旅人
そんなある日。
村の通りに、見慣れない男がいた。
ぼろ布のようなマントを纏い、髪は乱れ、顔には日焼けと疲労の痕が深く刻まれていた。村人たちは誰も近づかず、彼はまるで空気のように通りにいた。
詩音はその目を見た。
目だけが異様に澄んでいた。濁っていない。まるで静かに燃える灰のような色。
その夜、彼はフィエナの家の近くにいた。飢えた風体で、焚き火にあたりながら座っていた。
「あの人、追い払ったほうが……」と詩音が言いかけたとき、フィエナは静かに首を振った。
それから、彼はフィエナの家の手伝いをするようになった。彼は何も言わず、薪を割り、水を汲み、畑の草をむしり始めた。誰も頼んでいないのに。フィエナも詩音も彼を「旅人」と呼んだ。名前を尋ねても答えはない。だが、詩音が朗読するとき、彼は必ず手を休め耳を傾けた。
ある日、詩音はいつものように日課の水汲みに井戸に向かった。
井戸の影から突然なにかが現れた。
詩音は驚いて桶を放して後ろに倒れてしまう。
現れたのはあの『旅人』だった。
旅人の目がかすかに揺れた。
「……あなた、もしかして……この世界の“力”を知っているの?」
とっさに出た言葉だった。
なんでこんなことを…
彼は答えなかった。
けれど、詩音の中で何かが確信に変わっていった。この男は、ただの放浪者ではない。なにかを知っている。
そして、彼の目が向いている先はいつも、詩音が読むその“声の方向”だった。
その日から、詩音は少しずつ旅人にも言葉を聞かせるようになった。旅人は話はしなかったが、詩音の言葉に呼応するように、彼の周りの空気が震え、火が揺れ、窓がかすかに音を立てた。
フィエナはそれを見て静かに呟いた。
「言葉の精霊が、また蘇るんだね…」
> “ぼくは思う、人間の本質が善であると信じるのをやめてはいけない。”
(アンネ・フランク『アンネの日記』)




