特別の行進
小学生の頃は、まったく本なんて読まない子だったと自覚している。中学受験をしてそれなりに受験はうまくいったから良いものの、当時の塾の先生にも母親にも、もう少し本が読めるようになったらいいね、と言われていた。悪くわないけれど算数や理科に比べると国語の成績が良くなかったからだとは思う。第一志望だった中学には当たり前の顔をして受かった。その学校は中1から高2まで、朝の10分間読書が義務付けられていた。正直面倒くさかったし、どうやって本を選ぶべきなのかも知らなかった。図書館で借りてみるものの続かず、最後まで読み切る前に返す本が続出した。
しかし、周りは読書家たちがたくさんいた。体育のサッカーで張り切ってクラスを仕切るようなやつも、口を開けば当時に流行っていた男性アイドルグループの話でキャッキャしている女の子も、授業中に爆睡するようなやる気なさげなあいつも、2週間に一回くらいは本の話をしていた。そこまで面白いのか、当時は一歩引いてその話を聞いていたが、一度も体験せずにお相手の楽しんでいることを遠ざけるのは僕の場合はできない性格だったので、どうにか最初の運命の1冊とのめぐり逢いを求めた。
中2になって、彼女ができた。井坂文子といった。このあと彼女とはなんだかんだ高校卒業までお付き合いが続いた。彼女はふわっとしていながらも、安心感があった。それに驚くほどに僕たちは互いに干渉しなかった。休みの日にショッピングモールに行っても、一度現地で解散して互いが見たいものを別々に見て、時間になると集合する。そのあとご飯を食べながら、互いに買ったものを自慢して、互いに「いいね、それ」と言い合う関係だった。その根底には、自分の買い物のために相手を待たせるのが申し訳なくなるほどに互いを気遣っていた。
そんな文子が食事の時に自慢してくるものに必ずと言っていいほど小説が数冊あった。彼女も本に魅せられていた一人だった。どうやって本を選んでいるのか聞いても、
「何となくだよ」
というだけだった。中2も夏休みの直前になって、どうやって本棚を歩いているか見せて、とお願いすると、文子は「いいよ。」とだけ言って、ドリンクバーのお代わりをしに行った。
その次の日、1学期の期末テストが終わった。全部が終わると珍しく教室の前に文子が待っていた。クラスメイトに内緒にしているわけでもないので何ともないのだが、
「待ってた」
という文子のセリフに、ふぉぉ~、と楽しそうに煽り立てるクラスの男たちがチラホラいた。
「珍しいな」
「珍しいでしょ」
「どうした?」
「約束したでしょ」
「何の?」
そこまで盗み聞いていたクラスの女が「忘れてるの~ひど~い」と何も知らないくせに囃した。
「本でしょ?」
「本?」
「ついてくるって言ったじゃん」
「え、今日なの」
「そうだよ」
「そうでしたか」
「そうでしたよ」
文子がいつもよりワクワクしているのが目に見えて分かった。いつもより会話のテンポが速い。僕たちは相手が言葉を発している間は言葉を発しない。ルールにしているわけではないけど、自然とそうだった。
「本屋さんにいくよ」
「いつも買ってるの?」
「買ってるよ」
「借りないの?」
「借りないよ」
「どうして」
「何となくだよ」
駅までの道はいくつかあるけれど、車が少なくて静かな川沿いの道を行くことが多かった。無言になる時間は、川の音とカラスの声、あとは少し先の国道を行く車の音がかすかに聞こえるだけだった。それはそれで居心地の良い時間だった。どちらかが思い出したように何かを尋ね、短いフレーズをラリーして、そのまま駅に着くこともあれば、また無音の時間が訪れることもあった。 本屋は駅の中にあったが、文子は改札を抜けた。
いつもの帰り道と同じように黄色い千葉行きに乗って混んだ座席の前に立ってつり革を握った。数駅いけばどっと人が下りると僕らは知っていた。そうしていつも空いた席に座って、数駅の間は話をして、そのあとは終点まで眠る。しかしその日は西船橋駅で人が下りても文子は席に座ろうとしなかった。
「珍しいね」
「珍しいでしょ」
「どうした?」
「約束したじゃん」
「約束したね」
文子はわざとらしく目を丸くした。
「本でしょ?」
「本だよ」
「それで?」
「もうすぐ着くから」
文子は少し笑って窓の外に向き直った。 津田沼駅について、「いこっか」とだけ言うと、電車を降りて行った。 僕も「はいよ」と言って続いて降りた。
駅前の小道に信号が灯っているが、道行く人たちは驚くほど無視して赤信号を渡っていった。律儀に待つのは僕らくらいなもので、逆に目立っていた。ムクドリの大群が空を汚らしく黒に染めていたが、蠢く黒点が不規則に規律正しく動くのを見上げて信号が変わるまでを過ごした。
「ちょっと怖いくらい飛んでるね」
「いつもこのくらい飛んでるよ」
「慣れるものなの?」
「私は慣れないよ」
「ちょっと怖いの?」
「ちょっと怖いよ」
「でも見ちゃうね」
「見ちゃうでしょ」
それで信号が変わって、文子は一歩先に動いた。横断歩道を渡ってすぐの建物の自動ドアを入ってすぐにエスカレーターをのぼった。並んで立てない幅の狭いエスカレーターだった。文子は1段上に乗ってスクールバックを後ろ手にもっていた。ボブの髪が少し上下してリズムをとっているらしかった。エスカレーターをのぼりきると手帳や日記帳のコーナーがあって、その先にフロアいっぱいの書店が広がっていた。さらに続くエスカレーターの上にも書店が続くらしかったが、文子はこの2階のフロアでのぼるのを止めた。
「ついたよ」
「ついたね」
「広くていいね」
「いつもここで買ってるの?」
「いつもじゃないよ。特別な時だけ」
「今日は特別なの?」
「一緒に来たことないじゃん。特別だよ」
そういって、文子はスキップ気味の足取りで3歩進んだあと、振り返って得意げな顔をした。 文子は真っすぐ文庫本の棚に向かった。紙とインクのにおいが図書館の匂いとは違うことがすぐに分かった。
「文庫からなんだね」
「文庫から見るんだよ」
「みんなそうなの?」
「みんながどうかなんて知らないよ」
「なんで文庫からなの?やっぱり何となく?」
「何となくじゃないよ」
「珍しいね」
文子は平積みの文庫を眺めながら、ふふっと微笑んだ。
「失礼なやつ。あたしにも拘ることはあるよ」
「じゃあなんで」
「文庫で買おうと思った本が何冊かで、単行本を何冊買うか変わるから」
「なにそれ」
「ホントだよ」
「なんで?」
「単行本は高いからね」
とても納得がいった。ああ、と無意識に言っていたと思う。それから文子は文庫の棚の間をゆっくりと一冊一冊確認しているような速さで歩いた。その真剣な顔が楽しそうなので僕も楽しくなった。聞きたいこともあったけれど、文子のハッピータイムに水をさして楽しそうな顔が途切れるほうが嫌だった。
一列の棚を歩くうちに文子は4冊くらい手に取って表紙を眺め、裏表紙のあらすじを見ていた。手に取った本のうち5冊に1冊くらいを棚に戻さず小さな手のひらに収めた。文庫棚の列を2周して、そのうちに悩みながら手に収めた本を戻したり新たに手元に加えたりを繰り返して、結局、文庫本は4冊になっていた。
「次は単行本に行くね」
「今日は単行本も買えるんだね」
「買うかわかんないよ」
「それでも見に行くの?」
「見るだけは、タダだから」
「買いたいのがあったらどうするの?」
「たまには、彼氏におねだりしちゃおうかな」
「都合良いね」
「都合良いでしょ」
「その4冊はどうやって決めたの?」
「悔しいけどさあ」
「なに?」
「何となくだよ」
「やっぱりね」
「色味が良かったとか、タイトルで何が書いてあるか想像つかないとか、あとは、前に読んだことある作家さんの本に目が留まったとか」
「全然、何となくじゃないね」
「これが、何となくなんだよ」
文子は少し照れ笑いしながら、ハードカバーの本が平積みされている新刊コーナーに視線を落とした。文庫を選んでいるときは期待に満ちた目をしていたが、単行本を見る目は疑い深いものだった。鮮魚のセリに参加しているかのような厳しく真剣な文子の眼差しを、僕はテスト勉強の時以外に初めて見た。
「さっきより集中してるね」
「集中しないとダメなんだよ」
「文庫とは違う目になったよ」
「そうだよ、真剣だもん」
「どうして?」
「高いからだって」
「そうでした」
「気軽に飛び込めないんだよ」
「じゃあどうやって決めてるの?」
「わかってるくせに」
「わかってるよ」
「どうしてると思う?」
「何となく、だね」
「わかってきたね」
文子の目は真剣なままだったが、声色は上ずっていた。文庫の棚を眺めていた時の半分の速さで平積みの台から棚の列へ足を進めると、タイトル一つずつを頭の中に付箋で張っていくかのようにかみしめている様に見えた。とてもじゃなく声かけてはいけない気がした。もう文子の読書は始まっているのだった。それを眺めながら、僕は文子が何を想っているのかを読み取ろうとした。これが僕の初めての真剣な読書だった。 ぐるり棚を回り終えると平積みの台に文子は戻った。一点を見て悩ましい顔をしていた。
「お悩み事?」
「お悩み事だよ」
「どんなお悩み事なんだい」
「これが気になるんだよ」
一冊の本を指さした。小川洋子の新刊で『ミーナの行進』という小説だった。
「気になる一冊を前にして撤退すべきかが悩ましいよ」
「気になるのに撤退しなきゃいけないの?らしくないね」
「文庫でも4冊は結構なダメージをお財布に与えてくるから」
「『ミーナ』を選んで文庫をどれか戻すのではだめなの?」
「一度買うと決めたら、もうそれは戻せないよ」
「どうして?」
「もうこれは、私の中では積読本だから」
「なるほど」
「それに、選んだ4冊から読めなくなる本を選ぶなんて難しすぎるよ」
「手にしてしまったら、もう捕らわれるんだね」
「捕らわれてる、っていうのとは違うかも、ペット飼ってる感じ」
「ああ、一度飼ったペットの中から戻すなんて無理だね」
「そう、だったら新しく加えるのを諦めるでしょ」
「説明がうまいね」
「う~ん、何となくだよ」
文子は眉を下げて笑った。
「じゃあ、僕が買って読もうかな」
口から勝手に言葉が出た。しかし出た後に自分でもすぐに納得した。文子が真剣に撤退を悔しがる1冊なのだから僕でも、いや、僕なら楽しめると思った。その瞬間、表紙で背を向けている少女二人が僕を招きいれているとしか思えなくなった。なるほど、この引力が文子の言うペット飼ってる感じなんだ。
「おねだり、冗談だよ?」
文子が慌てた顔で、でもしずかに言った。
「知ってるよ」
「じゃあどうして?」
「僕が読みたいんだよ」
「ホントに?」
「ホントだよ」
「どうして?」
「文子なら、なんで読みたくなるかなんて分かりきってるだろ?」
文子はその瞬間に慌てた顔から嬉しそうな顔にぱっと華やいだ。
「何となく、だね」
「そうさ、何となくだよ」
平積みの一番上から『ミーナの行進』を1冊手にして、その紙の質感と重量を初めて感じ取った。思ったよりも分厚いその本は、思ったより軽かった。表紙の少女2人を手のひらで撫でると、2人の体温が感じられた気がした。本の中には少女の秘密が籠っているようで、書店という多くの人が行きかう場所で開くのは心苦しく、落ち着いたところに行くまでは1ページたりとも開かないでおこうと決めた。裏表紙に値段が小さく書いてあってちょっと高くて2度見したが、もう手放すことなんて考えられなかった。
「決めたよ」
文子が急に僕の正面に入った。正面から視線が合うのは、今日はこの瞬間が初めてだった。
「なにを?」
文子の何か企んでいる楽しげな目を真っすぐに見て聞いた。口角がじわじわ上がっていくのがはっきりと分かった。文子は後ろ手に平積みされている『ミーナの行進』を手に取って、その表紙を僕に向けた。 「私も買って帰るよ」
口角は上がりきって、今日一番の晴れやかな顔だった。
「文庫も買うんでしょ?」
「そうだよ」
「高くなっちゃうよ」
「もう、大ダメージだよ」
「僕が買うんだから貸してあげるよ」
「そういうことじゃないんだよ」
「そうなの?」
「言ったでしょ」
「なんだっけ?」
「今日は特別なんだよ」
僕の手にある『ミーナの行進』に文子は自分の手にある『ミーナの行進』をぴたりと重ねた。ズレなく重なった2冊にはもう離れない絆がつながったようだった。そこに僕自身も湧き上がる喜びがあった。
「わかった。そうしよう」
「言われなくても私は勝手にするよ」
「そうだね」
「ペアルックみたいな感じ?ペアブックだね」
「それにしてはわかりにくいな」
「二人が分かればいいんだよ」
「そりゃそうだ」
二人でレジに行って会計をした。意味はないのだけれど、僕が買った『ミーナの行進』を文子にプレゼントして、文子も買った『ミーナの行進』を僕にくれた。
「早いけど、誕プレってことで」
文子は冗談みたいに言った。
「7月だよ、今」
「あついよね~」
「そう、そうなんだけどさ。そうじゃないよ」
「いいでしょ、ちょっとお洒落なプレゼント交換だよ」
「でも、誕生日2月じゃん、僕も文子も」
僕らは同じ学年の同じ2月生まれで、なんなら、2日違いだった。そんな半年先の寒い寒い誕生日を暑い暑い7月に祝おうとしている。
「そうだよ。半年先。」
文子は当たり前みたいな顔をしている。ここまで文子と付き合い始めて2ヶ月ほどが経っているが、中学生の男女なんて半年先にどうなっているかなんて約束されていないと僕の頭ではよぎっていた。事実、友人は4ヶ月で破局して、「長くもったほうだよ」なんて言っていた。
でも、よぎったその思いは文子がまだ真っすぐにこっちを見ているその目に霧散した。文子が甘えたような作った可愛さではなく、自然な目をしていたからだ。僕たちは、熱しにくいのかもしれない。しかし、当たり前にそこにいる、薫風のような温かさを持ち続けることができるのだろうと思った。
「半年はすぐに経つね」
「そう、でも半年後もお祝いしようね」
「もちろん」
「私もお祝いするね」
はじめてその日、僕たちは手をつないで家路についた。また黄色い千葉行きに乗った。快速もあるが、遠回りしないで二人の時間を長く過ごしたい気分だった。やはり少しだけ話をして、幕張駅を過ぎたあたりで眠った。
終点の千葉についた。文子は改札を出ていく。そのカバンに僕の『ミーナ行進』が入っていることが誇らしかった。文子は改札を出てからは振り返らない。いつもはほんの少し寂しく感じなくもないその背中も、その日からは、また明日会えるという心の余裕が出て、文子が背中を安心して見せ続けているのだと思えるようになった。




