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アウスコトマ  作者: 屋形湊
第三章
35/73

指先の一雫

「ああ! 道隆先輩が女の子を泣かしてるう!」


そんな素っ頓狂な声に、道隆は心臓が飛び出るほど驚いた。白亜も同様に目を丸くし、慌てた様子出涙を拭う。

声のした方を見ると、土砂降りの中を傘も差さずに「おーい」と手を振る健太郎の姿があった。

道隆がその姿を認めると、健太郎はバシャバシャと水音を鳴らしながら二人のいる東屋に駆け込んできた。


「いやあ馬鹿に降るっスねえ。降りそうだったんで大学までダッシュしてたんスけど、ギリギリアウトでした」


「盛大なるアウトだろ。お前は小学生男子か」


「いいよなあ、小学生男子。いつも心に小学生が俺のモットーなんで」


「そんなモットー捨てちまえ。風邪引いても知らないぞ」


健太郎はいひひと笑い、白亜に視線を向ける。


「どうもどうも。俺は尾辻健太郎といいます。道隆先輩がお世話になってます」


「お前は僕のお母さんか」


「綾瀬さん、こちらの方は?」


「友達だよ。一緒に映画研究会に入ってる」


そうですかと白亜は立ち上がり、バカ丁寧にお辞儀をした。


「私は奥村白亜です。どうぞよろしくお願いします」


「……ははあ」


そんな白亜を見て、健太郎はニヤリと笑い、道隆の肩に腕を回して力ずくで後ろを向かせた。


「ちょいとちょいと。なんスかあの深窓の令嬢っぽい美女は。道隆先輩とはちっとも釣り合ってない――」


「うるさいなほっとけよ。というか濡れるだろ離れろよ」


道隆は無理やり健太郎を振り払う。肩口がびしょ濡れになった。健太郎は小動物のような顔全体で笑みを浮かべる。


そのとき、道隆は身を刺すような鋭い冷気を感じ、道隆は体をぶるりと震わせた。比喩ではなく、本来の意味での凍えるような寒気だった。雨が降っているとはいえ、こんな夏の盛りに。


「どうかしました?」


きょとんと健太郎は道隆を見る。


「お前に濡らされたところが冷たくて寒い」


「そりゃ風邪っスよ。俺のせいじゃないな」


健太郎は笑いながら髪の毛を後ろに撫でつけ、顔を拭った。


「よければ、これ使いますか?」


白亜は健太郎にタオルを差し出す。健太郎は手を突き出して「いや結構」と見栄を切るように言う。


「これからまた大学までダッシュするので心配ご無用。お気持ちだけありがたく」


「研究会に顔出すのか?」


「そのつもりっス。最近ちょっと野暮用があって顔出せてなかったもんで」


「野暮用って?」


「野暮用は野暮用っスよ。言うなれば、ゴミ掃除的な」


「ふうん。ゴミ拾いのボランティアにでも行ってたのか」


道隆は適当に相槌を打つ。健太郎の野暮用にも、聞きはしたもののそこまで興味もなかった。


「道隆先輩も研究会行きます?」と言って、しまったと額をペシンと叩く。「失敬失敬。デートの最中でした。会長と香子さんには伝えておきます」


「デートじゃない。面倒な事になるから余計なこと言うなよ」


ふと、思い出してか道隆は言う。


「そう言えば、試験のとき筆箱ありがとうな。部室のダルマに乗っけてるから、回収してくれ」


「いえいえ、お気になさらず。先輩のお役に立てたのであれば本望っス」


ではではと、健太郎はまた東屋の屋根から出て、雨に打たれながら振り向いた。


「お邪魔虫はこれにて失礼するっス! 末永くお幸せに!」


言うだけ言って、またバシャバシャと水を跳ねながら健太郎は大学の方へと去っていった。


「アホだなあいつ」


道隆は小さくなっていく健太郎の背中を見つめながら独りごち、白亜に向き直った。


「ごめん騒がしい奴で」


「いえ……」


白亜もまた、去っていく健太郎の方をぼんやりと見つめ、気のない返事をする。


「あの人とは、付き合いは長いのですか?」


「長い……と言えるのかな。大学に入って最初に知り合った奴だけど、まあ四ヶ月くらいの付き合いか」


「随分と親しげでしたね」


「変に馴れ馴れしいだけだよ。何か懐かれちゃったみたいだし。あいつがどうかした?」


白亜は頭を振った。


「何でもありません」


素っ気なくそう言って白亜はトートバッグを肩に掛け、中から折り畳み傘を取り出した。


「話の続きはまた今度に。すみません。まだ、お話できていないことがあることは重々承知しているのですが」


「え? そりゃまあ、もちろん構わないけど」


どうして急に、と尋ねるより前に白亜は傘を開いた。


「綾瀬さん。傘はお持ちで……はありませんね」


「僕のことは気にしないでくれ。この降り方なら多分すぐに弱まるだろうから、そしたらコンビニまで走るよ」


「激しい運動は控えるように言われたのでは?」


「……あ」


「大丈夫ですか、綾瀬さん……」


心底呆れたと言わんばかりに白亜は嘆息し、開いた折り畳み傘を道隆に差し出した。


「使ってください」


道隆は目を瞬かせる。


「君はどうするんだよ?」


「家は近所ですから、どうとでもなります」


「いらない。雨が降りそうだって分かってたのに何の準備もせずのこのこやってきた僕の自業自得だ。そのために君が濡れるなんて許さない」


「……そう、言いますよね。綾瀬さんなら」


白亜は差し出した傘を引っ込め、代わりにトートバッグから先ほど健太郎に渡そうとしていたタオルを差し出した。


「こんなものしかありませんが、被れば少しは気休めになるでしょう。絶対に、無理に走ったりはしないでください」


まるで叱られているようだと思いつつ、道隆は白い無地のタオルを受け取った。同時に、用意周到だなと感心する。基本的にインドアの引きこもり気質な道隆は、タオルを持ち歩くという発想がなかった。


「また連絡します」


そう言って小さく会釈し、白亜は東屋から出ていった。

道隆はベンチに座り直し、深く息を吐く。一人にはなると、自分が酷く憔悴していることに気が付いた。


ふと、何の気なしに足元を見る。

健太郎が濡らして染みになったコンクリートの上に、キラキラと光る何かが落ちていた。気になって拾い上げると、指先に走る冷気からそれが氷であることが分かった。

どうしてこんな所にと怪訝に思ったが、ただ一つの推測すら思いつく前に、氷は道隆の掌の上で溶けて消えてしまった。

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