、つり上がった大きな瞳の中で瞳孔が細まった。
「文化獣人類学に関する本を手に取る大部分の人の目的は、異質な文化形態を知って、知的好奇心を満たすことです。あるいは、そうやって自分達より『劣る』種族を知って、優越感を抱く為かもしれませんね。大事なのはあくまで、未知の世界を知らしめること。小難しい、専門的な見解なんていらないんですよ。どうせ大衆は理解できませんから」
「……そんなのは、学問とは言えないだろうが」
「ええ。……でも、文化獣人類学の発端は、そう言った知的好奇心であることは否定できないでしょう?」
アミーラの言葉に、唇を噛んだ。
アミーラの言うことを、否定はできないが肯定もしたくない。
……文化獣人類学を学ぶ私こそが、理事長のような忌むべき差別主義者であるとは思いたくないからだ。
そんな私に、アミーラは呆れたようにため息を吐いた。
「そんな顔しないで下さいよ。ミステリューズ教授。教授もそうだなんて、言ってませんよ。そもそも知的好奇心を持つこと自体は悪いことではありませんし」
「………………」
「全く獣人である私が気にしてないことを、人間である教授が気にしないで下さいよ。……まあ、そんな教授だからこそ、猫獣人の私でも一緒にお仕事できるわけですけど。教授は人間なのに、教授の本は、どれも獣人に優しいですから。……だからこそ、私は次こそは教授に売れる研究をして頂きたいわけでして。上から幾ばくか取材費をもぎ取ってきたので、次の研究はこちらが指定する題材でやって頂けませんかね?」
「……指定する、題材?」
「ええ」
アミーラはにいっと口端を吊り上げながら、一冊の古い本を差し出した。
見覚えがあり過ぎるその本に、目を見開く。
「ーー狼獣人の、研究です」
それは、私の父が書いた本だった。