幕間 シノブという個人の一端
アルダーリャトside
俺が前触れも無く彼がいる財務部署を訪れたのは、シノブ殿の素の反応が見たかったから、だった。人間というのは、不意打ちが1番素が出やすいものだ。無論例外もいるだろうが、『シノブ』という彼自身の事を知るには、本人と話し合ってみれば良い。だが後見のダウエルに告げた望みは些細な事であり、更に言うなれば『望みがあれば宰相に』とも伝えたはずだが、ハッサドには一切言わぬという。何を警戒しているのか、それが知りたかった。
ダウエルの報告で浮かび上がる彼の像は、『小柄ながら随分と肝が据わった者』だった。誠に武術を嗜んでいるならば分からないこともないが、初見した際のあの華奢な体躯ではどうにも信じ難い。供も付けずに財務部署へ顔を出した俺に、部署の者達は俄かに騒めき立った。手にした書類を横に置きダウエルを始め皆が慌てて頭を垂れる。ーーーたった1人を除いては。
周囲が煩いほど騒がしいのにも関わらず、奥の机で黙々と書類を書き込む姿。片手を上げ皆を抑えると、ゆっくり静かに彼の元へと近付いた。足し算引き算の筆算も無く、恐ろしい速さで数を書き連ねる。その桁2、4、6……8桁だと?!何なのだこの速さは!
驚愕している間にも迷う素振りすらなく、1桁の計算をしているかのようにその書類を終わらせたシノブ殿。だが俺に気付くことなく次の書類へ手を伸ばすと、その書類も凄まじい速度で仕上げていく。目の前に人がいて、その影に入っているというのに、全く気付きもしない。一瞥すらないのだ。それだけ集中しているということなのだろう。周りが『陛下に対し何ということを……!』と不遜へ慄きと苛立ちを持ち上げ始めたが、俺はそれをまた制した。これ程騒がしくとも揺らぎもしない集中力は寧ろ称賛に値する。見兼ねたダウエルが彼の集中を断ち切らせ、漸く彼は俺へと顔を上げた。
果たして彼は突然の俺の部署来訪に瞬間驚いた様ではあったが、直ぐに落ち着きを見せた。素早く立ち上がると姿勢を正し、深く頭を下げたのだ。
『大変失礼を致しました、陛下。こちらにお出でであることに気付かず、ご無礼を』
素なのか、わざとなのか。その中性的な声音は淡白なものだった。だがそれでも感情が籠っていることは薄っすらとだが理解出来る。だが『無礼を』とは。『契約者』は例え出自が平民であろうと一国の王と同等の地位にいる。それなのに下手に出るというのは、まだ己の地位が理解出来ていないのか?
対等な立場だと角を取って伝えてみれば、『陛下の許しがあっても周りが納得しない』と返してくる。更には俺や宰相が彼に命令すると思われていた……そう思わせる程、こちらの信用は堕ちていたということになるではないか。やはり首都兵の所業や剣の破砕、連行になってしまった保護によるものなのだろう。嗚呼、と空を見上げたくなる。
望みのことも、『何かを要求されるのでは』という考えを振り払い切れないからと遠慮すると言う。そんな事など、1度も考えたことはない。例え俺が『何かを要求することは一切ない』と明言してもそれは変わることはないらしい。彼は即答したのだ、はっきりと。……やはり平民らしからぬ確固とした意思がある。
つい先程目の前でやってのけた算術の腕もそうだ。あの高い集中力も、俺に対する言葉遣いも。ダウエルを通じて知ったあやつの資産云々の件も、何故気付いたのか。そして過去6年分の書類を遡り調べるなど、その発想の元は?考えれば考えるほど、それらは平民には似つかわしくない頭の回転の良さが浮き彫りになる。我がシン国で唯一の例外は俺の影の手足である隠密。彼らだけは身分を問わず、個々の能力で集められた者達だ。臨機応変に対応出来るよう学問を始め教養、武術と凡ゆる面で鍛えられる。平民でも学問を修められるが、その者の存在は消されたも同然となる。隠密に選ばれたが故に。だがそれをシノブ殿が知るはずがない。
『……貴方は何者だ?ただの民ではあるまい?』
答えに窮したのか、やや俯いたシノブ殿を前にして少し問い過ぎたか?とダウエルを見やる。上司である彼もまた気になるところではあったのだろう。興味深げな色をその瞳に映していた。が、同時に案じる様子でもあった。
『どうお返しすればご納得頂けるのか、私には分かりません。問われたなら出来る限りでお答え致しますが……』
その感情が気薄な面立ちに、僅かに困惑を浮かべ俺を見るシノブ殿。民ではあるがやはり肝が据わっているな。通常なら俺という存在に気後れして、平民はまともに話すことが出来ないんだが。
『では。貴方の齢は?』
『……年齢、ですか?20歳です』
どうでも良いような些細なことから尋ねれば、彼は拍子抜けしたのか瞬いた。
『身長は?』
『167cmあります』
『聞き手は?』
『右手です』
彼は言葉少なに俺の問いに答えてくれる。その表情や声の調子が変わらないのが少し残念だが。
『武術は?嗜んでいると聞いた』
『剣術と体術を少々。あとは、棒術でしょうか』
棒術?何だそれは。槍術なら知っているが、棒術とは聞いたことがない。『棒』と付くくらいなのだから、棒を操るのだろうとは予想はつくが……。
『棒術とはどの様な武術なのだ?』
『名の如く、棒を操る武術になります。この国には槍術があるとお聞きしました。それを棒に置き換えたものと思ってくだされば想像し易いかと思います』
『そうか。確かに我が国には棒術なる武術はない。貴方の国では浸透している武術なのだな』
『……全ての者が棒術を含む武術を会得しているわけではありません。名は知っていても、操れない者も多々おります。学びたいと思う者がその門を叩き会得する、という風土でしたので』
何?会得したければ学びに出向く?どういうことだ。彼の言回しでは『受けるも受けざるも個人の自由』だと言っているようにも取れる。
『それでは貴方は会得することを選んだのだな。師は?』
『……』
『……どうした?』
棒術の師を尋ねた瞬間、彼の雰囲気がぎこちなくなった。元から感情が薄かった表情は、更にその気配を消して無表情へと変わる。何だ?俺が問うた何かが、彼の琴線に触れたのか。大したことは聞いていないはずだ、だがシノブ殿の背後で控える獣神の深紅の瞳が一気に剣呑さを帯びた。
〈我がシノブにその様なことを聞くとは……〉
唸るような怒り。声音は静かであるのに蛇に睨まれた蛙の心地になる。だが、大丈夫だとシノブ殿が獣神に告げるとその目つきが和らいだ。それを確認して俺に向き直る。
『陛下。その師は、剣術、体術、棒術……どの師のことでしょうか』
『余が尋ねたのは棒術の師のことだ。だが、良ければ体術と剣術の師も聞きたい』
『……まず体術ですが、ハリウの姓をお持ちでした。名は知りません。師と門下までの関係でしたから。剣術は、そちらにいるミイド殿に師事しております。棒術は……祖父より師事致しました』
『……祖父?』
『はい。国元におります祖父が、棒術の師でした』
祖父。
そふ、祖父だと?!しかもシノブ殿の生国にいると言ったのか、今。あの日、俺が尋ねた問いに彼は何て答えた?家族を呼び寄せるか否やの問い掛けに、彼は『気遣いは不要』と答えていたのではなかったか。俺は、身内はいないのだと思っていた。なのに母国に祖父がいるというのか。それでは何故、呼び寄せに『否』と答えたんだ?!
『祖父殿がいたのか?ならば何故、呼び寄せないのだ?迎えを出すと伝えたではないか』
『離れてしまった今、再び会う望みはとても薄いのです。……陛下、どうか。どうか、私の身内について、これ以上はご容赦下さい。何卒……』
引き攣るような掠れた声にはっとする。獣神が怒った理由はこれか!身内のことを聞くことは彼には禁句だったのか、と今更ながらに辿り着き後悔した。よく考えれば分かるはずだったのだ。帰国手段の模索の為に旅をしていた彼を、『保護』という名で我が国の首都に留め置いた。『後見』という名の監視役を付けられたも同然で、今は財務部署に勤めている。しかも本人が言い出したことではなく、宰相の命ではないか。これでは帰国の術を探す事も出来ない。そんな状態にさせたのは紛れもなく俺であり、そんな俺が『家族を呼び寄せるか?』などと聞けるわけがなかったのに。
『……取り乱し、失礼を致しました』
静かな声に彼を見れば、元の声音に戻っていた。普段淡白なシノブ殿の初めて感情らしい感情を見れたというのに、それが悲しみだったとは皮肉なものだと思う。そうさせたのは、俺とハッサドということも。
『陛下。私の国は極東に存在しておりますが、世界の中ではとても小さな国なのです。それも存在していることを忘れ去られてしまう程に。それ故に、1度国を出てしまうと地理や個々の事情など様々な要因によって戻れなくなる者が大半を占め、国は、国民の減少を食い止める為に閉鎖的な国政を敷いております。……私自身、母国の明確な位置が分かりません。それも旅での模索の中に含まれていました。
今お話した事は、どうかお忘れ下さいますよう。もう諦めの域に達しております』
そう、彼は乾いた笑みを薄く浮かべる。何故だ。俺は国王だ、それもシン国という大国を治めているというのに。シノブ殿の母国を臣下に総出で探しに行かせることも出来るのに、どうして諦める?
『貴方の母国を探す。それを余に頼むことは考えていないのか?』
『はい。これは私の問題であって、陛下に嘆願する程の大事ではありません。何より私自身がしなければ意味がありませんが、陛下は私が旅に戻る事は出来ないと仰いましたので……』
幾つもの選択肢があり、もしかしたら我がシン国の内に自ら留まることもあり得たかもしれない。無論生国に帰国出来たかもしれないし、そのまま旅人の生を過ごすかもしれなかった。そんな幾つもの道を、俺が潰した。それも自由を得られる道ばかりを全て。
『ですが、私はもう何とも思っておりません。どうぞお気遣いなく』
まるで、何にも代え難い寵愛する女がすーっと距離を置き、消えていこうとしている……そんな錯覚に支配された。シノブ殿は男だ、そう思うこと自体おかしいのに、その表現が一番しっくりくる。相手を理解しようとすればするほど、彼は『身分差』を示し遠退いていく。母国や祖父に対するその思考は潔いと言えば聞こえは良い。だがそれは、何と言えば的確なのかは分からないが儚げに見えた。
最初は『契約者』だから、そして彼が未成年だったから興味があった。だが今はそれだけではない。俺自身が、彼個人を良く知りたいと思った。
『また、来ても良いか』
『ご随意に。……しかしながら陛下。どうかそれは財務の長であるダウエル様にお伝え下さいますよう、お願い致します。私は当部署では新参者。上を通して下さらなければ、私は後々叱責を受けかねません。ダウエル様を始め皆様が宜しいのでしたら、私に否やはございません』
『というわけだが、ダウエル?』
『……前触れだけでもお願い致します。毎回、唐突にお越しになられては部下の職務が疎かになりかねませぬ』
『分かった』
これで、堂々と彼に会いに来る理由が出来たというもの。満足げにひと息吐けば、『陛下』とシノブ殿が俺に声を掛けてきた。
『1つだけ、お願いがございます。宜しいでしょうか』
『何なりと』
1つだけというのが気になるが、やっと望みを叶えてやれる。俺らしくもなく揚々と応えれば、その『願い』は意外なものだった。
『陛下がお越しになられた際に職務中だった場合、職務の優先をお許しくださいませんか?』
職務を優先?一体どういうことだ?シノブ殿に、俺は黙って先を促す。
『先程もそうでしたが、私は集中すると他人からの呼び掛けに気付けないことがしばしばあるようです。『仕事中毒』ではないのでしょうが、その様な状態で陛下のお相手をまともに出来るとは思えません。どうかその非礼を不問に』
『ワーカーホリ……?とはなんだ』
『仕事中毒です、陛下。寝食より職務の事ばかりを考え、勤しむことを苦としない職務好きな者の事を、私の国ではその様に呼んでおります』
ふふ、と笑う彼の表情は先程より明るい。明るい面立ちが見れたことに安堵するのと同時に、初めて願われたことがそんな事だとは……という思いも抱いた。
『そんな事でいいのか?他に希望は?』
『ございません。お心遣い、感謝致します』
『良いだろう。職務を全うしてから相手をしてもらおうか』
『はい、陛下』
少し彼と距離を縮められた。
そんな確かな手応えを胸に、俺は財務部署を後にした。これからは可能な限りしげしげと訪ねるとしよう。
『……シノブさん、諦めるのか』
『ううん。諦めてないよ、諦めたくなんてない……帰りたい。だけど、ミイドさん。どうしろと?』
旅にも戻れず首都に囲われてさ。
アルダーリャトが去った直後、まだざわざわと国王が訪ねて来たという興奮に包まれる室内で、そばに寄り心配そうに小声で尋ねるミイドに、忍はやるせない心情を吐露した。祖父のいる日本へ帰りたい。それは今も変わっていない。だが、どうしろというのか。為政者に囲われた現在、忍達に出来ることは殆ど無いのだ。『いつか旅に戻れる』……その日を待つしかない。
『でもね?ミイドさん』
『ん?』
『陛下、そこまで悪い人じゃないのかなって思った。私達を閉じ込めた人だけど、少しずつでも、理解できるように……努力しようと思うんだ』
『……。辛くなったら言うんだぞ?』
『うん。ありがとう』
少し泣きそうな、微かに歪んだ笑みをミイドに向ける。ミイドはただ、黙って彼女の頭を撫でていた。