乳白色のリノリウム
道隆が次に目を覚ましたのは、それから約五時間後のことだった。
点滴液がだいぶ減っている。あれだけふんだんに部屋に注ぎ込まれていた陽の光はすっかり失われているが室温は上がっているようだ。廊下は人の往来が多く朝よりも賑やかだった。
昼食のものらしい残り香が食欲を刺激し、胃にも腸にも何もないことを強く自覚した途端、腹の虫が鳴った。
「ぷ」
不意に笑い声が聞こえた。
見ると、枕元のスツールに白亜が座っており、口元を隠して笑っていた。道隆の視線に気がつくと、顔を赤らめてぷいと顔を背けた。
「はぐば――」
この世の終わりのような声が出た。まったく声の出なかった今朝よりマシだが、これなら出ない方がマシだった。
「無理して喋らないでください。喉まで火傷していたそうですから」
「……」
道隆は沈黙し、代わりに体を起こした。このくらいならもう大丈夫なようだ。
「何か飲まれますか?」
道隆が頷くと、白亜は足元のバッグから麦茶のペットボトルを取り出し、時差油していたらしい紙コップに注いだ。
道隆はそれを受け取りながら、この子にはいつもお茶を注いでもらっている気がするなとぼんやり考えた。
道隆は桃源郷に湧いた湧き水のような麦茶を飲んだ。
胃に水分を取り込むと、もう一度腹の虫が鳴った。
白亜は苦笑する。
「さすがに食べ物は我慢してください」
道隆は絶望的な気持ちになる。これまで生きてきた中で最も最大の空腹を感じているというのに。
その表情があまりに悲痛だったのか、白亜は頬を綻ばせる。
「そんな顔してもダメです。怒られちゃいますから」
道隆はおやと思う。心なしか態度が柔らかくなっている気がしたからだ。
そんなことを思っていると、ふっと白亜は表情を引き締めた。
「さて綾瀬さん――あれは一体、何の真似ですか?」
道隆ははてと首を傾げる。
白亜は冷淡に続けた。
「どうしてあんな無謀なことをしたのですか」
白亜の口振りから、金目との大立ち回りが見られていたということに気付き、道隆は思わず白亜の反対側に首を回した。あまり人に見られたい姿ではなかった。
「きみこそ」道隆は慎重に口を開く。「どうして僕を殺そうとなんかしたんだ?」
後ろで息を呑む音が聞こえた。
二人の間に長い沈黙が下りる。
五分はその膠着状態が続いた後、絶えられなくなった道隆が振り返ろうとしたそのとき、
「くっせえ。腐ってんのかションベンガキ共が」
その、およそ悪意しか感じられないその声を聞いた。
「ちょっと!」
次いで白亜の狼狽する声。道隆が驚いて振り返ると、白亜がトートバッグを膝の上で抱きしめ、プテラノドンのぬいぐるみを両手で握り締めている。
「いつまでもウジウジみっともねえったらありゃしねえ。喋るんならとっとと洗いざらい吐けよ。そのうっすい胸ももうちょい軽くなるぜ」
「今すぐ黙って。でないと窓から投げ捨てる」
「は。俺がいなけりゃ何もできねえ小娘が、できるものならやってみろや」
「ちょ、ま……」
のどが詰まって声が出なかった。
道隆は白亜の手の中を凝視する。
声は、プテラノドンのぬいぐるみから発せられていた。
「喋ってたの、それ!?」
「文句あんのか間抜け面」
白亜の手の中で不細工なプテラノドンの嘴がパカパカ動く。
白亜は所在なさげに肩を竦め、さらにプテラノドンを握り潰した。プテラノドンは痛くも痒くもねえなと嘲笑う。頭痛がした。
「え、じゃあ、何? あのとき白亜ちゃんを煽ってたのも、それ?」
「は。ラジー賞も真っ青なクソみてえな茶番を盛り上げてやったんじゃねえか。感謝しろションベンガキ共」
「お願いだから黙って。それ以上私のプテちゃんを汚さないで」
「白亜ちゃん……ナニコレ?」
「……ご覧の通りと言います……」
白亜は目を泳がせる。プテラノドンはけけけと嫌らしい声で笑う。ただでさえ不細工なのに、より一層不気味になっている。
そのとき病室のドアが開き、プテラノドンは「おっと」と口を噤んだ。入ってきたのは、今朝も会った若い医師だった。
白亜はスツールから立ち上がると頭を下げた。
「こんにちは、羽村先生」
「こんにちは奥村さん。今日もご苦労さま」
羽村という名前だったかと道隆がおもっていると、羽村は道隆を見てよかったよかったと笑みを浮かべた。
「彼氏もすっかり良いみたいだ。君の甲斐甲斐しいお見舞いのおかけだ」
「いえ、あの、だから彼氏では……」
白亜は道隆を一瞥し、すぐに目を逸らした。事実違うのだが、そのように拒絶されると何となく居心地が悪かった。
道隆は頭を搔きながら、ゆっくりと尋ねた。
「何か用ですか?」
「まあ、大したことじゃない」羽村は軽薄な口調で続ける。「明日警察が話をしたいってさ」
「どの辺りが大したことないんですか?」
「僕の人生には関わりがないという辺りが」
意外とドライな医者だった。
羽村はそれだけ言って病室から出ていった。
道隆と白亜は顔を見合わせる。
「まあ、こんな大怪我で担ぎ込まれれば事件を疑われるよな。白亜ちゃんとこにも?」
「ええ。覚えていないで押し切りました。なので綾瀬さんもそのように答えてください」
「そう言うしかないよなあ」
こことは違う世界で化け物と戦ってました、などと言おうものならあっという間に精神鑑定である。
白亜はトートバッグを肩に下げて立ち上がった。
「私はこれで失礼します」
「え、帰るの? まだ聞きたいことが色々あるんだけど」
「ここだといつ誰が入ってくるか分かりませんし、それにまだお疲れでしょう?」
白亜はやや表情を暗くし、自分の右手に視線を落とした。
「安心してください。今度こそ、きちんとお話します。それに、私からも大事な話がありますから」
白亜は顔を上げる。その顔には、どこか決然とした色が伺えた。そんな顔をされれば引き下がるより仕方がなかった。
「分かったよ」
「明後日の朝に退院とお聞きしました。手続きが終わったら、連絡をください」
白亜はトートバッグから手帳ととペンを取り出し、手早く電話番号を書いてそのページを破り、ベッドの上のテーブルに置いた。
白亜はペコリと会釈する。
「さようなら綾瀬さん。お大事になさってください」
白亜は病室を出ていった。
リノリウムを蹴る音が聞こえなくなるまで待ち、道隆はもう一度目を閉じた。どっと疲れてしまった。
主に、あの喋るぬいぐるみのせいで。




