5-2
──愛しい愛しいキルリアーナ。
サーラの笑顔は、いつでも思い出すことができた。
彼女はいつだって微笑んで、キルリアーナの頭を撫でてくれていた。
──あなたは医師。あなたはひとを治し続けるの。
生まれてから十年間、キルリアーナはサーラと共に暮らした。
あらゆる知識を教わった。
医療技術を学んだ。
どんな怪我にも病気にも、その腕ひとつで挑むことができるように。
──けれど、あなたはパジェンズの医師。体内で薬を作り出す。
いまはまだ、ほとんど力を持たないけれど。
いつかそれは秘薬になる。
体液を得なさい。
できるだけたくさんの、体液を得なさい。
健康な体液、病に冒された体液、どちらもあなたのプラスになる。
そうしてあなたの体内で、エリクシルを生成するの。
歌のように、呪文のように、毎日サーラはそういった。
キルリアーナはただうなずいて、それを心に深く刻んだ。
──愛しい愛しいキルリアーナ。
サーラは笑う。
キルリアーナの頭を撫で、頬に口づけをする。
──いつか秘薬が完成したら、
わたしとひとつになりましょう。
*
キルリアーナは目を覚ました。
視界は闇だ。少しずつ目が慣れてきて、状況が見えてくる。
「……やるなあ」
舌打ちするよりも、感心してしまった。
眠ったときと変わらない、人の気配が一切ない部屋。部屋というにはあまりに質素で、かといって牢獄というほどでもない。倉庫かなにか、もしくは収納を目的とした部屋だといわれれば納得だった。といっても、荷物が積まれているわけではない。窓もなく、灯りもなく、用を足すための簡易的なトイレ──蓋付きの壺のようなものだ──が、端に置いてある。
キルリアーナが感心したのは、相変わらず見張りがだれもいないということだ。
部屋の外にはいるのかもしれないが、話し声も物音も聞こえない。
これが、パジェンズの特性を知ってのことならば、感嘆せざるを得ない。
お手上げだった。
「おーい。メシー」
とりあえず声を張り上げてみる。
当然のように、返事はない。
キルリアーナは諦めて、壁に背を預けて座り込んだ。
両手が縄で繋がれているが、それだけだ。自由がないというほどでもない。
このまま、機を待つしかなかった。
ドアの鍵は開きそうにない。それは眠ってしまう前に散々試した。
さまざまな種の体液を得たキルリアーナの血は、いまでは毒薬としても充分に利用できる。元々の特性から、相手を魅了して隙を見ることもできるはずだ。
しかしそのどちらも、相手がいないことには意味がなかった。
いままで何度、こうして捕まったかは、わからない。
一度や二度ではないことは確かだ。表向きにはパジェンズの医師は犯罪者であり、多額の賞金がかけられている。
それでも、逃げおおせなかったことはない。
油断せず、機会をうかがう──キルリアーナにできることは、それだけだ。
ふと、思い出す。
ロイスはどうしているだろうか。
助けに来ようとしているかもしれない。彼ならば充分に考えられる。
キルリアーナは極力、ひとと接触しないように生きてきた。体液を得るために病のもとへは駆けつけたが、用が済めばすぐに姿を消した。パジェンズの医師の治療法を知ると、畏怖の念を抱かれることがほとんどだった。礼をするといわれ、逆に捉えられそうになったことも多い。感謝されたこともあるにはあるが、どちらにしても、キルリアーナにとっては面倒なだけだ。
サーラには、利用しろといわれていた。
口癖のように、彼女はいい続けていた。
ひとを利用しなさい。
女であることを武器にしなさい。
美しさを磨き、ひとと関わるすべを学びなさい。
それはあなたのプラスになる──
キルリアーナは、サーラのいうことはすべて正しいと思っている。
しかしそれでも、ひとを利用することは苦手だった。
女性であること、それ自体に、疲れ果てた。
合理的だということは、理解している。
プラスになるということも、わかっている。
それは手段だった。目的へ到達するための手段の一つであり、ただの過程だ。
そこに感慨はない。
たとえば女性としての心だとか、恥じらいだとか、ためらいやそれとは逆の高揚感、そんなものはとっくに失っている。
必要とあれば、やはりキルリアーナは、ひとを利用するのだ。
そのたびに、目に見えないなにかが、どうしようもなく壊れていった。
だからできるだけ、ひとりでいようと決めていた。
しかしロイスは、そんなキルリアーナの前に、現れた。
「あいつは……」
ふと、笑みが漏れた。
ロイスは、キルリアーナに警戒心を抱かせなかった。
また、利用しようという気にも、させなかった。それは計算ではなく、単に彼の技量の問題だろうとは思うが。
「ばかだからなあ」
きっと、助けに来ようとするだろう。諦めてくれればいいとも思うが、彼は諦めないような気がした。
どうにかして、ここまで助けに来てしまうかもしれない。
そのときは笑ってやろうと、キルリアーナは思う。いったいどうして来たのかと、無駄なことをしたものだと、指をさして笑うのだ。あいつはどんな顔をするだろうかと想像して、また少し、笑みをこぼす。
捜しているという女性には、会えたのだろうか。
あの弟は、気を持ち直して、前進しているだろうか。
「いまは……寝て待て、だな」
助けを待つのではない。
自ら動く、その機会を。
しかし目を閉じても、瞼の裏にはやはり、あの阿呆面が浮かんでいた。




