言葉
白亜は一人、異界に立っていた。
左肩にはいつもと同じようにプテラノドンがついたトートバッグを下げ、右手には銀の杭を持っている。
時刻は午後六時。
現実世界で降っていた雨は異界にも投射されていたが、今は止んでいる。濡れた地面が空の黄昏を映し出し、町全体がオレンジに輝いている。
場所は歓楽街。
現実世界ではこれから賑やかになる場所だ。
白亜は現実世界ではもちろん、異界でもまだほとんど足を踏み入れたことがなかった場所だ。
――妙だ。
白亜は歩きながら考える。
金目はそこら中にいる――とまでは言わないが、その数は決して少なくはない。町を歩けば数体とは遭遇する。なのに――
「少なすぎる」
異界に入ってすでに二時間以上経過している。にも関わらず、一体の金目とも遭遇しない。それだけならそういう日もあるかと思いもするのだが、この日の異界は明らかに様子が異なっている。
むせ返るような呪いの気配。
金目を百体並べたところでここまでにはならない。
その気配を追うと、この歓楽街にたどり着いていた。
不気味だった。不気味の最たる金目がいないことを逆に不気味に思うとは、それまた不気味な話でもある。
「ねえ、どうなってるの、これ?」
白亜が独りごちるようにそう言うと、嘲るような声がそれに応じた。
「お前から俺に話しかけるたあ珍しいこともあるもんだな」
「御託はいいから答えて。どうせ何か知ってるんでしょ?」
「おいおいそりゃあ横暴というものだ。神でもあるまいし何でもかんでも知っているものかよ。……それより、あの間抜け面連れてこなくてよかったのかよ?」
露骨な話題そらしだと白亜は思ったが、問い詰めたところでこの正体不明のぬいぐるみは喋るまい。白亜は前を向いたまま嘆息する。
「何だか胸騒ぎがして、少し様子を見るだけのつもりだったのよ。そしたらこんなことになってるし」
その言葉通り、白亜は少しだけ異界の様子を見るだけのつもりだった。道隆との取引のこともあり、道隆が回復するまでは異界には行かないつもりでいた。
だが、虫の知らせがあった。
異界に関するものには、独特の気配がある。何度も異界に入り、金目と戦ううちに、白亜はそれがわかるようになってきた。
この無音の空間自体にも、金目にも、正体不明の何者かに舐めあげられるような嫌な感触がある。当然、呪いを受けた人間、つまりは道隆のような人間も同様だ。それと同じ気配を、白亜は尾辻健太郎から感じた。
しかしそれはほんの一瞬だった。ともすれば勘違いだったとすら思えるほどの刹那だった。道隆のものと間違えただけかもしれないと思ったほどだ。
健太郎の様子をしばらく伺ってはみたものの、その後も何も感じることはなかったし、言動にも怪しいところはまるで見受けられなかった。
だというのに、この違和感はどうしたことか。
胸にわだかまる冷たい感触はどうしたことか。
あのとき感じた、氷の手で心臓を鷲掴みにされたような感覚が、脳に張り付いて離れないのはどうしたことか。
その感覚に押されるようにして、白亜は異界に足を踏み入れていた。これといった理由があったわけではない。ただ本当に、そのときの異界の感触が生々しすぎたために、異界に行って本物の気配を感じてみようと思っただけだったのだ。
白亜は足を進める。
生物のいないがらんどうに、白亜の静かな足音が木霊する。
しばらくそのまま歩いていると、国道の真ん中に一体の金目がいた。大鷲のような金目である。いた、と呟き、白亜は姿勢を低くする。
金目は白亜の方へ黄金の瞳を向けると、嘴をかかかかと鳴らした。
「ヒト――ヒト――ヒトダ――チガウ――チガウ、ヒトダ――?」
白亜は大きく目を見開き、絶句する。
――喋った……?
「ヒト――スルナ――ナニモ――チガウ――オマエ――チガウ――ナア――?」
金目は翼を広げフワリと浮かび上がる。一瞬、黒い翼という特徴を思い出したが、その翼は灰色だった。
金目は一際強く翼を羽ばたかせ、矢のように白亜へと突進する。
白亜は即座に冷静さを取り戻し、金目の突進を一歩横にずれるだけでかわす。
金目は翼を広げて空中で旋回し、もう一度白亜へ向かって突進した。その勢いは凄まじく、直撃すれば痛いでは済まないだろう。
そこそこ強力な個体のようだったが、しかし白亜の敵ではない。この程度の金目なら、これまでいくらでも倒してきた。
白亜は軽く地面を蹴って跳躍し、金目に向かって杭を投げつける。杭は一撃で金目の翼を貫通し、地面に串刺しにした。
白亜は着地し、地面に縫い留められて暴れる金目へと歩み寄り、独り言のように尋ねた。
「喋れるの……?」
金目はガーガーと、耳障りな悲鳴を上げるばかりで白亜の声にはまるで応じない。
「もしも喋れるのなら、私の質問に答えてください」
しかし、やはり金目は答えない。喋ることはできるものの、知性はないらしい。オウムやインコのようなものである。会話は無理と早々に見切りをつけ、白亜は杭を握るとそのまま両断した。
金目の黄金の瞳が瞬き、また嘴を鳴らした。
「ヒト――クウナ――アノ、オカタ――イ――」
「あの……お方……?」
金目の瞳から光が失われる。絶命したようだ。
白亜の頭に止めどなく疑問符が降り積もる。
「あのお方って、そう言ったよね」
プテラノドンは答えない。知らないのか、答えるつもりがないのか――白亜は後者だと思う。元よりまともな回答は期待していなかったが、それでも口に出さずにはいられなかったのだ。
それは、白亜に希望を抱かせるには充分だった。
兄の事件の手がかりにようやく触れることができたような、そんな気がして、白亜は染み入るように笑みを浮かべた。




