幕間 聡い娘
ダウエルside
彼女の第一印象は、男とも女とも付かない中性的容姿よりも瞳と髪の色が強く残っている。シン国で黒髪を持つのは我らがシン国国王アルダーリャト陛下だけで、他は似た色はあっても黒髪を持つ者は居ない。王の印である一房の白銀の髪。眉目秀麗と謳われる容姿は宰相のハッサド殿と同様、貴族の令嬢達の垂涎の的。そんなお二人に見惚れる様子1つもなく、自身も美丈夫を連れている。その1人は言わずもがな獣神ではあったが。
我がハイドウェル家は中堅ではあるが、代々歴代国王の信頼を勝ち得てきた。国政にて重要な1つ、財務の経理を任されている。税収はどれだけで、出費は何に幾ら使われたか。その計算額は膨大で骨が折れる勤めではあるが誇りでもある。
***
あの日謁見の間で初見を果たして契約者の後見役となった私は、契約者を連れて王宮を辞した。屋敷へ帰る馬車の中でも一言も喋らなかった彼女は、我が家を見てもそれ程驚く様子も無く、その眼は全てを放棄したかのようでもあった。何も頼らない、頼っても無駄だとでも言っているかに見えた。そんなに首都に留まるのは嫌なのかと思ったくらいだ。
最初は性別がいまいち判断し辛かった彼女が彼女だと分かったのは、部屋にて妻や息子、家令達と顔合わせさせた時。何か希望はないかと尋ねた返答でだ。
『水浴びを1人でさせて頂けないでしょうか。……流石に、異性と共に水浴びするのは精神的に厳しいものがあります』
貴族ならば湯浴みが出来るのに出てきた『水浴び』にも驚いたが『異性』の語が出てきた事で、この契約者は女なのだと確定した。それと同時に、謁見の間で起きていた出来事を思い出してひんやりしたものが胸を掠る。……女の身でありながら、あんなにもあっさりと髪を切り落とした。女であれば髪は大事なものであるはずなのに。
『……何故、謁見の間で髪を切ったんだい?女の身と分かれば切らずとも済んだのに』
『私は母国では短髪で暮らしていたのです、ダウエル様。私の国は個人の好きな髪型で過ごしていられましたから』
髪型の自由が許されている?そんな国など聞いたことが無いが、彼女が嘘を吐いているようにも皆目見えない。取り敢えず、彼女の故郷ではそうなのだろうと自分を納得させた。
『……この国での常識を、私は知りません。どうかご教授頂けますでしょうか』
『勿論だとも。けれど先ずその堅い口調を少しずつで良い、解していって欲しい。急激な環境の変化で戸惑うことも多いだろうが、もう赤の他人ではないはずだ。身内と思ってくれて良いんだ』
『有難うございます。……努力します』
努力する。
やはり最初からは難しいかという見解は私だけでなく、妻のミリアと息子のイーニスも同じ様だ。微かに苦笑を浮かべていた。
それからひと月。
彼女……シノブは驚くべき速さで私達の生活に溶け込んだ。自由に使うようにと与えた部屋には湯浴みの小部屋が付いているが、使用人達がする事は清掃だけだ。湯を張る事や使用前後の手伝いもシノブは必要としない。
清掃にしろ、効率良く行える様に使用済みの物も片付けられていると言うのは使用人達の報告だ。まるで出来る限り迷惑を掛けないようにしているのではと勘繰ってしまう。だが一方でミリアやイーニスからは時折会話も交わすと聞く。何方もシノブの事を『聡く良い娘』だと言うし、何か告げればそれに従うという。
自分の事は年下である事もあって呼び捨てにと言ったくせに、私達の事はいつまでも『様』を付ける。そして自身の希望は湯浴みの一件以来、滅多に言わない。彼女の中では、私達はやはり他人なのだろうか。
そろそろ薫花が終ろうかという頃。
シノブが我が家に来て3ヶ月程が経ったある日、王宮でのその日の任を終えて館へ帰ろうと席を立つと、丁度部屋の扉が来訪者を告げた。
『これはハッサド殿。いかがされましたか』
扉を部下に開けさせ現れたその人に、部下共々敬意を表し頭を下げる。わざわざ宰相が足を運ばれて来たとは、一体何の御用なのか。
『1つ2つ、個人的にダウエル殿にお聞きしたい事が有りまして』
個人的にと言うハッサド殿。恐らくはと思い当たる節があった私は、部下達を皆先に執務するこの部屋より辞させて彼に椅子を勧め、簡易ながらも茶を呈する。
『どうぞ。……ご用件をお伺いしましょう』
『彼の事です』
『彼?』
鸚鵡返しに繰り返したが、直ぐに思い当たる人物。宰相……いや、今はハッサド殿個人として訪ねて来られた目の前で茶を啜る彼を見る。そうか、この御仁は彼女を男だと思い違いをしているのか。だが私はそれを敢えて訂正せずに相槌を打った。
『ああ、シノブ殿の事ですか』
『ええ。貴方の屋敷へ預けて3ヶ月になります。いかがですか、彼の様子は?』
『我が家に来てひと月程で、生活に馴染んだようではありますね。……ですが、あの者は未だ我々に胸襟を開いてはくれぬようです。やはりこればかりは時間を掛けて解していくしか方法はありますまい』
『そうですか』
女であると、シノブの真の性別を知っていても『あの者』と何方にも捉えられる表現をしたのは、実はシノブの願いであったりする。滅多に言ってはくれない希望、その数少ない望みの1つが『他人に自分の性別をはっきり知らせないでほしい』と言うものだった。特に、陛下と宰相のお二方には。
何故、と問えば、彼女はこう答えたのだ。
『あのお二方、特に宰相閣下は……私を男と捉えてると思うのです。露見したその時はその時。ですが、敢えて訂正せず、男と思われているのであればそのまま有耶無耶にして通して下さいませんか?この国ではどうなのかは分かりませんが、少なからず男性を尊ぶ傾向はあると思います。私が女と知られた時、自分の身に迫るであろう事を今は出来る限り避けたいのです。部屋まで与えて頂き図々しいお願いではありますが、どうか意をお汲み頂きたく』
その答にどれ程私が驚いたか。確かに、位が高い女が働く事は皆無と言ってもいい。役職は男が就くのが暗黙の了解として知らされている。一重に王宮に勤めに入れる程の技能や頭を持っている女がそうそう居ないと言うだけでもあるのだが。そして女の身で職に就くことを良しとしない者がいる事も事実だし、獣神の契約者が女だと露見した際に男女の差を利用し無体を働こうとする者が現れないとも言えない。それを、シノブは見抜いている。
ああ、とシノブのこれを聞いた時思った。
この子は聡い娘だ。周りの貴族の娘達より、後宮にいる女達よりもずっとものが見えている。聡いが為にいざという時に迷惑を掛けると殻に閉じ籠り、私達には助けを求める事はしないだろうと。高が3ヶ月、されど3ヶ月。この短い間で其れだけは確信を持てた気がした。
イーニスにもシノブの言葉を相談するとその読みの聡さに唖然としたくらいだ。そして既に彼女を気に入っていたのだろう、早計ではあると前置きをしながらもある提案をして来た。
彼女を我がハイドウェル家一族に。自分達の家族に迎えたい、と。
それは妻とも一度だけ話したことがある内容。しかしそれがどれ程大変か。幾ら後見人に抜擢されたとは言え、幾ら彼女が獣神の契約者だと言えども……シノブは、素性が分からない娘だ。一族に迎え入れるのは並大抵ではないだろう。
『……エル殿、ダウエル殿。いかがなさったのです?何か思案されていたようですが』
『ああ、いえ。シノブ殿に胸内を打ち明けて頂くにはどうしたものかと。失礼致しました、ハッサド殿。折角足を運んで頂いたというのに』
どうやら思考の深みに嵌っていたらしく、ハッサド殿の呼び掛けに意識を戻した。シノブの事を考えていた事には違いがなく、他人の思考を読むのに長けている彼は疑念は持たなかったようでそのまま何事もなく部屋を去って行ったのだった。