醜いことば、祈りのはじまり
森を抜け、山を越え、名もない道を歩き続けながら、
シオンはずっと自分の胸の内を見ないようにしていた。
けれど、歩けば歩くほど、
夜が更ければ更けるほど、
心の奥に沈めた感情は、腐臭のように浮かび上がってくる。
リゼルの笑顔。
アルヴェンの言葉。
二人が並んで朗読する姿。
それを思い出すたび、胸が締めつけられた。
(……私は、ずっと自分のことを誠実だと思ってた)
誰かを妬まない。
誰かを貶めない。
傷つけられてきたからこそ、同じことはしない――
そう信じてきた。
でも。
(違った……)
リゼルを見たとき、
その言葉のあたたかさを知ったとき、
シオンの胸に生まれたのは、純粋な敬意だけではなかった。
羨望。
焦り。
そして――嫉妬。
「……汚い」
ぽつりと、声に出た。
自分に向けた言葉だった。
(私も……同じだ)
かつて、自分を嘲笑い、否定し、
「価値がない」と切り捨ててきた人々。
その人たちと、
自分は違うと思っていた。
でも――
誰かの幸せを見て、
心が黒く濁った瞬間、
シオンははっきりと理解してしまった。
(私も……同じ感情を持ってる)
それが、どうしようもなく悲しかった。
膝から力が抜け、
シオンは道端に座り込んだ。
涙は出なかった。
ただ、胸の奥が冷たくなった。
「……最低だ」
初めて、
自分の醜さを言葉にした。
逃げなかった。
飾らなかった。
誰かのせいにも、しなかった。
ただ、事実として、吐き出した。
「私は……妬んだ。
羨ましかった。
自分より恵まれている人を、
心のどこかで、疎ましく思った」
その瞬間――
空気が、わずかに震えた。
シオンは息を止める。
言葉が、地面に染み込むように消えず、
胸の奥で、静かに反響している。
(……?)
もう一度、口を開いた。
「私は……弱い。
醜い。
優しいふりをして、
本当は自分を守りたいだけだった」
今度は、はっきりと感じた。
――言葉に、重さがある。
それは、人を傷つける刃ではなかった。
自分自身を切り裂くための、
誠実な刃だった。
(……これが……力?)
不思議だった。
今まで読んできた、どんな美しい言葉よりも、
この醜い言葉の方が、
心の奥深くに届いている。
そのとき、
風の音とは違う“気配”が、そばに満ちた。
やわらかく、あたたかい、
懐かしい感覚。
――ことばの精霊。
姿は見えない。
けれど、それはシオンにはどうでもよかった。
それでも初めて、願った。
「……お願い」
声は小さく、かすれていた。
「私の言葉に……力をください。 きれいじゃなくてもいい。私がここにいてもいい思える力を… 醜くても……唯一の…本当の言葉の力……」
シオンが力ということばを意識したのはこの時が初めてだった。ましてや自らに力を求めることなど。
力とは無縁の存在だった。
せいぜい与えられるものだった。
それを今は自ら求めた。
それを使うために。
自分のために。
静かな問いが、心に直接響いた。
――ことばは、文字。
――ことばは声。
――ことばは、文字。
――ことばは声。
何度もそれは繰り返した。
選べと言われてる気がした。
そしてシオンは迷わなかった。
考えるより先に、答えていた。
「……ことばは声…」
自分の声で。
息と震えと感情を乗せて。
誰かに届く、声の言葉に。
――ならば、あなたの声は、精霊となる。
その意味を、
シオンは理解しなかった。
ただ、
胸の奥が、すうっと軽くなった気がした。
「……ありがとう」
微笑もうとして、
その瞬間――
声が、出なかった。
驚いて口を開く。
息はある。
喉も動く。
でも、音にならない。
ただの、無音。
シオンはそれでも、なぜか不安を覚えなかった。
(……きっと、疲れてるだけ)
そう思い、
そのまま地面に横になった。
夜空には星が瞬いていた。
彼女は知らなかった。
その願いが、
自分の声そのものを代償にした契約だったことを。
それを知るのは、
ずっと後――
その日まで。
だが、この夜、
確かにシオンは一歩進んでいた。
醜さを否定せず、
逃げず、
言葉にした。
その瞬間、
彼女の言葉は、確かに力を持ったのだから。




