氷解
白亜はつい最近まで道隆が入院していた病院に搬送され、まるでリレーのバトンのような滑らかさで手術室へと送り込まれていった。
手術時間は約14時間に及び、手術が終わると白亜は即座に病室に移され、親族以外は面会できないと拒絶されてしまった。その親族であるはずの父親は、術中も術後も姿を見せる気配もなかった。
様子を見に来た羽村が、白亜の父親は海外の大学に出張中であると教えてくれた。よほど酷い顔をしていたのか、羽村は好意でタクシー代を道隆に渡し、帰るよう促した。
後ろ髪引かれはしたが、ここにいても邪魔にしかならないと理解もでき、道隆はそれに従って自宅に帰ってきた。
日付はとっくに変わっており、アパートに帰ってきたときは真夜中だった。
疲労感は凄まじかったのに一睡もすることはできず、道隆は放心したように空を見つめたまま日の出を迎えた。
それが、現実世界に帰還してからの一連の出来事だった。
朝日を浴びて、ようやく道隆は我に返った。
部屋の隅には、手を離す機会を失ったまま持ち帰ってしまった白亜のトートバッグがあった。そこに下がったプテラノドンは、なぜか呼びかけても一切応答しなかった。こんな奴でも話し相手になれば気が紛れるかと思ったのに、期待外れも甚だしい。
ふと、井田のことを思い出した。
あれは白亜の部屋に監禁もとい保護中である。放っておけば餓死してしまう。それもいいかと脳を掠めたが、流石にそういうわけにもいくまいと道隆はトートバッグの前に正座する。心の中で白亜への謝罪の言葉を落とし、トートバッグの中身を調べた。
中には財布、スマートフォン、カードケース、救急セット、それから小さな茶色の革製の手帳が入っていた。どうやら日記帳のようだが、それは見なかったことにして、さらにトートバッグの中身を漁る。ようやく目的の物、黄色いキーケースを見つけ出した。見つかって良かったと胸をなで下ろし、キーケースだけをポケットに入れ、出したものを記憶を頼りに元通りに入れ直した。
トートバッグを手に持ち、道隆は部屋を出た。
町はまだ寝ぼけたように静かで、霞がかかったような陽の光が注いでいる。ランニング中の男女に追い越される。頭上で小さな鳥たちが飛ぶのを見上げた。
白亜のマンションに到着して、ポケットからキーケースを取り出す。鍵は四本収められていた。オートロックに順番に鍵を差し込んでいくと、二本目で自動ドアを開くことができた。
エレベーターに乗って九階に上がる。
白亜の部屋の前に立ち、もう一度心の中で白亜に「ごめん」と頭を下げ、鍵を開いた。
短い廊下を経て、洋室に出る。
しかし、そこには一つの人影もなかった。
「……え?」
部屋の中は、前に道隆が訪れたときとまったく変わらない。ベッドと本棚と折畳式のテーブルがあるだけだ。道隆は、その部屋に井田を置いていると聞いていた。しかしその井田はどこにもいない。風呂場やトイレにもいなかった。他にその部屋に、隠れる場所はどこにもない。
井田にはきつい煙草の臭いが染み付いていた。にも関わらず、この部屋にはその微かな残り香すらもない。まるで、最初からいなかったかのように。
まさか、あのとき異界にいたのではないかと道隆は考えた。
しかし、それはありえないとすぐに否定した。
白亜がそんなことをする理由がないし、そうするくらいなら最初から健太郎の前に井田を転がしていたはずだ。
目眩がした。
同時に、強烈な睡魔が襲いかかってきた。
ただでさえ情報の許容範囲を超えているのに、井田の消失が最後の一押しになったらしい。
しかしなけなしの理性で、ここで倒れるのは白亜に申し訳ないと踏み止まり、一旦そのマンションを後にした。
ここからなら部室が近い。
会長と香子が普段から寝泊まりしていることをここまでありがたく思ったことはなかった。
ふらふらと覚束ない足取りで部室に辿り着くと、案の定総司と香子が寝ていた。鍵もかけずに不用心なことである。年頃の男女が日頃から狭い密室で寝食を共にしていると言うとそういう関係を想像してしまうものだが、この二人にはそういう色っぽさがないのが不思議だと、道隆は前々から思っていた。
ドアが開いた音に、二人はのそりと体を起こした。総司は怪訝そうにやってきた道隆を見つめ、ガクリと首を傾げた。
「やあ、道隆くんじゃないか。こんな時間にどうかした?」
そう言って総司は大きく欠伸をした。香子も同じように欠伸をし、なにも言わずにまた横になって寝息を立て始めた。
「ちょっと、仮眠を取らせて貰おうかと思いまして。いいですか?」
「さては朝まで飲み明かしてたな。若いって素晴らしいなあ」
「会長とは二つしか違わないんですけどね」
言いながら部室に足を踏み入れる。
寝床を確保しようと、床に散らばったガラクタを足で押しのけていると、ふと部室の隅のダルマに目がいった。その頭に乗せたはずの筆箱が、消えていた。
――まさか。
総司の方に顔を向ける。総司も二度寝の体勢に入ったところだった。その近くの棚の中に、健太郎が持っていったはずの赤い番傘が見えた。
眠気が吹き飛んだ。
「健太郎が……来たんですか……?」
「……何だって?」
総司は目を瞬かせる。
道隆は勢い込んで繰り返した。
「健太郎がここに来たんですか!? 一体いつ!?」
総司は目を丸くする。何の騒ぎよと、香子ももう一度のそりと体を起こし、不機嫌そうに道隆を見た。
「ほら、そこ」道隆はダルマを指差して続けた。「この前ここに健太郎の筆箱を置いていったじゃないですか。あいつが取りに来たんですよね? そうなんですよね!?」
総司と香子は不思議そうに目を見合わせる。その仕草に、道隆は何か不吉な気配を感じた。
そして、総司は困惑気味にこう言った。
「悪いんだけど道隆くん……その……けんたろう? というのは、誰のこと?」
「……は?」
「けんたろうという人物に、僕は心当たりがないんだけど。君の友達か何かかな?」
「何を――」
ふざけたことをという言葉は、次第に消えていった。総司にふざけている様子はない。本気で困惑した様子だった。ふざけるにしても、そんなことを言うような人ではない。
道隆はゆっくりと、幽霊でも見るように香子に視線を移動させる。目が合うと、香子は肩を竦めて首を振った。
「そんな……どうして……」
壁に張り付けられた写真に目が移る。映画の撮影完了後に撮った記念写真である。しかしそこには、総司と京子と道隆の三人の姿しかなかった。
「映画……そうだ、映画だ」
道隆は取り付くように総司の肩を掴む。
「この前撮った映画を見せてください。今すぐに!」
「え、ええ? いいけど……ちょっと君、怖いよ?」
総司は立ち上がってパソコンの前に座り、動画アプリを呼び出した。道隆はマウスを譲り受け、食い入るように画面を見つめた。
しかし、そこに健太郎の姿はどこにもない。
どんな場面にいっても、影も形もない存在しない。 健太郎が担っていた悪役は、名前も知らないエキストラが取って代わっていた。
健太郎が大切に思っていた映画から、完全に健太郎の存在が消え失せている。
道隆は立ち上がり、よろよろと後退り、尻餅をつく。
「嘘だ……こんなこと……こんな、酷いことが……」
あってたまるかと、消え入りそうな声で呟いた。
――世界の法則から外れる。
違和感はあった。
白亜は、呪いの力を使いすぎると世界の法則から弾き出されると、そう説明した。そういった人物を見てきたとも言っていた。つまり過去にも、呪いの力を濫用した人間はいたということだ。
にも関わらず、くだんの人間完全凍結事件のような現実的にありえない事件など寡聞にして聞かない。
まさかと思い、スマートフォンでその事件を検索する。しかし、まるでヒットしない。そのような事件は、どこのニュースサイトにも掲載がない。代わりにヒットしたのは、交通事故で二人の男が死んだという地方ニュースのみ。生存者として、井田の名前が挙がっていた。
「ミッチー、大丈夫?」
香子が心配そうに声をかける。
その声が胸に痛い。
道隆は部室を飛び出した。
この世界から、人々の記憶から、尾辻健太郎という存在が完全に抹消されている。そしてそれに辻褄を合わせるように、歴史が改変されている。
世界の法則から弾き出されるとは、そういうことだった。
こんな結末があるか。
こんな救いのない終わりがあるものか。
ズキリと、腕が痛んだ。
腕に残るその凍傷の痛みが、あの陽気な友人が確かにいたのだという唯一の針として、心を刺す。
尾辻健太郎という、大好きだった友達の最後の痕跡を握り締め、道隆は憎しみのかぎりに仇の名を叫んだ。
走りながら、道隆は喉が裂けんばかりに慟哭した。
書いていた続きを全て書き直すことにしたため、一旦更新を停止します。
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