日常1
放課後の図書室は、埃の舞う黄金色の光に満たされていた。
窓際で本を閉じたしずくは、細い指先を自身の左手首に添え、静かに脈を取っていた。トク、トク、と刻まれる確かなリズム。それは、彼女にとって自分が今この世界に繋ぎ止められていることを確認するための、唯一の儀式だった。
背後に人の気配を感じ、彼女は曇った硝子玉のような瞳を向けた。
「……何か用?」
少しの間を置いて、彼女は感情の起伏を押し殺したまま、淡々と続けた。
「ここ、暇つぶしには向いてるよ」
「そうか」
佐久は短く答えると、彼女の向かいの席に腰を下ろし、早々に机に伏せて居眠りを始めた。あまりに無防備なその姿に、しずくは手首から指を離した。
窓から差し込む夕日は、彼の寝顔を鮮やかなオレンジ色に縁取っている。しずくの口元が、本人も気づかないほどわずかに緩んだ。
「……こういう瞬間も、いつか終わるんだよね。眠ってる顔、珍しいかも」
独り言のつもりだった。だが、佐久がわずかに顔を彼女の方へ向けた。
「……なんだよ」
しずくの背中に一瞬の緊張が走る。聞かれただろうか。彼女はすぐに無表情を取り繕い、視線を窓の外、雲に隠れゆく太陽へと逃がした。
「別に。ただ見てただけ」
「そうか」
佐久は深く追及することなく、再び眠りの淵へと沈んでいった。部屋に訪れた静寂の中で、しずくは緩く結ったアッシュグレーの髪を指先で弄ぶ。
「不思議だね。こんな穏やかな時間も、いつか終わるのに」
佐久は答えなかった。眠っているのか、それとも聞こえないふりをしているのか。どちらにせよ、その沈黙がしずくの心を不思議と安堵させた。窓からは燃えるような夕焼けが差し込み、二人の境界線を曖昧に溶かしていく。
「……生きてるだけでいいって、本当にそう思う?」
ふと零れ落ちた言葉に、佐久が「ん?」と寝ぼけた声を出す。
「……なんでもない。ただ、眠ってる顔を見てたら、なんとなく」
カーテンが風に揺れ、室内の空気が小さく回った。
「しずくも寝てみろよ……風が気持ちいいぞ……」
誘われるように、彼女は窓際へ顔を寄せた。開け放たれた窓から入り込む風が、彼女の髪をさらりと撫でる。
「風、確かに気持ちいいね」
彼女は少しの躊躇いの後、椅子の横の床にゆっくりと腰を下ろした。佐久の隣。いつもなら「無意味だ」と切り捨ててしまうような何気ない時間が、今は驚くほど心地よかった。
「無理して何かする必要はないのよ」
佐久の言葉に、しずくは目を細めた。
「無理して、何かする必要がない……か。そういう考え方もあるんだね」
「おうよ。風に揺られる、さざめく音を聞く、それすらせずに眠りこける。……そんなだらっとした人生も良いだろう?」
「私には、それが一番難しいかも」
しずくは膝の上で指を絡めた。
「どうして」
「……だって、何もしないでいると、色々と考えちゃうから。暇だと、自分のこととか、世界のこととか。それが嫌なんだと思う」
「誰かと居てもか?」
「……誰かと居ても、かな。むしろ誰かがいるからこそ、自分がどう思われてるかとか、この時間が終わらないかなとか……余計なことばかり考えちゃう」
彼女は佐久をちらりと見て、すぐに視線を逸らした。だが、佐久は笑わなかった。
「そうか、でも悪いことじゃない。理性的に考えるのは人の特権だからな」
「特権、か。でも、その特権を使い続けると、時々疲れるんだ」
「疲れたら、休めばいい」
「休み方も、よく分からないんだよね。ずっと考えて生きてきたから」
自嘲気味に笑う彼女に、佐久は「それも人生だな」とだけ言った。そのあまりの単純さが、彼女には眩しく、そして少しだけ羨ましかった。
夕闇が部屋を包み込み、街灯がポツポツと点り始めた頃、佐久が立ち上がった。
「……明日、空いてるか?」
「明日? 特に予定はないけど」
「俺に付き合ってくれよ。何をするかは……明日になってからだな。それじゃ、明日」
翌朝、玄関先に現れたのは、車に乗った佐久だった。
「おう、乗りな」という彼の言葉に、しずくは目を丸くしながらも助手席に収まった。
「行き先くらい教えてくれてもいいんじゃない?」
「いっぱい予想しときな。得意だろう?」
その言葉通り、しずくは車窓を流れる景色を見ながら思考を巡らせたが、到着したのは、驚くほど人のいない、静かな海だった。
「海か。予想できなかった」
砂浜に足を踏み入れる。冷たい朝気が肺を満たし、潮風がアッシュグレーの髪を乱暴に揺らす。佐久は慣れた手つきでレジャーシートを広げ、温かい紅茶の入った水筒とサンドイッチを取り出した。
「はい、どうぞ」
「……ありがとう。温かいね」
湯気の向こうで、しずくの表情が柔らかく綻ぶ。
「美味しい?」と尋ねる佐久に、彼女は静かに頷いた。誰かが自分のために用意してくれたものの温かさが、胸の奥まで染み渡っていく。
「海辺で寝るのも良いもんだぞ」
そう言って横になる佐久に倣い、しずくも渡された枕に頭を預けてみた。
波の音、砂の匂い、そして隣にいる確かな気配。
いつの間にか、彼女は深い眠りに落ちていた。
目が覚めたとき、空はさらに高く、青く澄み渡っていた。
「おはよう」
隣で座っていた佐久が声をかける。
「……佐久と一緒にいると、時間がゆっくり流れるね。なんだか、変な感じ」
「なんだ、告白か?」
からかうような佐久の言葉に、彼女の頬が赤く染まる。
「違うよ……ただ、そう感じただけ」
視線を海に戻すと、佐久が空を指差した。
「空って、青いよな。季節とか時の流れで景色は変わっていくのに、空はずっと青いんだよ。一つくらい、変わらないものがあったほうが良いんじゃないかな」
「……変化に疲れた時、変わらないものがそばにあると安心する、ってこと?」
「そういうことだ」
しずくは砂浜の砂を指でなぞった。自分の中には「変わらないもの」なんて一つもないと思っていた。けれど、この広い空や、隣で不器用に笑う彼の存在が、今は何よりも確かなものに思えた。
「……そろそろ帰るか」
茜色の空が水平線を焦がし始める。
帰り道、二人の影が砂利道に長く伸びていた。
しずくは、佐久の袖の端を、指先でほんの少しだけ摘んだ。
「今日は、不思議な一日だった」
「そうか」
「うん。すごく。こんな風に誰かと過ごす時間が意味のあるものだって……初めて思ったかも」
袖を掴む指に、力がこもる。
「変なの。今まで一人でいるのが当たり前だったのに、今は……ちょっとだけ、寂しい」
自分の口から出た「寂しい」という言葉の温度に、しずく自身が一番驚いていた。
けれど、その寂しさは決して嫌なものではなかった。
それは、彼女が「誰か」という存在を、心の奥深くで受け入れた証拠だったから。
夕焼けに染まる二人の足跡は、潮騒に追いかけられながら、どこまでも並んで続いていった。




