無の世界の主2
「やっぱり……お前は地球乃も……」
「そう結論を急ぐな」諌めるようにエイゼンは言う。「お前たちは、あの男の身に何が起きたのかを知りたいのだろう? 見世物の礼に、それを知る機会を与えてやろうというのだ」
何をと口にするより前に、学生会館の上に立つエイゼンの、さらにその向こうに、ブラックホールのような巨大な穴が渦を巻きながら出現した。
「来い」
エイゼンが短く命じる。
それだけで、穴の向こうから夥しい数の金目が姿を現す。その金目には、漏れ無く全て、夜の帳の如き漆黒の翼が備わっていた。
数は十や二十どころではない。少なく見積もっても五十は超す。絶望を通り越して虚無感を抱く数だ。
さらにその中には、見ただけで別格だと分かる金目が七体もいる。ビャクハクと呼ばれた金目もその一つだ。
「これらは黒翼という、私の眷属の中でも特に強力な個体だ。実のところ、お前たちの世界など十度滅ぼそうがまだ釣りがくる程度に戦力は揃っているのだが、なぜそれをしないのか分かるか?」
道隆は答えることができない。考えることすらできない。あまりにも恐ろしくて、知りたいとすらも思わない。
「重ねて言うが、私は人が好きだからだ。人間という替えの利かぬ稀有な道化を滅ぼすなど、世界の損失に他ならない。だから綾瀬道隆。私と一つ、ゲームをしないか?」
「……ゲーム?」
好きだろうと、エイゼンは言う。その靄の向こうに、毒が染み入るような悪意に満ちた悦びが透けて見える。
「黒翼共の中にあって、私自らが名と力を与えた七体の眷属。これを一体打倒するごとに、お前の望みを叶えてやろう」
「望み……だと……?」
「お前の呪いを消す、尾辻健太郎を元に戻す、奥村地球乃の真相。何でも構わん。考えておけ」
嘲笑まみれの声でエイゼンはそう言った。
道隆はエイゼンを必死に睨みつける。
「嘘だ。信じられないか」
エイゼンは侮蔑の音を鳴らす。
「私に虚言などという機能はない。他者を騙す理由などないからだ」
その言葉には、圧があった。
こちらの思惑も感情も、ありとあらゆる尊厳を蹂躙して納得させる、暴風雨のような呟き。
真実だと、道隆は納得する以外になかった。
あれには確かに、誰かを騙すという機能は不要だ。そんなことをせずとも、誰も彼もを簡単に支配するだけの、圧倒的な力があるからだ。
「――僕の望みを叶えて……お前に、何のメリットがあるんだ」
ビャクハクが僅かに体を揺らしたが、すぐに動きを止めた。エイゼンに止められた様子だった。
「メリットなどあるものか。お前たちが無様に足掻く様を見たいだけだ。滑稽であればあるほど良い。せめて、退屈させぬよう励め」
「……もしも、僕たちが負けて、死んだらどうなる?」
「そのときは、お前たちの世界を終わらせるとしようか。お前たち以上の道化など今後現れるか分からんからな」
良い契機となったと、エイゼンは言う。
最悪だと、道隆は歯噛みし、せめてもの反骨心を奮い立たせる。
「――どうして僕たちが、そんな下らないゲームに付き合ってやらないといけないんだ」
「乗れぬか? ならばお前は即座に私の眷属とし、そこな小娘を食い殺させるがよいか?」
道隆は言葉を失う。その静かに述べられた言葉は、落雷のような破壊力を持って道隆を沈黙させた。
ハッタリではない。あれは瞬き一つでそれら全てを実行できる存在だ。
「だったら――」
手足が痺れる。立っていられない。それ以上喋るな大人しく従えと全身が主張するのに、このチャンスを逃してなるものかと道隆は無理やりに口を動かす。
「――そのゲームに乗ってやる見返りに、質問に一つ答えろ」
「……図々しい奴め」
初めて、エイゼンは沈黙した。
闇に蠢く黒翼たちまでも、まるで緊張したように身を固くする。視線を受けただけで、道隆は急に全身が弛緩して膝をつく。体の内部からひび割れ、崩壊していくような無力感が身を犯した。
エイゼンは大声で笑った。
「いいだろう。その虚仮の蛮勇に敬意を評し、質問を許す。言ってみるがいい」
道隆は胸を掻き毟りながら、絶え絶えに言葉を紡ぐ。
「……二年前……地球乃に大量殺人を犯させたのも、お前か?」
「違う」エイゼンは即答した。「あれは紛れもなく、奥村地球乃が自らの意思で選択し、自らの意思で起こした行動だ」
「嘘だ! あの事件にお前が全く絡んでいないはずがない! 答えろ、お前はあいつに何をした!」
「質問は一つだ。答えてほしくば……分かるな?」
道隆はただ憎々しくエイゼンを睨みつけることしかできない。その様子に、エイゼンは満足げに鼻を鳴らした。
「では綾瀬道隆。私とのゲームに挑むお前に、一つ良いものを授けよう」
何を、というより早く、道隆の左手の手首がどす黒い炎に包まれた。
「は――?」
黒炎の中で、皮膚がめくれ上がり、肉は瞬く間に炭化して、手は骨だけを残して溶解する。
その地獄のような光景と激痛に、道隆は絶叫した。
「ぎゃ――あああああああああああ!」
溶けた鉄の中に手を突っ込まれたようだった。視界の中で星が舞い、意識が混濁し、道隆は狂半乱で火を消そうと、骨だけとなった手を地面に打ち付け、こすりつける。
しかし炎は少しも勢いを緩めない。
痛い。
痛い。
イタイ。
イタイ。
溶けて、刻まれ、一から整形されている。
手はすでに消失しているのに、そこには確かに、地獄のような痛覚がある。
意識を失うことができれば幸福なのに、その痛みがそれを許さない。
手だけではない。
手の断面から何かが侵入して、血管を、神経を、めちゃくちゃに内部からかき回されている。
もはや、それは人が許容できる痛覚の範疇を遥かに超えていた。
やめてください。
許してください。
心の底からそう口にしかけたところで、ふと、嘘のように痛みと熱と共に炎が消えた。道隆は涙で滲んだ震える目で、恐る恐る左手を見る。
失われたはずの左手が、元に戻っていた。
しかしその手の甲には円が刻まれ、その中に針のような三つの模様が刻まれている。まるで時計のようだった。
「それはお前のタイムリミットだ。わかりやすいだろう?」
エイゼンの声が、犯すように耳を這った。
道隆は溶解したはずの左手を右手で掴み、憔悴した目つきでエイゼンを見上げる。まるで、神に救いを求めるように。
「その円の中を針が埋め尽くしたとき、お前は私の眷属として生まれ変わる。それをよく考えて力を使うことだ」
「どうして……こんなものを……」
「リミットが分かっている方が力を使うのに困らんだろう? なに、ゲームの調整役としての公正な措置だ。礼には及ばん」エイゼンはクククと笑う。「それと落とし物だ。お前たちのペットだろう。大事に持っておけ」
突如、空間が捻れるように、エイゼンの目の前に見覚えのある物体が現れた。
白亜のトートバッグである。
無数の黒翼とその主の前に浮かぶ不細工なプテラノドンの下がったトートバッグのコントラストは、違和感まみれで現実感がない。
「精々小娘を死なせないようにしろ。道化が減ると面白みも目減りする」
道隆の足元にトートバッグがボトリと落ちる。
プテラノドンは微動だにせず、言葉も発しない。
急に、腹の底から引き摺られるように、その耳にエイゼンの笑い声だけを残して意識が遠のいた。待てと、言う間もなく、学生会館の屋根の上からエイゼンと黒翼たちは姿を消す。その代わり、異界にはないはずの人の気配と物音が、聴覚と視覚へ現れた。
道隆と白亜は、現実世界に戻されていた。




