氷の心、正義の槌3
道隆と別れ、健太郎は大学への道を急ぐ。
土砂降りの中を走るのは気持ちがいい。降り始めたときは憂鬱だったが、いざ水を被ってみればどうでもよくなった。
走りながら、道隆のことを思い出し、知らず口角が綻ぶ。
しばらく研究会に顔を出さなかったかと思うと毎日のようにやってくることもある。一人でいるのが好きなのか、研究会のメンバー以外の誰かと親しくしているところを見たことがない。だから、彼女らしい人と一緒にいるのを見たとき、驚くと同時に嬉しく思った。
めんどくさい人である。しかしそういうところを好ましく思う。
「会えてよかったな」
特に理由があったわけではないが、そう思った。
呼気に触れた雨が凍って砕ける。
体が冷え切っているのを感じる。
雨のせいではない。体温が極端に下がっているのだ。
全身を打つ雨は、かえって暖かい。
健太郎は思い切りジャンプしてみた。
着地するとズルリと滑り、もう少しのところで転ぶところだった。
健太郎は呵々大笑する。
理由は分からない。しかし全身に無闇矢鱈と全能感が溢れている。できないことなど何もないと、心の底から信じられる。
そうなることは少し前からあった。そして実際にやることなすこと全てがうまくいった。試験など全科目満点という前代未聞の結果を叩き出していた。
だから、今度もまたできると健太郎は確信する。
逃げた井田を確実に排除できる。
そう、極自然に確信する。そこには不気味なまでに一切の呵責もなかった。
学生会館の屋根の下に駆け込み、健太郎はようやく足を止めた。さすがにこれだけ濡れている状態では中には入れないなと、髪の毛の水を払い、シャツを脱いで雑巾のように絞り、バサバサと振った。
「お、水も滴るいい男シーズン2突入だ」
声に振り向くと、近くの窓から香子が顔を出していた。健太郎はぱっと笑みを浮かべた。
「香子さんじゃないスか。今日も相変わらず頭爆発しててイカしてますねえ」
「ありがとう。君のその雑な褒め言葉を期待している私がいるのであった」
「そんなとこで何してんスか?」
「そんなとこって、ここトイレよ。外からバサバサ聞こえるから不審者でもいるのかと思って顔出したの。そしたら半裸の男がいた」
「ありゃ、これは言い逃れできねえ状況だ」
香子はケタケタ笑って窓から顔を引っ込めた。それからすぐにタオルを持って外に出てきた。
「ほれ、私の銭湯用タオルだけど、特別に貸しちゃる。今日はお風呂キャンセルだぜ」
「たまには帰った方がいいスよ」
健太郎は素直に渡されたタオルで頭と顔、上半身の順に拭く。それだけでタオルはびしょ濡れになったので、一度きつく絞った。さすがに半裸のままだと障りがあるため、健太郎は湿ったままのシャツを着た。
香子は「外出たついでだ」と壁にもたれて煙草に火をつけた。紫煙が揺れながら、雨に拡散されてその姿を消す。その様をぼんやり健太郎は眺めた。
「ちょっと前にミッチーが筆箱返しにきてたよ」
「あ、さっきそこで会いましたよ。ダルマの上に置いてるから回収しろって」
「早く持って帰ってあげな。薄っすら埃被ってるし、ダルマがなんか哀れだし」
香子はポケットからアルミ製の携帯灰皿を取り出し、慣れた手つきで器用に開くとそこに灰を落とした。一連の動きが洗練されており、まるで映画のワンシーンのようで健太郎は思わず見惚れてしまった。
「そういやさ、ミッチーが来たときおかしなことを言ってたっけ。友達が万引きしてたから通報して友達が逮捕されたけど実は無実だった。自分はどう責任を取るべきか、とか何とか」
「え、あの人そんなことがあったんスか?」
「例え話だって言ってたけどねえ。何かのレポートの題材じゃないかな。ケンはどう思う? ちなみに私はちゃんと謝れって言っておいた」
香子が煙草をくわえるの先端の赤が濃くなり、ジリジリと灰に変えていく。
健太郎はズボンを拭きながら思案する。
「万引きしているように見えて善意で通報したんなら、別に気にすることもないでしょ。損害賠償とか請求されるかもだけど、裁判所も鬼じゃないんだから、そんな単なる勘違いに責任を負わせたりはしないだろうし」
「さすが、会長と似たようなことを言う。犯罪行為があったか犯だするのは警察なり司法なりなんだから何もしなくていい、とか言ってたっけ」
人間味がない冷たい考え方だなあと香子ばぼやく。
健太郎は、総司と同じような思考をしたということに嬉しくなった。総司は多くの才を持つ優れた人物である。その人と同じ発想をしたという事実に気分が良くなる。
「その会長はどうしてます?」
「あー……」香子は表情を引き攣らせ、タバコの火を揉み消した。「今は近づかない方がいいかもね。佳境みたいで、もう悪魔が乗り移ったみたいになってるから」
「なんスかそれ?」
「パソコンの画面に向かって輝け、もっと輝けーとか、うひひひひとかって不気味に笑いだしたりして、本当物騒よ。千代子お前は最高だとか言われたときにはゾッとして逃げ出しちゃった」
千代子とは香子が演じる主役の名前である。健太郎はその様子が想像でき、「あの人らしいスねえ」と呑気に言った。
「後でちょっかいかけに行こう」
「怖い物知らずだなあ」
香子は携帯灰皿をポケットに仕舞う。
「んで、ケンは何しに来たの? 暇潰し?」
「そのようなもんス。強いて言えば、会長と香子さんに会いに来ました」
「お、可愛いこと言うじゃないかこのこの」
香子はポンポンと健太郎の頭を叩く。気恥ずかしかった。
今日は珍しく眠たくないようだった。いつもはトロンと蕩けている目も、今は映画の中のようにくっきりと開いている。普段はボサボサの髪の毛と高校ジャージのコントラストで忘れそうになるが、本来彼女はそこいらの女優など目ではないほどの美人なのである。
億劫屋ではあるが面倒見はいいし、健太郎や道隆のような後輩のことはもちろん、映画のことになると食事も睡眠も忘れる総司のこともよくフォローしてくれる。彼女以外に、総司の手綱を握れる人はいないのではとすら思う。
――本当、総司兄さんとはお似合いだ。
総司も香子も、今のところはそんな素振りも見せないが、健太郎は時間の問題だと思っている。それほどまでに、二人の間の空気は自然で完成されている。そこに健太郎が入り込む余地はない。
健太郎の初恋は、始まった瞬間に終わっていた。だが、健太郎はそのことに心の底から満足していた。
自分のことを救い上げてくれた恩人の幸せを、心の底から祈っていた。
こういう善き人たちを、守らなければならないと思った。
――だから、こんな人たちが普通に生きることを邪魔するあのような害虫は、駆除されなければならない。
道隆や香子のような善良な人と話すことができたためか、その気持ちがさらに強くなる。
それが歪な思考であることに、健太郎は少しも気付かない。この上なく明るい前向きな気持ちで危険な思考に堕ちていく異常に、健太郎は少しも違和感を抱くことができない。
健太郎と香子は朗らかに、取り留めのない会話を続ける。
その中身のない会話を、学生会館の影から聞き耳を立てる者があった。
白亜である。
白亜はしばらくそうしていたが、やがて踵を返し、去っていった。




