灯を継ぐ者 ルエンのティオリス
シオンとアルヴェンが次にたどり着いたのは、かつて文化と詩の町として知られた港町ルエンだった。
だが、街の輪郭が見える頃から、アルヴェンの表情が曇っていた。
「……この街は、ノイズに深く覆われている」
迂回するかどうか…
しかしこの先休めるような街はしばらく無い。
また傷つくのは…とためらっていたら
「私はいいよ。怖いけど…でも逃げてたら何のために旅してるかわからないし…それにあの時も言葉の精霊は力を貸してくれたしね」
そう言ってシオンは弱々しく微笑んだ。
顔の傷はまだ残っていた。
黙ってシオンの顔をみるアルヴェン
「わかった。行こう。」
ノイズが街を覆っているのは近づくにつれ、それははっきりと分かるようになった。門の前で揉める旅人たち。広場では商人が怒鳴り、通りでは夫婦が罵り合っていた。
「ふざけるなよ!」「お前が悪いんだろ!」「そんなこと言ってないだろう!」
狭い路地では、子供が母親に叩かれながら泣いていた。
「また間違えたのか、この出来損ない!」
その言葉に詩音の顔が凍りついた。
「怖い…」
過去の記憶が、呼び起こされ胸に突き刺さる。
シオンは目を伏せ、唇を震わせた。「……ここでは、私の言葉なんて届かないかもしれない……」
だがアルヴェンは静かに言った。「それでも、お前は読むだろう?」
シオンは小さく頷き、雑記帳を開いた。
シオンが広場に立ち、朗読を始めたとき、群衆の中にひとりの青年がいた。ティオリス。彼もまた、人々と同じように、シオンを罵倒していた。
「偽善者め」「こんなことで何が変わる」
詩音はそれでも、声を震わせながら朗読を続けた。
何度も繰り返されたその言葉に、ティオリスの中の何かが揺らぎ始めていた。
次第に、彼は声を出さなくなり、ただ立ち尽くしてシオンを見ていた。
アルヴェンはそれに気づいた。ティオリスの背後に、薄く輝く言葉の精霊の気配が寄り添っているのが見えた。
群衆の罵倒は次第に弱まり、最後にはほとんどの人が去っていった。
だが、ティオリスだけが残っていた。
「……あなたは、なぜこんなことを……?」
シオンは驚き、そして少し震えながらも答えた。「……私は、言葉で傷つけられました。でも、同じように言葉に救われたこともあったんです…だから…」
ティオリスは黙って聞いていた。口を開きたくても、言葉が出てこなかった。ノイズに長く支配されていたからだ。
アルヴェンはそれを見守っていた。言葉の精霊がティオリスのそばで静かに羽ばたいているのを、確かに感じていた。
その夜、ティオリスは家に戻ると、何かに導かれるように屋根裏へ上がった。
そこにあった埃だらけの木箱を開けると、母親の遺した詩集が出てきた。
ページを開くと、一節が目に入った。
> “わたしの子よ おまえの声が わたしの夢
> どんな夜も その声が わたしを朝へ連れてゆく”
ティオリスの目に涙が浮かんだ。「……母さん……」
言葉の精霊が彼の身体を包み、静かな光が屋根裏に満ちていった。
翌朝、シオンはまた広場に立ち、朗読を始めた。
罵声はまだあったが、明らかに少なく、力も弱くなっていた。
母親が子供に柔らかな声をかけ、争っていた商人が握手を交わす。
ノイズが後退し始めていた。
朗読のあと、ティオリスがシオンに声をかけた。
「昨日これを見つけました……母は詩人だったんです。これを読んで、忘れていたことを思い出しました…母はこんなに私を愛してくれていたのに…」
ティオリスはシオンに詩集を渡した。
母親の愛情…シオンにはわからないものだった…
でも、その詩集を読んでシオンは頷いた。母親の愛情がどんなものかはわからなかったけど、ティオリスを大切にして思いやる気持ちだけはわかった。
アルヴェンはこの街の光の中に、いくつもの言葉の精霊が舞い降り、ティオリスの肩に静かに降り立ったのをみていた。
明くる日シオンたちが町を去るとき、ティオリスを先頭に何人かの人が手を振って見送った。
丘の上から街を振り返ったアルヴェンは、ノイズではなく、言葉の精霊たちの光が街全体を包んでいるのを見て、もう振り返ることはなかった。
後日――
広場にはティオリスが立ち、詩集を朗読していた。子どもたちも、大人たちも、優しい目で彼を見つめていた。
われわれが本当に自分自身を理解するのは、
> ひとり静かに、苦しみに耐えながら、その意味を問いかけたときである。”
> ――ヴィクトール・フランクル




