退院の日
「退院おめでとう、綾瀬くん。何となくだけど、君とはまた縁がありそうな気がするよ」
「お世話になりました羽村先生。僕としては二度と縁がないことを祈ります」
「そりゃそうだ。外科医の世話になるのなんか僕だってごめんだよ。できれば病院の世話になるのもごめんだ」
羽村ははははと快活に笑う。病院の中で言うようなことではない。聞いた話によると、彼はこの病因の跡取り息子であるようだ。だからこんなにも、およそ医師とは思えない自由な振る舞いができるのだろう。それでもどうかとは思うが。
道隆は病院の待合室でなぜか羽村と談笑していた。入院費の精算を待っていると、急に現れたのである。何故かは分からないが気に入られたようだった。
「しかし、君の両親は退院日まで姿を見せなかったね。仲が悪いのかい?」
「凄いことを聞きますね」道隆はデリカシーのない医師に苦笑する。「仲は普通だと思いますよ。ただ家から遠いし、何ともないから来なくていいと連絡したんです」
それにもしも白亜と鉢合わせたらどんな反応をされるのか、考えただけで気が滅入ったから、ということは当然口にしなかった。
「ははあ。それで入院費だけはせびろうというわけか。この親不孝者め」
「ここで仕事サボってる先生に言われたくありません。病院の評判落ちても知りませんからね」
「馬鹿を言うなよ。退院していく担当の患者を見送ろうとしている僕は、むしろ医者の鏡だ。今すぐ人情医療ドラマの主役に抜擢、レッドカーペット間違いなし」
「うわあ、何言ってんだろこの人。訳分かんねえ。ひょっとして馬鹿では?」
「失礼だな君、失礼だぞ。これでも国立医大を出てるんだからな」
そのとき、窓口から道隆を呼ぶ声が聞こえた。羽村はそれではと立ち上がる。
「僕もそろそろ戻ろうかな。これでも忙しくてね」
全然そうは見えなかった。
「お世話になりました」
「窓口でも説明はあるだろうが、塗り薬と飲み薬を出してるから、ちゃんと服薬するように。背中の傷は塞がってはいるけど、数日は激しい運動は控えてね。傷開くから」
「肝に銘じます」
「よろしい。それでは、お大事に」
羽村はひらひらと手を振って去っていった。不思議と、道隆もまた羽村とはまた会いそうな気がした。
窓口で精算と、羽村とほぼ同じ説明を受け、道隆は病院を後にした。
今日の空は少し雲行きが怪しい。空は雲に覆われ、遠くの方には鉛のような分厚い雲が見えた。空気もジメジメしており快適とはほど遠い。
雨が降る前に急いで移動しようと、道隆はポケットから白亜の連絡先のメモを取り出し、書かれた番号を叩いた。
歩きながらスピーカーに耳を当てる。五回ほど呼び出し音が鳴った後に、スピーカーから「もしもし」と小鳥のような声が聞こえた。
「白亜ちゃん? 今病院出たところなんたけど、どうしようか?」
スピーカーの向こうから、ガサゴソと衣擦れのような音が聞こえた。
「退院おめでとうございます。お加減はどうですか?」
「体は大丈夫。激しい運動はしばらく控えろと釘を差されたくらいで、痛みも特に残ってないよ。心配かけたね」
「はあ。心配などしていませんが」
素っ気ない言葉に道隆は失笑した。
「どこに行けばいい? また君の部屋?」
「あの……今更な感じはありますが、男性を部屋に入れるのは、少し憚られまして」
それもそうだなと道隆は内省する。羽村にデリカシー云々言えたものではない。
昔は安々と自宅マンションに迎え入れてもらったことがあった気がしたが、彼女は成長しているのだなとしみじみ思う。
「それじゃあ、君のマンションの近所にファミレスがあったよね? 着くころには昼時になりそうだし、そこで話そう」
「よく覚えていますね」やはり平坦な調子で白亜は言う。「分かりました。では先に入ってお待ちしておりますね」
スマートフォンをポケットに仕舞いながら、ファミレスで待ち合わせとは大学生らしいな、青春ではないかと想像する。しかし、そんな爽やかな話にはならないだろうと思うと少しだけ気分が重くなる。
自分でもよく分からない気持ちを持て余し、未だに、今の白亜との正しい距離感を測りかねている自分を情けなく感じる。
最初にどんな話をすべきだろうと迷いながら歩いているとポツリと小さな水滴が鼻頭に跳ねた。空を見上げると、空を覆う雲の色が重くなっていた。道隆は足を急がせる。




