退世勧奨
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1. 冷たい取引
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息子の拓海が通う中学校の応接室は、息が詰まるほど重苦しい沈黙に包まれていた。
机を挟んで向かい合うのは、校長、教頭、そして拓海が所属していた剣道部顧問の教師・村越だ。村越の顔は恐怖と動揺で青ざめ、床の一点を見つめたまま小刻みに震えている。
数日前、拓海は村越の「熱血指導」という名の暴力によって命を落とした。執拗な体罰。倒れてもなお浴びせられた蹴り。それが原因の急性硬膜下血腫だった。
その日、拓海は酷い風邪で40度近い高熱を出していた。ふらつきながらも「這ってでも来いと言われたから」と部活に向かった拓海に、村越が浴びせたのは、およそ指導とは呼べない狂気だった。
「やる気がないなら帰れ!」「目が死んでいる!」
体調不良を訴え、まともに面も打てない拓海に対し、村越は「言い訳をするな!」と激高。防具の上からだけではない、竹刀の柄で生身の頭部を何度も殴りつけ、挙句の果てには倒れ込んだ拓海の腹や背中を、土足のまま何度も踏みにじった。
「演技をしてんじゃねえ、立て!」
それが、意識を失う直前の拓海に浴びせられた、この男の最後の言葉だ。病院へ搬送される車中で、村越が真っ先に口にしたのは拓海の容体への心配ではなく、「あいつが勝手に倒れた。僕は正当な指導をしていただけだ」という、保身の言い訳だったという。
普通の親であれば、泣き叫び、警察を呼び、この殺人者を社会的に抹殺しようとするだろう。だが、父親である私は、酷く冷静だった。いや、冷静さを通り越して、胸の奥には絶対零度のマグマが燃え滾っていた。
――こいつを、生かしてはおけない。
だが、法で裁かせるなど生ぬるい。そんなもので私の復讐は終わらない。私は、村越に自らの意志で、自らの手を汚させ、絶望の中で命を絶たせると決意していた。
私は静かに口を開いた。
「校長先生。教育委員会の皆様にも、既にお伝えしてあります」
校長がビクッと肩を揺らし、すがるような目で私を見た。
「は、はい……それで、その、訴訟の件ですが……」
「訴えません」
私の言葉に、室内の空気が一瞬で変わった。村越が弾かれたように顔を上げる。
「拓海は、持病の心臓発作で亡くなった。そういうことにしましょう。部活の練習中に、不運にも持病が再発した。学校側にも、村越先生にも、一切の落ち度はなかった。そういう報告書を、教育委員会と一緒に作成してください」
「え……?」
村越が呆然と声を漏らす。校長と教頭は、信じられないものを見る目で互いに顔を見合わせた。
「お、お言葉ですが、お父様……本当に、よろしいのですか? 我々としては、相応の処分も覚悟して……」
「ええ。学校の評判が落ちるのも、村越先生の未来が閉ざされるのも、誰も望んでいません。これ以上、騒ぎを大きくしたくないのです。ただし、条件があります」
私は村越をまっすぐに見据えた。
「村越先生。このことは、あなた一人の胸に生涯、秘めておいてください。学校と教育委員会が隠蔽を完璧に行う以上、外から漏れることはない。だから、あなたの奥様にも、お子さんにも、この『事故』の真実は絶対に話さないでいただきたい。家族を余計な不安に巻き込む必要はありませんからね」
「あ……ああ、はい! もちろんです! 誰にも、妻にも絶対に言いません! ありがとうございます、ありがとうございます……!」
村越は畳に額をこすりつけるようにして、涙を流して感謝した。
自己保身に魂を売った男の、醜い姿だった。
隠蔽体質の学校と教育委員会は、この願ってもない提案に飛びつき、またたく間に「完璧な事故」のシナリオを作り上げた。村越は一切の社会的制裁を受けることなく、教壇に立ち続けることになった。自分の家族にすら、ひとつの嘘も吐かずに「何もなかった顔」をして、温かい家庭に帰り続ける。
これこそが、私の罠だった。
誰にも相談できない。誰とも秘密を共有できない。
彼はこれから、世界でただ一人、私だけが知る「絶対的な檻」の中に閉じ込められるのだ。
葬儀が終わり、四十九日が過ぎ、それからの時はあっという間に流れた。
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2. 復讐の開始
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拓海の死から512日が経過した今日、世間はとっくに拓海の死を忘れていた。
私は、村越の自宅のポストへ、一通目の手紙を投函した。
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退世勧奨(一通目)
村越殿
「あの日」から512日が経過いたしました。
新たな年度を迎え、桜花の便りが各地から聞こえる頃となりましたが、貴殿におかれましては、いかがお過ごしでしょうか。毎日、何事もなかったかのように教壇に立ち、未来ある子供たちを「指導」されていることとお察しいたします。
さて、本日こうして筆を執りましたのは、貴殿に一つ、極めて道徳的、かつ根源的な問いを投げかけるためです。
貴殿は今、どのような気持ちで温かい我が家に帰り、愛するご家族と食卓を囲んでいるのでしょうか。貴殿が日々享受しているその平穏は、ある一人の少年の命と、その家族の未来を完全に破壊した上に成り立っている砂上の楼閣です。
道徳とは、人間が人間らしく生きるための規範です。では、自らの暴力によって教え子の命を奪い、それを保身のために闇に葬り、何食わぬ顔で生きながらえている存在は、果たして「人間」と呼べるのでしょうか。
法的な処罰を免れたからといって、貴殿の罪が消えたわけではありません。むしろ、公に裁かれる機会を失ったことで、貴殿は永遠に赦されるチャンスを失ったのです。
自らの胸に手を当てて、深く考えてみてください。
他者の生きる権利を理不尽に剥奪した人間に、この世界に留まり、息を吸い続ける資格があるのでしょうか。貴殿の存在そのものが、この世界の道徳に対する冒涜であるとは思いませんか。
これ以上、生にしがみつき、自らの醜悪さを晒し続けることは、貴殿のご家族にとっても、貴殿自身にとっても、耐え難い侮辱であるはずです。
自らの犯した罪の重さを正しく認識されることを切に願います。
――拓海の父より
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3. 浸食する日常
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一通目の手紙を投函してから、長い時間が流れた。
村越は最初、あの手紙を悪質な嫌がらせか、あるいは被害者の父親の一時的な感情の爆発だと思ったのだろう。学校や教育委員会が完璧に隠蔽し、警察も動かない以上、自分が脅かされるはずがない。そう自分に言い聞かせ、必死に無視しようとしていたに違いない。
だが、私の目的は彼をすぐに追い詰めることではなかった。
日常という名の温いスープの中で、彼の精神をゆっくりと、確実に蝕んでいくことだ。
人は、忘れた頃にやってくる恐怖に最も弱い。
一通目からちょうど256日後。季節はすっかり移り変わり、凍てつくような冬の日に、私は二通目の手紙を彼の自宅ポストに滑り込ませた。
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退世勧奨(二通目)
村越殿
前通より256日が経過いたしました。
あれから随分と時間が経ちましたが、貴殿の心に変化は訪れたでしょうか。
今日も貴殿は、自らの手を汚したあの教室で、子供たちに「正しさ」を説いたのでしょう。その口で、愛するお子さんに「人を傷つけてはいけない」と教えたのでしょうか。
貴殿が生きている一日一日は、拓海が生きるはずだった未来を盗み取ったものです。その盗品で飾られた人生に、どれほどの価値があるというのですか。
今一度、問いかけます。
貴殿に、この世界で生き続ける資格はあるのでしょうか。
――拓海の父より
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手紙を受け取った村越の様子を、私は遠くから観察していた。
通勤途中の彼の顔からは、かつての傲慢な自信が消え失せていた。心なしか視線が泳ぎ、背中が丸まっている。
彼は誰にも相談できない。なぜなら、学校と教育委員会に「事故のことは墓場まで持っていく」と誓い、最愛の妻にも「持病による不運な事故だった」と嘘を突き通しているからだ。今さら「実は体罰で生徒を殺してしまい、その父親から手紙が来ている」などと打ち明けられるはずがなかった。
孤独な秘密は、心を内側から腐らせる劇薬となる。
さらに、その日からちょうど128日後。桜の季節が終わり、新緑が眩しい季節に、三通目の手紙が届く。
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退世勧奨(三通目)
村越殿
前通より128日が経過いたしました。
貴殿の平穏は、私への欺瞞と、ご家族への嘘の上に辛うじて乗っかっている薄氷のようなものです。
嘘を重ねて貪る生は、死よりも醜悪だと思いませんか。
貴殿が呼吸をするたび、この世界の空気が汚されていくように感じられます。
自らの意思で、その歩みを止めるべき時が近づいています。
――拓海の父より
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村越の家庭に、不穏な空気が流れ始めているのはすぐに分かった。
彼の妻が、最近夫の様子がおかしいと近所に漏らしているのを突き止めたからだ。夜中に突然飛び起きる、夜中に何度も家の周りを見回る、理由のない苛立ちを家族にぶつける……。
確実に、効いている。
私のカウントダウンは、彼の精神の歩調に合わせて、徐々にその間隔を狭めていく。
さらに64日後。梅雨のジメジメとした不快な暑さの中、四通目の手紙が彼の元へ落ちる。
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退世勧奨(四通目)
村越殿
前通より64日が経過いたしました。
だんだんと、間隔が短くなっていることにお気づきでしょうか。
これは貴殿の罪が、いよいよ現世に溢れ出そうとしている兆候です。
逃げ切れるという幻想は捨てなさい。貴殿が生きていること自体が、犠牲者への冒涜です。
道徳的な決断を下す猶予は、そう長くはありません。
――拓海の父より
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4. 加速する秒針
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四通目の手紙を境に、村越の精神の崩壊は目に見えて加速していった。
彼は、手紙が届く「周期」が正確に半分ずつに縮まっていることに気づいたのだろう。256日、128日、64日。数学的な規則性を持って狭まっていくその間隔は、彼にとって、自らの首を絞める縄が少しずつ引き絞られていく恐怖そのものだったはずだ。
次は32日後。その次は16日後。
「終わり」が確実に近づいている。その「終わり」が来た時、いったい何が起こるのか。その恐怖が、彼の日常を完全に支配した。
一か月後、またあの地獄の便箋がポストに落ちる。その恐怖に耐えかねた彼は、ついに自ら進んで、かつて「共犯関係」を結んだ学校の応接室へと駆け込んだ。
放課後の校長室。村越は髪を振り乱し、血走った目で校長と教頭にすがりついた。
「校長先生、教頭先生……お願いです、もう限界なんです! あの父親から、手紙が来続けているんです! 次は32日後だ……絶対にまた来るんだ!」
校長は不快そうに眉をひそめ、声を潜めた。
「村越先生、大声を出すな。誰に聞かれるか分からない。手紙とは一体何のことだ」
「退世勧奨です! 私に死ねと言っている! 先生、私は……私はもう、すべてを警察に話して、自分の罪を公にしたい。拓海くんのご遺族に、本当の意味で謝罪して、赦されたいんです。これ以上、嘘をついて生きるのは耐えられない……!」
村越はボロボロと涙をこぼし、床に膝をついた。
それは反省というよりも、恐怖から逃れたい一心での「告白」だった。だが、そんな彼の淡い救済への願いを、校長の一言が冷酷に打ち砕いた。
「たいせい、かんしょう??くだらん。何を馬鹿なことを言っているんだ、君は。」
校長の目が、これまでに見たこともないほど冷たく据わっていた。
「公にする? 警察に話す? 冗談じゃない。あの事故は、お父様も納得の上で『持病による不運な病死』として処理され、教育委員会への報告もすべて終わっているんだ。今さら君が『実は体罰で殺しました』などと騒ぎ立ててみろ。学校の信用は地に落ち、私も教頭も、教育委員会の担当者も全員破滅だ。それだけじゃない、君の家族はどうなる?」
「でも、このままだと私はあの父親に殺される……!」
「お父様は『訴えない』『隠蔽を受け入れる』と言った。公に騒いでいるわけじゃない。個人的な手紙など、無視すればいいだけの話だろう」
教頭もまた、村越を蔑むような目で見下ろした。
「村越先生。君が大人しく教壇に立ち続けること、それが我々全員の利益なんだよ。勝手な正義感で、我々を巻き込まないでくれ。もしこれ以上、事件を蒸し返すような真似をするなら……学校としては、君が『独断で暴力を振るい、学校を騙して虚偽の報告をさせた』として、すべての責任を君一人に押し付けてトカゲの尻尾切りをするしかなくなるが、それでもいいのかね?」
「あ……」
村越の顔から、完全に血の気が引いた。
味方だと思っていた組織は、最初から自分を守ってなどいなかった。ただ「組織の保身」のために、自分という人殺しを都合よく檻の中に閉じ込めていただけだったのだ。
学校という巨大な隠蔽の壁に退路を塞がれ、彼は完全に孤立した。
誰にも赦されず、誰にも助けてもらえない。
這う失意のままに自宅へと帰り、絶望の中で彼が迎えたのが、ちょうど32日後――盛夏の刺すような日差しの日だった。
私は、五通目の手紙を彼の自宅ポストに投函した。
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退世勧奨(五通目)
村越殿
前通より32日が経過いたしました。
貴殿の背負う罪の重さは、日に日に増しているはずです。
なぜなら、生きれば生きるほど、貴殿は「謝罪もせず生き永らえる恥知らず」としての時間を積み重ねることになるからです。
これ以上、自らを貶めるのはおやめなさい。
人間としての最後の尊厳を守る方法は、ただ一つしかありません。
――拓海の父より
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村越はついに、学校を無断欠勤するようになった。
かつてあれほど熱心に、そして傲慢に生徒を怒鳴り散らしていた面影はどこにもない。時折、彼が自宅のカーテンの隙間から、怯えた目で外を覗き込んでいるのを見た。
彼は警察に駆け込むこともできない。なぜなら、警察にこの手紙を突き出せば、なぜ自分がこんな手紙を送りつけられているのか、その「原因」をすべて説明しなければならなくなるからだ。
「私が中学生を殴り殺したからです」と、自分の口からぶちまけることになる。妻と娘を「人殺しの家族」にすることになる。それは彼が最も恐れていることだった。
さらに16日後。夜のなまぬるい風が吹く頃、六通目の手紙が届く。
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退世勧奨(六通目)
村越殿
前通より16日が経過いたしました。
貴殿の家族は、貴殿の異変に怯えています。
あなたが抱えるその真っ黒な秘密が、いずれ家庭をも侵食し、すべてを破滅させるでしょう。
家族を愛しているのなら、これ以上彼らを汚してはならない。
身を引くべきです。今すぐに。
――拓海の父より
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村越の顔は、幽鬼のように土気色に変わっていた。
私の目論見通り、彼は誰にも相談できず、たった一人でこのカウントダウンと戦っていた。学校に泣きついても無駄だった。
教育委員会に泣きついても、同じく無駄に終わるだろう。彼らは「隠蔽」の共犯者だ。今さら村越が個人的な脅迫に怯えていると言い出せば、「これ以上騒ぎを起こすな」と切り捨てられるのがオチだからだ。
(もう、警察に駆け込みたい。
すべてを明るみに出して真っ当に罪を償いたい。
亡くなった彼と、その遺族に真正面から向き合い、表社会の理の中で生きたい。)
しかしあの日、校長に問われた「君の家族はどうなる?」という言葉がそれを許してはくれなかった。
村越は今になってようやく気付いたのだ。私が隠蔽に協力したのは、彼を赦すためではなく、赦される機会すら奪うためだったということを。
そして8日後。深夜の静寂を切り裂くように、七通目の手紙が彼のポストに音もなく落ちた。
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退世勧奨(七通目)
村越殿
前通より8日が経過いたしました。
猶予は潰えようとしています。
貴殿がこの世に留まる理由は、もうどこにも残されていません。
あなたの犯した大罪を、その命を以て精算しなさい。
それが、貴殿に遺された唯一の道徳的義務です。
――拓海の父より
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5. 臨界点
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八日、四日、二日。
縮まり続ける時間の螺旋は、村越の精神を完全に摩耗させ、粉々に砕いていった。
彼はもう、夜に眠ることさえできなくなっていた。手紙が届くたびに、彼は自宅の玄関前でうずくまり、頭を抱えてむせび泣いていたという。近所の住民は、彼のその異常な様子を不審がり、村越の家庭はいよいよ崩壊の危機に瀕していた。
だが、どれほど精神を病もうとも、彼は自ら死を選ぶだけの勇気を持てずにいた。人間とは、どこまでも醜く生にしがみつく生き物なのだ。だからこそ、私はその背中を崖っぷちから突き落とすための「最後の仕掛け」を用意していた。
七通目からちょうど4日後。私は八通目の手紙を投函した。
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退世勧奨(八通目)
村越殿
前通より4日が経過いたしました。
自らの命を絶つ恐怖に怯えているようですね。
しかし、拓海が味わった恐怖と絶望は、そのような程度で済むものではありませんでした。
貴殿の生に対する未練は、ただの醜態です。
間もなく、すべてに決着がつく刻が訪れます。
心の準備はよろしいですか。
――拓海の父より
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村越は、この手紙を受け取った翌日、家から一歩も出なくなった。
灯りの消えた暗い部屋の中で、ただ次の手紙が届く恐怖に震えていたのだろう。
そして、さらに2日後。九通目の手紙が彼の元へ届く。
これが、「退世勧奨」としての最後の手紙だった。
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退世勧奨(九通目)
村越殿
前通より2日が経過いたしました。
これが、私から貴殿へ送る最後の「問い」です。
貴殿は、自らの手で犯した罪を、このまま有耶無耶にして生き続けるつもりですか。
あなたの存在そのものが、遺族にとっての永遠の苦痛です。
明日、すべてが終わります。
――拓海の父より
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翌日。九通目が届いたわずか1日後。
村越が極限の恐怖と寝不足で、完全に思考能力を失っているそのタイミングで、私は十通目の手紙――最後の書類を彼のポストに投函した。
その手紙の表書きには、これまでの「退世勧奨」ではなく、明確にこう記されていた。
『自殺執行命令書』
これまでの手紙とは一線を画す、冷徹な事務処理のような2通の文面が、村越の息の根を止めにかかる。
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自殺執行命令書
未侘鳥市立翠嶺中学校教諭 村越昇太
令和6年4月1日より勧奨に係る貴殿村越昇太に対する自殺執行の件は,退世勧奨言渡しのとおり執行せよ。
令和7年8月25日午前8時
久遠井拓海の父 久遠井健介
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自殺執行命令書補足説明書
本書面は、貴殿に対する最終通告であり、「自殺執行命令書」である。
本書面を受領した時刻から起算して、12時間以内に自らの手で自殺の「執行」を完了させなさい。方法、場所の指定は行わないが、確実に死亡することが条件である。
もし、指定された12時間以内に執行が確認されなかった場合、以下の措置を直ちに実行する。
1. 貴殿が拓海を暴行し、死に至らしめた全記録(私が独自に収集した目撃証言、教育委員会との隠蔽工作の音声データ、およびこれまでの通信記録)を、貴殿の妻、および子供の学校、スマートフォンへ一斉に送信する。
2. 同データを、各種SNSおよび週刊誌、報道機関へ実名で一斉に告発する。
学校や教育委員会は、自らの保身のために貴殿を真っ先に切り捨てるだろう。貴殿の家族は「人殺しの家族」として、残りの人生を地獄の中で生きていくことになる。愛する我が子が、どのような目で見られるか、貴殿にも想像がつくはずだ。
貴殿が12時間以内に静かにこの世を去るならば、私はこの秘密を永遠に墓場まで持っていく。学校が作った「持病による不運な事故」という嘘は守られ、貴殿は「悲劇の教え子を想うあまり、精神を病んで自殺した繊細な教師」として処理される。家族には、多額の生命保険金と、同情が残るだろう。
家族の未来を守るか。それとも、自らの醜い生にしがみつき、家族全員を道獄へ道連れにするか。
選択肢は、初めから存在しない。
12時間後、すべてを確認する。
――拓海の父より
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6. 執行
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時計の針が刻む音が、やけに大きく響く。
手紙を投函したのが午前8時。タイムリミットは午後8時だ。
私は村越の自宅から少し離れた路地に車を止め、静かにその時を待っていた。12時間という制限時間は、人間が論理的に思考し、誰かに助けを求めるには短すぎる。しかし、自らの死を覚悟し、恐怖に狂うには十分すぎる時間だった。
村越の頭の中では、今ごろ恐ろしい天秤が揺れているはずだ。
生き延びて、これまでのすべてを失うか。
死んで、家族の「平穏」と「名誉」を守るか。
彼はあの時、私の罠とも知らずに「隠蔽」という悪魔の取引に応じた。家族にすら一言も真実を話さなかった。その徹底した自己保身が、今、彼を完全に孤立させ、退路を断つ完璧な壁となって機能している。
――1時間、2時間、3時間が経過する。
昼過ぎ、村越の妻と子供が家から出てくるのが見えた。週末の買い物にでも出かけたのだろう。彼らは、父親が家の中でどのような絶望に直面しているか、何も知らない。笑顔で手を振り合う母親と子供の姿を、村越はきっと、暗い部屋の窓から血の涙を流しながら見つめていたに違いない。
午後5時。夕闇が街を包み始める。
村越の家には、明かりが灯らない。
午後7時。妻と子供が帰宅した。玄関の鍵を開け、家の中に入っていく。
その直後だった。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
静まり返った住宅街に、引き裂くような女の悲鳴が響き渡った。
続いて、子供の泣き叫ぶ声。
私は車を降り、静かに村越の家へと歩いた。
開いたままの玄関の向こう、奥の部屋で、村越の妻が腰を抜かしたようにへたり込み、激しく震えていた。その視線の先――鴨居から吊り下がったロープの端で、一人の男が完全に「執行」を終えていた。
手元には、遺書が残されていた。
『拓海くんのことが頭から離れない。私の心の弱さのせいで、家族を巻き込んで申し訳ない』
ただそれだけが、震える文字で書かれていた。
それは、私が最後に与えてやった「悲劇の教師」としてのシナリオ通りだった。
彼は死の瞬間まで、家族に人殺しだと知られることを恐れ、私の命令を完璧に遂行したのだ。
パトカーと救急車のサイレンが、遠くから近づいてくる。
集まってくる野次馬の波に逆らいながら、私は村越の家を後にした。
胸の中に去来するのは、達成感でも、爽快感でもない。
ただ、512、256、128、64、32、16、8、4、2、1。
あの男の精神を刻んだ数字の羅列が、パズルの最後のピースのようにはまった、冷徹な充足感だけだった。
「拓海」
私は夜空を見上げ、小さく息子の名前を呟いた。
空はどこまでも黒く、そして静かだった。
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7.法の檻、道徳の檻
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村越が鴨居からぶら下がったあの日から、ちょうど一週間が経った。
世間の騒ぎは、学校と教育委員会がかつて必死に作り上げた「持病の悪化による不運な死、そしてそれを苦にした教師の悲劇的な自殺」というシナリオの通りに収束しつつあった。村越の家族には同情が集まり、学校の評判がこれ以上落ちることもない。
すべては、あの男たちが望んだ「完璧な隠蔽」の形のまま、綺麗に幕を閉じようとしていた。
だが、私はそれを許さない。
私は、拓海の遺影の前に、村越に送り続けた「退世勧奨」のコピーと、十通目の「自殺執行命令書」、そして村越を脅迫するに至ったすべての証拠一式――学校の体罰隠蔽工作の音声データ――を静かに並べた。
「拓海、終わったよ」
それらをすべて大きめの鞄に詰め込むと、私は自宅の鍵を閉め、最寄りの警察署へと向かった。
受付で「人を自殺に追い込みました。自首しに来ました」と告げた時の、警察官の怪訝そうな顔は今でも覚えている。しかし、鞄から取り出した一連の書類と音声データを机に並べた瞬間、署内の空気は一凍りした。
「自殺教唆」
それが、私に下されるであろう罪名だった。
取調室の冷たいパイプ椅子に座りながら、私は担当の刑事にすべてを淀みなく話した。刑事は、私が256日から始まる正確なカウントダウンで村越の精神を破壊していったプロセスを聞き、明らかな嫌悪と、恐怖の混じった視線を私に投げかけてきた。
「……お前は、こうなることが分かっていて、わざわざ学校に隠蔽工作を提案したのか? 最初に警察に告発していれば、こんな手を汚さずに済んだはずだろう」
刑事の問いに、私は小さく笑った。
「刑事さん。警察に突き出せば、奴はせいぜい業務上過失致死か、傷害致死。数年の懲役か、あるいは執行猶予で済んだかもしれない。そして何より、奴は『法が自分を裁いてくれた』ことで、心のどこかで免罪された気になったはずです」
私は手錠の嵌められた両手を、静かに持ち上げた。
「私は、奴に自らの罪の重さを、自らの脳髄で、一秒ずつカウントダウンされながら味わってほしかった。そして今、私はこうして法に裁かれ、刑務所に入ります。自らの犯した『自殺教唆』という罪を、表社会のルールに従って、一切の言い訳をせず、正当に償うために」
刑事は言葉を失い、私を凝視している。
これこそが、私の村越に対する究極の復讐の完成だった。
村越は、自らの保身のために嘘を重ね、家族を騙し、ルールを捻じ曲げて逃げ回った挙句、最後は恐怖に負けて首を吊った。奴は死ぬ瞬間まで、自分の罪から逃げ続けた卑怯者だ。
だが、私は違う。
私は我が子を殺された復讐として、一人の人間を死に追いやった。その罪を、私は1ミリも隠蔽しない。正々堂々と法廷に立ち、正々堂々と檻に入り、罪を償う。
「私はお前とは違う。私は、自らの罪から逃げない」
その絶対的な道徳的優位性こそが、死んで霊魂となった村越を、あの世の地獄で永遠に squirm(悶絶)させ続ける楔となる。奴は永遠に、私に見下され続けるのだ。
数ヶ月後。
私は、四方を灰色のコンクリートに囲まれた、狭い独居房の中にいた。
私についた罪名は「自殺教唆」ではなく、「殺人」であった。
村越の意思を脅迫を用いて完全に支配し、本人の意思決定の自由を奪って自殺に追い込んだ点が重く評価され、殺人罪の間接正犯が認められたのだ。
自由は剥奪され、流れる時間はあまりにも退屈で、冷酷だ。
しかし、私の心はこれまでにないほど深く、静かに満たされていた。
カチ、カチ、カチ。
刑務所の壁時計が、正確なリズムで時を刻んでいる。
私は目を閉じ、これからここで過ごすであろう、気の遠くなるような日数を数え始めた。
その数字の羅列は、あの男を追い詰めたカウントダウンの続きのように、私の胸に心地よく響いていた。
(了)




