波紋の兆し
春が夏へと変わる頃、村の小さな広場で
詩音がフィエナの勧めで「朗読の時間」を開いていた。
最初は数人の子どもと大人だけだったが、少しずつ人数は増えていった。
「声が……癒される」「聞いていると、心が落ち着くんだ」
そんな感想を、誰かがぽつりと呟いた。
そんな人の周りには言葉の精霊の光が漂っていた。
朗読する言葉は、すべて詩音がかつての世界で書き留めたもの。詩音の記憶の中にあるもの。それが全て。詩音が唯一信頼できる言葉たち。詩音のそばに寄り添い支えてくれた言葉たち。詩音の全て…
読んだ瞬間、周囲の空気が柔らかく揺れて少し温かみが感じられる。まるで、そこに微細な波紋が広がるかのように。
そして言葉の精霊が蘇ってくる
旅人――アルヴェンは、それをじっと見つめていた。
「どうして、そんな文章を読む?」とある晩、珍しく彼が口を開いた。
詩音は驚きながら答えた。
「私が……助けられたから。この言葉たちに。だから誰かの役に立つならと思って……」
アルヴェンはそれ以上、何も言わなかった。
だが翌日、彼の手には古びた羊皮紙の束があった。そこには、この世界でかつて存在した詩や断片的な文が記されていた。
「これを読んでくれ。忘れられた言葉たちだ」
アルヴェンが差し出したのは、この世界で一度失われた“善き言葉”の痕跡だった。
詩音はそれを丁寧に読み上げた。
> “ことばは、星のように暗闇を照らす。 おまえが忘れても、私が覚えている。”
その瞬間、広場の空気が震えた。遠くの誰かが涙を流し、遠くの誰かが微笑んだ。
言葉の精霊たちだった。
それは、確かにこの地に“意味”を残した瞬間だった。
その晩、詩音は夢を見た。
無数の小さな光が、闇の中を泳いでいた。
それは言葉の精霊だった。忘れられ、傷つけられ、汚されてきた言葉の精霊たちが、静かに息を吹き返していた。
その光の中央に、ひとつだけ大きな輝きがあった。
それが、彼女に向かって静かに言った。
「読んでくれて、ありがとう」
目を覚ました詩音の目には、朝の光が優しく差し込んでいた。
> 略………“どんな人間でも、自分を尊重する心さえ失わなければ、生き抜いていける。”…………略
(ヘレン・ケラー)




