声を諦めない
馬車が出す音さえ、もうシオンには遠かった。
黒い騎士たちの罵声も、ノイズの黒い囁きも、いまはただ、濁った水の底で聞くようにぼんやりしている。
もう痛みも恐怖も感じない。
感じる力そのものが、削ぎ落とされてしまったようだった。
(……もう、どうでもいい……)
その諦めが胸の奥深くに沈み込んだときだった。
――きら。
頬をかすめた微かな光。
小さな小さな、砂粒のような光の粒。
馬車の壁に開いた細い隙間から、何かが差し込んだ。
(……光……?)
失われたはずの反応が、胸の奥でかすかに息を吹き返す。
ほとんど動かなかった首を、ゆっくりと窓の方へ向ける。
そこに――
フードを深く被ったひとりの人物が立っていた。
昼間の明るさの中なのに、その人物を包む空気だけが淡く明るく、揺れているように見えた。
誰なのか、わからない。
男か女かさえ判別できない。
ただ、光の中心にその人がいた。
シオンがその姿を見つけた時だった。
――声が、聞こえた。
気がした…
(……これは……)
それは人間の声ではない。
シオンがこの世界に来てから、ときおり耳の奥で感じていた、あのかすかな囁き。
精霊の声。
しかもその声は、なつかしい言葉を紡いだ。
――それは、シオンが前の世界で大好きだった本の一節。
苦しくて眠れない夜に読み返しては、気持ちを支えてくれた言葉。
精霊の声は柔らかく、温かく、失われた心の隙間へ染み込むように続いた。
――“声は、終わってはいない…”
その一言を残し、光の人物はふっと揺らめき、光の中へ溶けるように消えた。
「……まって……」
声にならない声が喉で震えた。
手を伸ばそうとして、鎖が鳴る。
シオンの視界は滲んだ。
涙だった。
いつからか、流すことも忘れていた涙。
その夜、馬車の揺れの中でシオンは膝を抱え、震える唇をそっと開いた。
(……届かなくても……いい
でも……わたしの声……まだ……終わってない……)
小さく、小さく――
誰にも聞こえないように。
囁くように朗読を始めた。
馬車の歩む軋む音に消えるほどの小声。
しかし、その小さな囁きは馬車の壁を越えて、周囲の空気を揺らしていく。
波紋のような、微細な波動。
シオンの声の温度が、言葉の精霊の息吹と混ざり合い、薄明るい気配を作り出す。
黒い騎士たちの体に、次第に異変が現れ始めた。
ある者は頭が痛いと言い、ある者は気持ちが悪くなった。
最初は、ただの疲れかと騎士たちは思った。
だが、その正体は――
騎士の身体に巣食うノイズと、シオンの言葉からの精霊が激しく衝突している証だった。
黒い霧が鎧の隙間から噴き出し、苦悶の唸りが次々に上がる。
ひとり、またひとりと馬から落ち始めた。従者たちも次々と倒れていく。
ノイズの断末魔の叫びが、空気を裂いた。
しかしその叫びは、シオンの小さな朗読にかき消されるようにして薄れ、溶けていった。
何事かと思って馬車の柵にしがみついたシオンは
馬車の施錠が外れていることにきづいた。
馬車は既に止まっていた。
恐る恐るシオンは施錠の外れた扉を開ける。
動きにくくなった足をなんとか引きずり外に出ようとした。
その自由に動かない足はシオンの体を地面に転がしてまった。
全身の痛みをこらえてシオンはなんとか立ち上がった。
倒れ伏した黒い騎士たち。
馬車の周りに、淡い光の粉のようなものが漂っている。
風は優しく、光を運んでいた。
そのときだった。
かすかに、風の中に声が混ざった。
(――シオンあなたの声は、終わらない。
どんな小さな声でも、届くことはある。
だから……諦めないで…)
シオンは声の方に向うとしたがどこに向いたらいいのかわからない。でもそれは聞こえていた。
(――私は、見ている)
その言葉が消えると同時に、光の気配も風の中へ溶けていった。
シオンは、ただその場に立ち尽くした。
「……まだ……終わってない……」
確かに――自分の意思で紡いだ声だった。
「……私は、私の声を、信じたい……」
その声は誰にも届かないかもしれない。
だが、そのささやきが空気をわずかに震わせ光の粒が浮かぶ。
それは小さな精霊の姿だった。
美しい言葉は、決して死なない。
それは心に潜み、ある日、必要な誰かのために目を覚ます。
――ル・クレジオ




