幕間 文句の付けようもない
ダウエルside
『今ここに居る皆様に、私の試しを監視して頂きたいと思います』
その科白を躊躇いもなく、さらりと口にしたシノブ。皆一様に『は?』と怪訝な表情になる。私もそうだ。
『何故?』
『難癖を付けるような方はここにはいらっしゃらないと思いますが、万一の為に。不正はしていないと証明するためです』
にっこりとシノブは微笑んだ。彼女は身分差を楯に、言い掛かりを付けられないようにと部下達に釘をさしたのだ。……本当に聡い。
『もし、この試しでグリフィス様と同等の算術をこなせると示せたなら、その時はこちらで勤めることをお認め下さいますか?』
『なっ、平民の分際で……っ』
グリフィスがふるふると震え憤りに顔を染め始めた。拙い。彼女が危ないのでは、と一瞬獣神を見やるが微動だにしない。その端整な面立ちにははっきり彼に対する苛立ちが表れていたが。
『他の方々はいかがでしょうか。確かに私はグリフィス様が仰る通り平民です。例え能力がある者でも、平民と共に任務を果たす事に嫌悪感を持たれる方がおられるのであれば、私は誰が何と言おうともその方の仰られるように2度と王宮に上がることは致しません』
ここに居るのは皆貴族だ。伯爵よりも下位ではあるがそれでも紛うこともない貴族。平民出のシノブは、その相手に堂々と言い切った。不敬罪とも取られかねない科白だが、きっと彼女はわかった上で口にした。
我らがアルダーリャト陛下並びにハッサド宰相のお二方から目に掛けられている『獣神の契約者』だと、お二方を敬遠しながらもしっかりと理解している。その『契約者』の希望を叶えるのももちろん大切ではあるが、意に背き機嫌を損ねればシン国はお見かけする事も稀有な獣神1神と契約者を失いかねないのだ。それはなんとしても阻止しなくてはならない事なのだから。
『私は……構わない』
『ああ、私もだ』
『算術能力があるのならば良いだろう』
グリフィス以外の者達も間を置いてから口々に肯定の意を示した。変わらないのはグリフィスのみ。未だ何か言おうとしていたが、獣神の鋭い視線の圧力に屈し何も言う事はなかった。
***
結果として。
シノブは皆が居る前で驚くべき算術能力を見せつけた。口頭10問に筆記30問全てを、完璧に正解して見せたのだ。それも淀みなく、この場に居た部下達の誰よりも速く。不正が無いことは疑いようもない。皆が皆、唖然としていた。問いを告げれば即答し、筆記は速い者でも30問解くのに20アドは掛かるが、シノブは全問解き終わるのに15アドも掛からなかった。いや、10アド掛かっていたかも怪しい。
更に言うなら、ミイド殿も7割が正解という前代未聞の高い能力を示して見せた。おかしい、何故民であるはずの2人がこんなに高い算術能力を?!
『これは、』
『基準は達せられましたか?』
『いや、達するも何も……恐ろしい程の算術能力だよ。どこで身に付けたんだい?』
声は震えていなかっただろうか、心配だ。何という知能なのか。彼女には未知な部分が多いが、これは……。
『母国です』
シノブは、それ以上を口を閉ざした。その眼は私を真っ直ぐ見つめ、『これ以上は言いたくない』と如実に語っていた。ミイド殿に視線をぶつければ、ちらと彼女を見て言った。
『シノブ殿にお教え頂きました』
その答に周りが騒めく。ミイド殿の算術能力はシノブから教えてもらったもの。教養や歴史はどうであれ、算術に関しては我ら貴族より上なのだ、彼女は。そんな学問を修めることが出来る彼女の母国とはどんな国なのだろう。この場では無理でも、いつか故郷のことを教えてくれるだろうか。
『シノブとミイド殿を私の下で勤めさせる。皆、異存は無いな?』
『はい』
女であることはまだ知らせまい。ただでさえ彼女を身分で見下すグリフィスが更に反感を募らせかねない。……我々貴族は民達がいるからこそ存在出来ているというのに。貴族としての矜持は必要だが、それを驕りにしてはならないのだと何故気付かないのだろうか。
『では皆様。至らぬ身ではありますが、何卒よろしくお願い致します』
既に大半の者がシノブとミイド殿を仲間と認めたのか、『分からないことは聞くように』などと声を掛けている。そんな中、獣神だけはずっと威圧の眼をグリフィスへ向けていた。彼とて子爵家の息子。まさか気に食わぬからと手を上げる真似はすまいと思っていたのだが。
『平民如きが……っ、不遜な!!』
怒りに般若の面立ちでシノブへ駆け寄ったかと思えば、ぐいと肩を掴む。彼女と私や他の者の距離は少しばかり離れていたが為に、反応に遅れた。だが。
だんっと床へ叩きつける打撃音や呻きと共に、須臾の間に私達の目前へ広がった光景に再度唖然とするはめになった。
『失礼を致しました。身の危険を感じたものですから』
平然と佇むシノブとその足元に仰向けに横たわるグリフィス。彼女が何かしたというのが恐らく正しいのだろうが……一体何をした?!
〈……グリフィスとやら。その方、些か無礼であろう。我が契約者への振舞い、目に余るものがある〉
10人に問えば10人が同じ答を返す程に整った容姿、焦茶の長く艶やかな髪。その紅い双眸は長身と相俟って堂々とした神の威厳を助長する。その獣神が、表情を無くした中でその瞳だけを怒りに光らせグリフィスを見下ろしていた。
〈先程から『平民が』と民を見下しているが、それならばその方は何だ?高が貴族に生まれただけではないか。何か特筆出来る偉業でも成したのか?〉
『……っ』
〈我の前で、貴族に生まれた事が特別なことであると、民より枢要な存在だと吐かすでないぞ。矜持など思い上がりも甚だしい。我ら獣神が人間と滅多に契約せぬ理由を教えてやろう。その方のような身分を振り翳し他人を見下す、驕りを持つ者ばかりだからだ。その点民は驕りは無い。だが我らを畏れ敬うばかりに対等な立場にはならぬ〉
『で、ではっ!この者が対等な存在だと言うのかっ』
〈是。我が長き年月に見てきた人間の中で、シノブ程に獣神の契約者として相応しき者は他に居らぬ。異国民である我がシノブは、かの地でも平民の身分であった。だが今示したが、貴族などに劣らぬ学識を持っている。だがそれを驕ることもなく、我に対する態度も変らぬ。東の主もシノブを気に入ったようであるしな〉
ふんと苛立たしげにそれこそグリフィスを見下した獣神。シノブと言えば、いつの間にかミイド殿と共に獣神の後ろへ下がっていた。何も言う気はないらしい。
『獣神様。……東の主とは?』
〈ダウエルか。イーニスと共に我らが東地方の森に訪れたことは憶えていよう?〉
引っかかった『東の主』。それを彼に尋ねると、怒りを収めたその面立ちをこちらへ向けた。
〈かの森には森の主である巨躯の白狼が居る。北地方より始まった我らの旅が東地方の森へ入った時、主の仔らの危機をシノブが救うたのだ。主の仔だと判明したのは救った後故、打算的に救出したのではないとだけは明言しておこう。その時からだな。主に我がシノブが認められたのは〉
後ろではミイド殿がシノブを気遣わしげにしていて、獣神の足元ではグリフィスが緩慢に上体を起こしていた。
〈シノブ。この者がお前に害を加えようとした際には、また技を掛けてやるが良い〉
『皇雅、……』
シノブは何か言おうとして、それから緩々と首を振った。困った様に苦笑混じりの微笑を浮かべて。そして徐にグリフィスへ近寄り、美しい所作で頭を下げたのだ。
『大変失礼を致しました、グリフィス様……いえ、ミドルトリア様。私は宰相閣下のお申しつけにより王宮勤めに参りましたが、ミドルトリア様のご意志に従います』
『……それは、私が『気に入らない』と言えば王宮には上がらぬということか?』
『申し訳ありませんが、『気に入らない』だけでは王宮勤めを放棄する理由にはなりません。『平民と同じ場所で任務に就くことは矜持が許せないこと』なのだと明言して下さいますよう』
『な、』
『気に入らないだけであれば私の存在を無視して下さればそれで済みます。子爵家子息としての矜持を持ち出して下されば、貴族位があるこのシン国です、きっと陛下や閣下もご納得頂けるかと思います』
『……』
シノブが陛下や宰相を引き合いに出したことで、グリフィスは冷静を取り戻したようだ。目を瞬かせ、床に座ったまま彼女を見上げた。
『……お前は、一体何だ?』
『獣神の契約者となった平民であり、旅人として各地を転々としながら祖国へ帰国する術を模索していた人間です。……首都兵により首都へ連行され、陛下より後見にハイドウェル伯爵家をご紹介頂き、首都へ留まるよう命じられました』
その言葉のあちらこちらに滲む哀しみを、淡々とした声音と礼儀正しい態度に包んだ彼女の科白は、私をやるせない心地にさせる。大分心を開いてくれていることを感じていただけに尚更。
『私は確かに、働き金銭を稼げればとは考えていました。ですが王宮勤めは望んだ事ではありません。民は民らしく、市井で働くべきもの。身分不相応なものを頂いても返せるものは無く、要らぬ諍いの種になるだけ。この度の事は、私が居ないところで宰相閣下がお決めになったことです。……ご不快な思いをさせ、申し訳ありません』
再度頭を下げたシノブが身分を重視するグリフィスに此度のことは身分不相応な待遇であると告げ、王宮勤めを下がろうとしている事は理解出来た。……そんなに嫌なのか。首都に居ることが、目に掛けられることが。
『……そんなに嫌なのかい?首都が、私の元に居ることが』
『いいえ、ダウエル様』
思わず漏れた声に、彼女は静かに否定する。今や室内全ての者がシノブの言動1つに注目していた。
『ダウエル様を始め、ハイドウェル家の皆様には大変お世話になり感謝しています。ですが……やはり身分不相応な扱いは居心地が良くないもの。契約者となっても私は平民なのです。皆様と共に任務に就くことや首都アトゥル、ダウエル様の元に居ることが嫌なのではありません』
『では、1番の望みは?』
『獣神、ミイド殿、白貴と共に旅に戻らせて頂くことです。……ですが陛下より叶えられないと明言されていますから、再度申し出るつもりはありません』
『宰相にも?』
『はい』
やはり、彼女はお二方に何も望むことはしないらしい。貴族や民にとって王宮勤めは憧れを抱くほどのものであるのに、シノブにはそれすら憧憬の対象にはならない。周りに揺るがされる事もなく、自分という芯をしっかり持っているのだと、はっきり分かった。どんな環境に居れば、こんなにもしっかりとした中身に成長するのだろうか。知りたい。
『ここで、働いてくれるかい?』
『私で良ければ、尽力致します』
周りの部下達もうんうんと頷いているのが見えたのか、シノブは私達に美しい姿勢で頭を垂れた。
『グリフィス。異存は無いな?』
『はい』
納得半分の顔で承諾したグリフィスは、その後もずっとシノブを注視していた。