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同時の行進


本を買った日の1週間後、夏休みになった。元来僕は夏休みが好きではなかった。中学生になってもそれは同じで、学校に行く用事がない、という毎日が退屈だった。部活動もあったが、何かと用事を作って夏休みも家族や友人との約束がない日は学校に通った。呼ばれてもいないのに補講に出たりもした。

家は千葉県の白子海岸の近くであったから、学校の最寄りまで朝は1時間以上電車に乗って、最寄り駅からは歩いて30分かかった。地元の電車の本数も少ないので、8時30分の始業に間に合うために毎朝6時24分の快速に乗らなければいけなかった。 どれだけ放課後にまっすぐ帰っても家につくのは6時を越えた。それでもなにも感じなかった。後々になって、「6年間もよく通ったよね」と親に言われたが、どういう意味か分からなかった。むしろ、6年間もよく付き合ってくれたと親には思っている。

夏休みもそうやって1時間30分をかけて学校に行った。行けば級友でも先生でも誰かしら会えることが快適だった。たちまちに先生間で僕は知られた存在になって、職員室に入る抵抗も何なら校長室に入る抵抗も僕の中から排除されていった。終いには「数学科研究室」とういう存在理由の良くわからない部屋に冷蔵庫があることを認知して、中に入っているオレンジジュースを当たり前のように飲んでも何も言われなくなったし、病んでもいないのにカウンセリングルームに行って、カウンセラーの愚痴を聞く代わりにお茶をもらったりしていたので、学校の自動販売機を使うことは6年間で片手で数える程度だった。


本当に用事のない日にも頭を空にして朝の快速に乗った。学校では補講もないので、部活に来ている生徒くらいしかいない。高校の軽音部の部室に寄ってバンド練習のためにスタジオが空くのを待っている高2の先輩たちと80年代の洋楽ロックバンドの話をして盛り上がった。でも、ものの30分もすれば先輩たちはスタジオの中に消えていった。そのあとは新しくできた茶道部の部室に行って部員の女子に練習がてらと自然とお茶を淹れてもらう流れになったが、それも1時間もかからなかった。

文子からメールが来て「いまなにしてる?」とだけあった。「茶道部でお茶もらってる。そっちは?」と返すと、「これからセンター行く」と返ってきた。僕らの学校は下手な市立の図書館よりも蔵書数が豊富な図書室があり、そこをセンターと学校関係者は呼んでいた。文子がセンターに行くときは、本を借りる時ではなく調べごとか自習か、読書のときだと知っていた。

「自習?」と聞くと、「ミーナ読みに来た」と返事が返ってきた。 この瞬間に僕が思ったことは、同じ時間の同じ空間で文子と同じ物語の世界の中に入りたい、という今思えば甘酸っぱい思いだった。

「僕も持ってきてる。隣で読んでいい?」飾る言葉も、恥ずかしさを隠す言い訳も添えずにただそれだけを文子に投げた。しかしここまで文子の返事がどうなるか緊張するのは、付き合い始めた最初の日の夜以来だった。答え次第では『ミーナの行進』は二度とそのページを一枚も開かれることがないのかもしれないとさえ思った。

「それいいね、購買の前で待ってる」だからこそその軽い答えが嬉しかった。茶道部の面々に分かり易く丁寧な謝辞を述べて茶道室を出ると、エントランスホールの階段をリズムよく降りて行った。


購買の前で文子は、その購買のおばさ、、お姉さんと話していた。駆け寄りたい気持ちを抑えて何もないように歩いていた僕を見つけて、お姉さんの話を打ち切ったように見えた。

「お待たせ」

「待ったね」

「待ってないだろ」

「3分待ったよ」

文子はメールの受信時間を指さしながら僕に見せつけた。

「それも許してくれないの?」

「許すも何もないよ。ただ、待ったね、って」

「そう、ならいいよ」

おばさんがニヤニヤしているのが横目に見えた。

「何の話してた?3分で」

「秘密だよ」

おばさ、、お姉さんも繰り返した

「そうそう、井坂ちゃんと私の秘密なんだよ」

「よくない話?」

「どっちかと言ったら、よい話、かな。井坂ちゃんが良くない話すると思う?」

「私、疑われてるんだ・・・」

文子は残念がる演技の顔をした。

「なんだそれ、いいよ、秘密くらい」

「気になる?」

「秘密くらいあってくれないと逆に心配」

「らしいですよ、おば、、お姉さん」

「おば、って聞こえた」

「お・ね・え・さ・ん」

「はいはい、ほら、なんか約束して待ち合わせたんでしょ?」

「そうでした」

「そうでしたね」

「じゃあいこっか」

エントランスホールの階段を、一段先に文子、その一段上に僕の順番で降りて行った。さっきよりもゆっくりと、文子の一歩一歩にリズムを合わせて階段を踏んだ。センターの前に着くまで、文子は振り向かなかった。


センターに入ると、右手に受付、左手に雑誌コーナーとS字に曲がったソファ、正面を進むと大型書籍、その奥に一般書籍の棚が続いていた。書籍棚の右手にはメディアセンターという名のパソコンスペース、書棚の左手は広く大きなスペースに閲覧と自学用の机スペースが、らせん階段を上がった二階には自学机がいくつか並んでいて、床から吹き抜けまで続く大きな窓のから陽の光を受け入れていた。

僕と文子は、ロッカーに荷物を預け、本だけを握って大きな窓の目の前の閲覧スペースに向かった。どちらがそうしようと言ったわけでもなく、何となくそうなった。窓と垂直に並ぶ机の一番窓に近いところに僕が座ると、文子はその隣に座った。

「こっちに座るの?」

文子に聞いた。てっきり正面の席で向かい合って座ると思っていたからだ。

「そうだよ。いや?」

「正面のほうが窓に近くて明るいから」

「確かにね、でももう座っちゃったから」

そういって、文子は『ミーナの行進』の表紙を眺めてから机に置いた。

「文子が良いならそれでいいよ。何となく、なんでしょ?」

文子は本の背表紙と小口を両手の手のひらで一周なぞった。そして一つ大きく息を吐いて両手で本を持ち上げた。

「何となくじゃないよ」

本の表紙から視線をずらさずに文子は小さな声で言った。

「珍しいね」

文子の本と腕だけが光を受けて白く輝いていた。

「珍しいよ。だって、さっきメールくれたでしょ」

「そうだね、けっこう緊張した」

「だから何を送ってくれたか覚えてないんだね」

「一緒に読んでいい?って」

「違うよ」

文子は表紙から目線だけを僕に移した。

「『隣で読んでいい?』って送ってくれたでしょ」

文子の横顔にもその瞬間に光が差した。

その言葉に僕は文子の温かさと柔らかさのすべてを感じて心が落ち着いた。すべてが素直に受け入れられるような心地だった。文子の隣に僕は収まりがいいのだと思うとうれしかった。『ミーナの行進』の表紙の少女2人はこれが誰なのかまだ分かっていないけれど、その二人の背中には僕の今感じたポカポカした感情が湧いているように見えた。

「なんかうれしそうだね」

文子は本を握ったまま僕に向き直った。そこで気づいた。文子は僕と同じタイミングで表紙をめくる為に、はやる気持ちを抑えて待っていてくれているのだ。一緒に読む、ってそういうことなんだとやっと分かって、そうやって待っていてくれる文子の目がキラキラしていることにもやっと気づいた。

「そう、僕は嬉しいみたいだよ」

「それは良かったよ」

「文子は楽しそうだね」

「そう、とっても楽しいみたいだよ」

「それは嬉しいよ」

僕も文子を真似て、手のひらで背表紙と小口をなぞってから、両手で本を持ち上げた。

「ありがとね」

文子に今日一番小さい声で伝えた。文子にはムクゲの花のような笑顔が咲いた。

「こちらこそだよ」

耳元まで近づいて、文子は囁いた。大きく息を一つはいて、互いに目配せした。「せーの」と口の動きだけを合わせて、僕らはやっと表紙を開き、「ミーナ」と「朋子」のいる芦屋の古い家のある世界に入っていった。


文子は3時間、僕は3時間半かかって『ミーナの行進』のページを歩ききった。文子は読み終わっても僕が終わるまで隣の席を立たなかった。それでいて何もしていなかった。ただ窓の外をぼんやりと見ているのだけれど、何かを見ているわけではなかった。

読み終えた『ミーナの行進』の裏表紙に手を置いて空虚ともいえる目だった。

「待たせちゃったね」

僕は読み終えると、机に凭れて伸びをした。

「待ってないよ」

文子はとびきり柔らかい声で言った。

「私も今やっと読み終わったから」

本の裏表紙から手を放して、疲れたよ、と言いたげな笑顔になった。

「30分前には終わってたでしょ?気使うなって」

「終わってないよ。30分もかかって頭を整理していたんだよ」

「『ミーナ』の考察してたの?」

「考察なんて格の高いものじゃないよ」

「じゃあ文子はそれ、なんて呼ぶべきと思う?」

「名づけるものでもないよ、ただね」

「ただね、」

「私は物語が終わった後の余韻が一番好きだから」

文子は吹き抜けの高い天井を見上げて伸びをした。

「話しかけて悪かったね」

文子のハッピータイムの邪魔をしてしまったかもしれないと思って、素直に謝りたいと思った。僕が文子に一番したくないことだったから、悔しい気持ちになった。文子はそれを聞いて驚いた顔をしたが、可笑しくなってタンポポみたいな笑い声で笑った。

「その“ゴメン”は残念ながら的外れだよ」

文子が僕を気遣って言っているのではなく本当にそうなんだということは、僕はすぐに分かった。理由なんてないけど、本心だって分かった。

「私、チトセが読んでる部分をチトセがどう読んで、何を想っているのか、考えてた」

「僕が?」

「そう」

「楽しいの?それ」

「すごい楽しい」

「どう楽しいっていうんだ?」

「一緒に読んでるんだもん」

「読んでましたけど」

「同じ世界に入るなら、同じ景色が見れているのか気になるよ」

「そっか」

なんか納得した気がした。けれど、疑問もあった。

「でも、同じ世界を見れているのか、を想像してるんだよね」

「そうだよ」

「想像なんだから、見れているかなんてわかるの?」

「わかんないよ」

当たり前じゃんと言いたげな元気のある声だった。

「でも分からなくいいんだよ」

「なんで?」

ふふっと文子はまた花が咲いた。

「だって、全部物語だもん」

すべてが分かったわけではないけれど、その答えは僕のつかえていた部分を流し去った。なるほど、文子は読み終わった後の30分も読書をしていたんだ。捕えきれないし言葉も見つからない、『ミーナの行進』にどうやって僕が浸かっているかを読んでいたんだ。そこまで含めて、文子は『ミーナの行進』を“僕の隣で読んだ”ということにしたんだ。

「難しいけど、文子がそうならそうなんだね」

「わかってくれるとは、なかなか読書の素質があるね」

「わかってないよ、ただ、うん、そうだね、何となく、だね」

文子は急に照れた顔をして、その口元を隠してそっぽを向いた。すぐに顔をこちらに向けたが、またすぐに口元を隠してそっぽを向いて、肩を震わせた。

「いこっか」

自分の頬を両手で音が鳴らないように2度叩いて文子は立ち上がった。

「お腹すいたよ、途中でサイゼいこ。『ミーナ』の話もしたいし」

「そうだね、文子がどういう感想もつか気になるから」

「それはお互い様だよ」

文子の後に続いてセンターを出た。そのまま校舎のエントランスを抜けたところで購買のおば、、お姉さんにあった。

「終わったのかい?お二人さん」

「はい、ちょうど今終わって帰ります」

「そうかい、そうかい。井坂ちゃん、上手くいった?」

文子はヒマワリの笑顔で 「はい、とっても上手くいきましたよ」 と答えた。

「それはよかったね、今度聞かせてよ」

「はい、聞いてほしいです」

二人はコトコト笑っていた。

「なにが上手くいったって?」

購買のお姉さんに投げかけた。

「私と井坂ちゃんの秘密だよ」

わざとらしくゆっくりと、お姉さんは答えた。

「そう、秘密だよ」

文子もそんな感じだ。

お姉さんに別れて、川沿いの道を駅まで歩いた。その間、『ミーナの行進』の話はしなかった。

「茶道部の女の子たちにお茶出してもらうっていうのは、浮気なんじゃないかな」

ヒマワリの笑顔のまま僕を問い詰めた、風だった。

「気にしないけど」

「もしかして、本当に嫌だった?」

「残念でした、全然嫌じゃないね」

もう川の水面は、オレンジになりかかっていた。


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