幕間 『望み』の裏側
ダウエルside
『赦す赦さないではない気がします。どんな形であっても、私は権力に負けたのだと思っています。平民ですから……どうしようもありません』
シノブが辞して出て行った自室の扉を見ながら、私は彼女の言葉と浮かべていた硬い表情を反芻していた。シノブがふと漏らした『東地方の森へ行きたい』という望み。それを家令のヒードを通じて聞いた私は、それを叶える為に宰相のハッサド殿へ謁見を申し出た。彼女に関する事だと告げれば彼とは直ぐにでも面会出来た。政だけでなく軍事も司るハッサド殿は、陛下同様に多忙の身。それでも最優先に回される重大さを、シノブは知らないのだ。彼女がお二方に良い印象を持っていないのはあの謁見の間で交わされた会話からも察する事が出来る。最早ただの平民ではないのだと、いつになれば自覚してくれるのだろうか。……いや、あれがシノブの良い所であり、獣神の契約者である事に驕りを持つことがないから力になってやりたいと願うのだが。
そもそも彼女は、本当に控えめ過ぎるのだ。『首都の散策に良く付き合ってもらっている』?『お茶や茶道具を頂き切らさないようにして貰っている』だと?一瞬何の冗談だと思った程だ。そんな小さな事、伯爵の名を戴く我がハイドウェル家には造作もないことだと言うのに。
『ヒード』
『はい、ダウエル様』
『礼を言う。お前のおかげで彼女の望みを知る事が出来た』
部屋に控える家令のヒードに告げると、洗練された所作で頭を垂れる。面を上げたその顔には僅かな苦笑が滲んでいた。
『シノブ様は滅多に御自身の希望を申して下さいません。あの時、会話をお聞き出来たのは幸運でございました』
『全くだな……』
盗み聞きの様だが、こうでもしなければ彼女の望みを知る事も叶える事も出来ないとは。
ハッサド殿は私が彼女の望みを伝えると少し思考していたが、『陛下に願い出てみましょう』と席を外した。やはり契約者が契約神と共にアトゥルから、陛下のお膝元から離れるというのは心配なのだろう。他国に狙われないとも限らないのだから。だが、結果として許可は下りた。『他国へ行かないように』との意を含め護衛付きではあったが。……それを、きっと聡いシノブは感じ取ったのだ。でなければあの科白は出てこない。
『ダウエル様。私は……陛下と宰相閣下が私が他国に行かないように、『保護』したのだと思っていました』
シノブの言う『保護』はこちらが思う『保護』ではないと、この時はっきり感じた。『保護の名の下に自由を奪われるもの』と思っているのだ、彼女は。陛下も宰相殿も今までの生活を奪ってしまった詫びとして希望を叶えようとしているだけなのだが……それが伝わっていない。
『……赦せないかい?今までの生活を奪われたことや首都兵のことが』
そっと尋ねれば、目を少し伏せてから私へ目を合わせる。そして答えたのが、冒頭の科白だった。つまり、怒りはあってもそれをぶつけることも愚痴ったりもしないということだ。『平民だから』と身分差を示して全て飲み込むつもりなのだ、シノブは。
『あの謁見で、陛下は『望みがあれば宰相に申し付けるように』と仰いました。私は確かに皆様のご希望に添えるほど望みを言わないかもしれません。ですが今の時点で十分満足していますし……何より、対価に何か要求されるのではないかと怖いのです』
『!』
誤解だと言いたかった。だが伯爵の私が侯爵のハッサド殿や陛下のお気持ちを代弁する事など、荷が重くて出来ない。それから会話を幾つか交わして、彼女は東地方の森へ行ける事の礼を綺麗な姿勢で告げると踵を返し退室したのだった。
『これを、ハッサド殿に報告しなくてはいけないとは……』
ハッサド殿に彼女の返答を告げねばいけないのだ。それはその前後も話す必要が出てくると言う事。宰相殿はどんな感情を持たれるのか。気が重い。
***
『先ず、シノブ殿の返答をお伝えします。『許可を頂き有難うございます。ですが、護衛は首都兵以外をお願いしたく存じます。どうあっても首都兵が護衛として付くならば、今回の遠出の希望は何1つ無かったこととしてお忘れ下さい』とのことです』
『護衛に首都兵以外を、でなければ此度の望みそのものを無かったことに……ですか』
その端整な面立ちに渋い表情が浮かんだ。首都兵は陛下と宰相殿直下の謂わば精鋭だ。その彼らを拒否した事は、ハッサド殿にとって思いも寄らなかったことに違いない。……シノブは、それ程に首都兵に信を置いていないのだ。爪の欠片ほども。寧ろ嫌ってさえいる。だがその反面、我が家の私兵達とは良くやっている様だが。
『ハッサド殿』
『何でしょう』
『シノブ殿からもう1つ伝言が。『私はこの国を出るつもりは今のところありません。ご安心下さい』と。……あの者は察しているのですよ。他国に行かないようにと、ハッサド殿が首都兵を護衛にしたことを』
『何ですって?……まさか。あり得るのですか』
シノブは聡い。同年代の子息子女達よりも遥かに聡い娘だ。共に暮らして見てそれが良くわかった。……だが周りに女の身であるとは言うまい。彼女が願った事だ、私自身言うつもりはない。イーニスも同じだろう。
『シノブ殿は我が家でも滅多に自身の望みを申しません。首都の散策や茶を飲む事が出来る、あの者はそれで満足しているのです。あの謁見の際、陛下は何かあればハッサド殿に望みを伝えれば良いと仰っておられましたが……シノブ殿からハッサド殿へ何か願い出られたことはありましたか?』
『いえ、この度の遠出が初めてです』
『この遠出も、我が家の家令がシノブ殿がぽつりと漏らした言葉を拾ったからこそ知ることが出来たもの。自身から願い出てくれたわけではないのです。恐らく、今後もシノブ殿がハッサド殿に直接要請することは無いかと』
臣下としての報告の義務と彼女の意思を汲みたいという言い難さの狭間で揺れながら告げれば、彼は珍しくも動揺を見せた。
『な、何故です?私は今までの生活を奪ってしまったせめてもの償いにと』
『それは私も承知しております。ですが、陛下やハッサド殿のそのお気持ちが伝わっていないのです。曰く、『対価を要求されそうだ』と』
『!……本当にそんなつもりはないのですが』
徐に呟いた彼はシノブと面会して話をしたいと言ったが、それを彼女が受けたがるかどうかは正直分が悪いのでは、と思った。恐らくは彼女のことだ、宰相との対話は受けるだろう。だが心を開けるかと問われれば否と首を振る気がするのだ。その後もハッサド殿とは話し合い、結果、シノブの遠出に同行する護衛は我が家の私兵達から出す事に決まった。彼女とは打ち解けているようだからな、これで少しでも心に平穏が訪れてくれると良いが。
前話の忍sideと、少し時間軸がずれています。済みません……。