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Elixir ―エリクシル―  作者: 光太朗
第六章 禁忌
20/22

6-2

 最初は、ひとりだった。

 セリウスの目の前で、着飾った女性が突然嘔吐した。下を向き口を押さえるのではなく、笑っていたその口から吐瀉物が飛び出した。一瞬、なにが起こったのかわからず、場は静まりかえる。直後に悲鳴がパレス内を支配した。

 わめき散らす人々のなかで、二人、三人と、同様の症状が現れ始める。嘔吐だけではなかった。頭を抑えてうずくまる者、気を失い倒れる者──症状は一つ二つではなく、あらゆる身体の不調を訴える声が続く。異変はそのうちに数え切れないほどになり、きらびやかな会場は豹変していった。地獄絵図。濃厚な臭いが充満する。

 動ける者のなかには彼らを気遣う姿もあったが、ほんの一部だった。全体で見れば半数かそれ以下か、症状のない者は戸惑い離れ、憐憫よりも非難の目を向けた。

「これは……」

 頃合いを見てパレスを出ようとしていたセリウスだったが、惨状に足を止める。パレス内を見渡し、状況の把握に努めた。なにが起こっているというのか。

「ど、どうしてしまったんでしょうか」

 傍らで、緑色のドレス姿の少女が、セリウスの赤いドレスを掴んでいる。セリウスは眉をつり上げてこちらを見ているリティアに気付いた。急いで耳打ちをする。

「ミラナ、すぐにベールを取って。もう充分です、ありがとう。私といるとあらぬ疑いをかけられるかもしれない」

 戸惑いながらも、ミラナはベールを取る。これだけ人が集まっている場所であれば、彼女の素性を証明することなどいくらでもできるはずだ。リーシュタインの当主と夫人が、離れた場所から見守っていることには気付いていた。そちらへ引き渡し、セリウスはもう一度礼を告げる。

「本当に、ありがとうございました。しかしこの場所は、なにかおかしい。不安だとは思いますが、気をしっかり持って。まずはここを出た方が良いでしょう」

「え?」

 ミラナは首をかしげた。その表情は純粋に不思議そうで、丸い目がさらに丸くなっている。

「え?」

 セリウスは聞き返す。ミラナの困惑の意図がわからない。

「いいですか、あなたやご両親の身にも、なにか起こるかもしれないといっているのです。もし伝染性のものであった場合は大変なことに……」

「セリウスさま、なにをおっしゃってるんですか?」

 ミラナはなおも不思議そうだった。これだけ異様な空気に満ちているパレスにいて、彼女は驚きこそすれ、決して不安がってはいなかった。

「わたくしは、大丈夫です。セリウス・ランセスタさまと一緒にいるんですもの、これほど心強いことはありません。それにここは、ランセスタさまのパレスなんですよ」

 ミラナは曇りのない笑顔だった。セリウスは言葉を失う。

 これが、この国の形だ。

 知っていて、だからこそ国を飛び出した。忘れたことなどないつもりだったが、改めて突きつけられる。

 ランセスタの力があれば、どんな病もどんな怪我も、治すことができる──それを信じる彼らにとっては、まるで魔法のように。

 パジェンズから譲り受けたという薬があったころは、そのとおりだったのだろう。しかし、いまとなってはもう、存在しないのではなかったか。

「それでも……それでも、まずは、ここを出た方が」

 しかし、セリウスの声はかき消された。

「ランセスタ様!」

 人々が叫んでいる。言葉にならない悲鳴は、いつしか団結しようとしていた。始めに声をあげたのはだれだったろう。始まりなどなかったかのように、高らかに、誇らしげに、まとまりを持っていく。

「ランセスタ様!」

「リティア様!」

「どうか我らを、お救いください」

「悪の魂に、罰を!」

 彼らは群がるようにリティアを取り囲んでいた。一方で、リティアは見るからにうろたえている。求められる声に応えることもせず、ショールで口元を覆い隠し、数人の側近に囲まれるようにして、壁際まで下がろうとしていた。

 セリウスには、彼女がこの場から逃げ出したいと思っているであろうことが手に取るようにわかった。ランセスタを動かしているのはガルダーン・ランセスタと長たち数人であり、リティア自身にその能力はない。「医療」に関わることもなく、ただちやほやともてはやされ、都合が悪くなれば腹を痛めて生んだ我が子を他人扱いする、そういう人種だった。

 しかし、ここにいる人々にとっては、リティア・ランセスタはあらゆる病を治せるランセスタの一員に他ならない。この場から姿を消すことなど、許されるはずもないのだ。

「リティア様!」

「どうか、どうか……リティア様!」

 声が続く。リティアはいまにも泣き出しそうな目で周囲を見ていた。待ちなさい、止まりなさい──震える声は響かない。

「まず、窓を開けなさい!」

 たまらず、セリウスは叫んでいた。腹に力を入れ、繰り返す。

「窓という窓を、全部! それから、なにも口に入れてはいけません! 窓を開けたら、動ける者は外へ!」

 セリウスの声が届く範囲で、静寂とどよめきが起こった。セリウスは続けて、手にしているものをこれ以上配ることのないよう、立ち尽くしている給仕に指示をする。数種類の酒の類をトレイに乗せていた彼らは、もちろんすでに仕事をこなすどころではなかったが、セリウスからの指示に困惑の色を見せた。

 セリウスは奥歯を噛みしめた。睨みつけるようにリティアを見据え、押し殺した声でいう。

「私は、ランセスタの……者です。これだけ多くの病人がいたのでは、皆さんには指示を聞いていただく必要があります。いいですか、窓を、開けてください。それから外へ、出てください。そうですね、リティア様?」

「……え……あ……」

 リティアは言葉を失っていた。セリウスの意図に合わせてくれることを期待したが、それは難しいようだった。視線を一斉に浴び、動けないでいる。どうすれば良いのかわからないのだろう。ここにはガルダーンも、長たちもいないのだ。

 ふと、セリウスは疑問を抱く。バルが始まってからずいぶん長い時間が過ぎたはずだ。なぜ未だ、ガルダーン・ランセスタは現れないのだろうか。

「おい、弟」

 かけられた声に、耳を疑った。

 振り返ると、そこにはキルリアーナが立っていた。厳しい表情で、パレス内を見渡している。ロイスの姿はないが、どうやら計画は成功したようだ。

「無事でしたか! 兄さんが助けに?」

「どういう状況だ」

 セリウスの言葉を遮り、つぶやく。問いかけているというよりも、どこか独り言のようだった。じっと周囲を見ていたキルリアーナの視線が、リティアで止まる。鋭く舌打ちすると、着ていたエプロンドレスを乱暴に脱ぎ捨てた。パレスにはそぐわない、ガリエンにいたときと同じ身軽な姿で、駆け出す。

「おい、あんた!」

 人垣の間を縫い、リティアの前に迫る。彼女の胸ぐらを掴みそうな勢いに、セリウスは急いでキルリアーナのあとを追った。この場で感情にまかせたのでは、厄介なことになるばかりだ。

「な……な、何者です、無礼な」

 リティアが目線を逸らしながら、震える声で返す。知らないはずがなかった。よほど余裕がなくなっているのだろう。しらばっくれることすらまともにできていない。

「この状況をどうにかできるのは、あんただけじゃねえのかよ。すぐに医師を集めろ。モノがなくてもできることはいくらでもあるはずだろ」

「なにを、偉そうに……っ」

 リティアの眉が跳ね上がる。キルリアーナを突き飛ばすと、金切り声で叫び始めた。

「この者を捕らえなさい! パジェンズの医師です! 異端の医師が我らランセスタを呪おうと、このような恐ろしいことを……! この者を、捕らえなさい! さもなくば、病は広がるばかりです!」

 すでに場は混乱しきっていた。だれもが期待していたリティアの声には、有無をいわさない強制力があった。

「パジェンズ……」

「パジェンズの医師だ」

 空気が変わる。パジェンズの医師という言葉に、希望はなかった。同じ医師であっても、ランセスタこそが正義であり、パジェンズは排除すべきものなのだ。

「馬鹿なことを!」

 駆けつけたセリウスが制止しようとするが、リティアの血走った目に息を飲む。正気ではない。もともと危うい母ではあったが、この状況で我を失っているのは間違いなかった。どうすべきかと脳を動かすその間にも、リティアは叫び続ける。

「この者も、異端の仲間です! 恐ろしい、とうとう、我がランセスタにまで入り込み、これ以上、ランセスタをどうしようというのか……!」

「どうか落ち着いてください! 父う……ガルダーン様は、どうなされたのですか、ガルダーン様なら──」

 少なくとも、この場を収拾することはできるはずだった。しかし、セリウスの言葉に、リティアは動きを止める。

 瞬きをすることもなく、目を見開いて、ぽかんと口を開ける。

 それから徐々に、身体を震わせた。笑っているのだ。

「なにをいってるの! なにも知らないで! もうとっくに終わっているの、おしまいだわ! 治せるわけがない! 治せるわけがないじゃない!」

 リティアは高らかに笑い続けた。自らを囲む側近たちからふらふらと抜け出して、人々を順番に指さしていく。立っている者も、伏している者も、怒鳴る者も苦しむ者も、皆を同じように、ひとりずつ。

「終わっているの、死ぬわ。死んでいくだけ。あなたも、あなたも、あなたも、あなたも、死ぬの、死ぬの、死ぬの、死ぬの」

 笑い声がこだまする。実の母親の姿に、セリウスは恐怖心すら覚えた。

 どうしてしまったのだろう。なにが彼女を、こうさせてしまったのだろうか。

「そんなに死にたいんなら……っ」

 キルリアーナが吼える。しかしその続きをいったのは、彼女ではなかった。真っ直ぐ、リティアに歩み寄る者がいた。彼女はなんのためらいもなく、細剣を振りかぶる。

「死んでしまえばいいわ」

 抑揚のない、静かな声。リティアの腹が、正面から貫かれる。

 サーラだった。彼女は細剣で、リティアの腹を突き刺していた。細剣は警備の持っていたものだろう。サーラが持つには長いそれは、いまはリティアの身体の中心にあった。

 ネジを抜いたかのように、リティアの笑い声が、ぴたりと止んだ。ぎょろりとした目がサーラを捉える。開いた口からは、もう音が出ることはない。

 リティアを一瞥することもなく、サーラは細剣の柄から手を離した。倒れるリティアなど最初からいなかったかのように、当たり前に静かに、立っている。

「────っ」

 セリウスは言葉が出てこなかった。既視感。ガリエンの治療院で見た光景と酷似している。

 なにもかも嘘なのではないかと思われるほどだった。リティアが、動かなくなっている。音が消えていた。悲鳴もなにもかも、聞こえない。

 母上と、叫ぼうとした。

 しかしそれに、なんの意味があるというのだろう。呼びかけたところで、彼女は恐らく答えないのだ。もう聞こえないからではない。たとえ聞こえたのだとしても。

 混乱していた。頭を押さえる。

 無音の世界。

 自らの耳がどうにかなってしまったのかと、疑うほどだ。しかし、違っていた。いつの間にか、立っているのはセリウスとキルリアーナと、サーラだけだった。リティアの側近もランセスタの警備も、給仕も貴族たちも全員が、気を失っていた。

 思い出したように、セリウスは口と鼻を手で覆う。薬剤の香り。恐らくはサーラの仕業だろう。

 しかし、いま立っていられるということは、セリウスには効果がないということだ。

 サーラの目はまるで見届けろといっているようで、セリウスは覆っていた手を離す。

「どう? 見たでしょう。ここが、この国の終着点」

 サーラは静かに、キルリアーナに語りかけた。感情を排したサーラの表情からは、怒りや哀しみ、喜びも、感じ取ることができない。

 キルリアーナは、サーラを見つめていた。かすかにその目に宿るのは、困惑と──迷い、だろうか。

「エリクシルに頼り切って、些細な病すらどうにもできない。違うわね、治そうという姿勢そのものを、失ってしまったの。それって、どうしてかしら? ねえ、それって、エリクシルのせいかしら? わたしのせいなのかしら? 欲しいっていうから、あげたのよ。あのころのランセスタは、純粋に医療を学ぼうとしていたの。ねえ、セリウス・ランセスタ」

 サーラの奇妙に穏やかな目が、セリウスを捉える。セリウスは、ガリエンでのやりとりを思い出そうとしていた。彼女は、いっていたはずだ。ちょうど、いまと同じように。

「悪いのは、わたし?」

「……いまのこの状況に、サーラが無関係ってことは、ないんだろ」

「そうねえ」

 キルリアーナの問いに、サーラは小首をかしげた。手についた血を舐めあげて、くつくつと笑う。

「安心して、すぐに死ぬようなものじゃないから。ただの興味よ。この場で一斉に病人が出たら、ランセスタはどうするのかしらって。リティア・ランセスタの解答は、最悪だったわね」

 しかし、予想していたのだろう。サーラの声に落胆はない。

「どうしてガルダーン・ランセスタが現れないか、知ってるかしら」

 不意に微笑がこちらを向き、セリウスは息を飲んだ。

 それはずっと、考えていたことだ。リティアの反応も普通ではなかった。

 治す手段をほとんど失ってしまったことで、ランセスタから逃げ出したのだろうか。セリウスは一度そう考え、すぐに否定した。それ自体は、あり得ないことではない。事実、ガリエンの長たちも逃げ出すところだったのだ。しかしそれならば、ガルダーンに依存してばかりだったリティアが残っているのはおかしい。

「まさか……」

 一つの可能性に、思い当たる。するともう、それしかないという思いに囚われる。

「父上は、もう、亡くなっているのですか」

 口に出すことで、余計に腑に落ちた。

 ガルダーンはもう、いないのだ。死を公表するわけにもいかず、かといって逃げ出す度胸もなく、リティアはランセスタの残骸にすがり続けるしかなかったのだろう。

 それでも、期待を込めていたに違いない。

 新たな秘薬の獲得。パジェンズに協力していた理由があるとすれば、それしかないのだから。

「ええ、そう。とてもよくある病気で、あっさりね。いままで何度も秘薬で治療してきたはずの、この国でなければ死ぬことなんてないはずの病気で、あっという間に。エリクシルはどんな病気も治すけれど、予防効果は万全ではないもの。でも彼は、覚悟していたわ。それだけでも少しは、ましかしら」

 足元が崩れていくような感覚のなかで、セリウスは両足に力を込める。

 考えろと、自らに命じた。

 キルリアーナの旅の目的は、エリクシルの完成だったはずだ。サーラの目的も、恐らくは同じなのだろう。

 ではいましていることの意味は、なんだというのだろうか。

 この国にはもう、見切りをつけたということなのだろうか。

「キル」

 セリウスは呼びかける。ただじっとサーラを見つめている、不安定な少女。

「あなたの目的は、これだったのですか」

 違うはずだ。願いすら込めて、問う。しかしキルリアーナは、答えない。

「まずはあなたよ、セリウス・ランセスタ」

 遮り、サーラがいった。

「百年も昔の約束よ。わたしの体内にある秘薬を分け与える代わりに、約束をしたの。年月をかけ、わたしは次の秘薬を作り上げる──あなたたちはその協力を、惜しまないこと。そうして、秘薬が完成したそのときに、もう一度答えを出しましょうと、約束したの。だからあなたには、答える義務がある」

「約束……」

 わたしと、サーラはいった。

 約束したのは、サーラ自身なのだろうか。彼女は、百年、それ以上の年月を生きているとでもいうのだろうか。

 わたしたちではなく、わたしと。ではキルリアーナはどうなるのか。彼女もパジェンズの医師ではなかったのか。

「キル……あなたは」

「オレは、サーラから生まれた」

 独り言のように、キルリアーナはつぶやいた。

「エリクシルの母胎として、生まれた。オレはエリクシルの完成だけを目指してきた。完成させたら、サーラの中に戻る、それだけだ。そのつもりだった。そこに疑問を持ったことなんかない……なかった、んだ、オレは」

 震えている。彼女の迷いの意味を、セリウスは理解できないでいる。なにが起こっているのだろう。考えが追いつかない。

 彼女が震えている、この場所に、どうしてロイスがいないのだろう。

「どれだけの母胎を生んだかしら。失敗ばかりだったわ。でも、あなたは違う。あなたって最高よ! いままでで最高の秘薬を、見事に完成させた! まだ少ししかわたしのなかに渡っていないけれど、それでも充分、精度がわかる。これだけでも充分、エリクシルとして通用する。あなたは間違いなく、わたしの最高傑作よ!」

「オレは……!」

 消え入りそうな、キルリアーナの声。目的を訊いたのはあまりにも酷だったのではないだろうかと、セリウスは気付く。

 ひどく不安定だった。

 混乱しているのは、セリウスだけではないはずだ。彼女はきっと、それ以上に。




挿絵(By みてみん)










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