遠征 3
「気持ちいー……」
水は透き通りひんやりとしていた。手で掬った水を掲げると、夕日に照らされキラキラとした輝きが腕を伝う。
遠征に来てこんな広い水場で水浴びができるなんて、騎士様達には感謝しかない。
手早く汗を流し、川岸に上がった。ここは誰の目もない。手っ取り早く風魔法で乾かそう。
魔力を練り込み自身の回りに風をまとわせる。速乾とまではいかなが、タオルで服よりは時短になるだろう。何せ、ルシウス様を見張りとして拘束してしまっているし、この後の時間で騎士の皆様の水浴びをするのだ、私1人悠長にしてられない。
髪の毛だけは少し時間がかかりそうなので、ある程度は水分を飛ばしたが少し濡れている。ともあれ、服さえ着れれば水浴びの完了報告ができるのだ。畳んでいた服に袖を通した。服装をある程度整えて、茂みの向こう側へ向かった。
「お待たせして申し訳ありません」
「もういいのか? もう少しゆっくりしてもよいのだが」
「十分です。このあと皆様も入られるのですから」
「気を使わせてしまいすまない。だが……」
ルシウス様の手が伸ばされ、顔を掠める距離で髪の毛に触れた。そのまま手櫛を通すかのようにすっと頭を撫でられた。
微かに触れた手がくすぐったい。
「んっ」
「っ、すまない、断りもなく」
「いえ、少しくすぐったかっただけで……て、髪が乾いてる!ありがとうございます」
「濡れたままだと、なんというか、その……目に毒だ」
気まずそうに、でも何だか熱をもったような視線を向けられ、こちらまで少し恥ずかしくなってくる。何かごまかさなくてはと妙な焦りまで生まれてくる始末だ。
「そ、そんな、誰も何も思わないですよ」
にへらと笑って誤魔化したつもりだった。
でも返ってきたのは、いつもより少し低めのトーンだった。
「アリシアは、もっと男から向けられる視線の意味を学んだ方がいい」
「すみません……でも、ルシウス様だけだと知っていたので」
「……俺も男だが?」
ああ、ダメだ。少し怒らせてしまったかもしれない。
罪悪感はもちろんあるのだが、何故か感じるルシウス様からの熱に胸が苦しくなる。
「……申し訳ございません、以後気を付けます」
「あークソっ、違うんだ。すまないアリシア。八つ当たりだ」
空を見上げ片手で目を覆う、そのままルシウス様が大きく息を吐いた。
視線を戻したルシウス様は申し訳なさそうに眉を下げる。
「俺だけだと安心してくれてた事は嬉しく思う。それだけ信頼を得られてる事は正直嬉しい。ただ、油断はよくない。そんなヤツはいないと信じてはいるが、欲に負けるヤツだっているかもしれない。いくら魔法が使えても、力では男には勝てないのだから」
そうだ、力では全く敵わなかった。この時代に飛ばされてきた際にボルノの跡地であんなに怖い思いをしたのに。
「心配をお掛けして申し訳ありませんでした」
「俺も少し感情的になってしまった、申し訳ない。……さぁ、戻ろう。アリシアはこのあと食事の準備の手伝いを頼めるか?」
「もちろんです。私に出来ることであれば是非お手伝いさせて下さい」
「ああ。……あー、今日ほどジョエルがいればと思った日はないな」
歩きだしたルシウス様がぐっと延びをしながらそう言った。
いつもならば護衛でそばにいるジョエル様は、護衛であることの兼ね合い上、本日は休暇なのだそうだ。
騎士様のなかに1人いるのだから、本日の護衛は必要ないと言うことになり休暇が与えられたのだとか。
本人曰く今日は仲の良いご令嬢からお誘いを頂いているのだとか。そう話していた彼の表情からあまり何も読み取れなかった。果たして今日の女性はジョエル様の本命の女性なのだろうか。
「ジョエル様は恐らく今ごろご令嬢とディナーかと」
小さく笑いながらそう伝えると「ご令嬢と、か」と呟くような声が返ってきた。
「止められてるわけではないし、護衛を任せてる相手の事だ、伝えた方がいいのだろうな」
「何の事でしょうか」
「ジョエルなんだが、実は彼も」
「よう、早かったな。どうださっぱりしたか、アリシア嬢」
テントの近くまで歩いてきていたようで、グスタフ様が声を掛けてくれた。
「とても気持ちよかったです。お先にお時間頂きありがとうございました」
「こちらこそ、部下を揶揄う楽しい時間をどうも」
気持ち良いくらいにはっきりと言うものだから、一番の被害者であるルシウス様は諦めなのか遠い目だ。
そのあと騎士様達が順に水場に行き、その間に準備ができるもので夕飯の支度を進めた。夕飯と言っても干し肉や少し持ち込んだ野菜などで作るスープがメインだ。旅行に来ているわけではない、魔物討伐の遠征中なのだ。
簡易的なものでも、暖かさを感じるだけで少し疲れが癒されるのだ。
食事が終わり片付けが終わった頃には夜も更け見上げた空には目映いばかりの星達か煌めいていた。
あの星は達は、今も昔もずっと変わることなくあの場所に見えていたのだろうか。
テントに戻ると、明日の予定立てが終わった所だった。流石に団長たちのテントは他のどのものより大きいし広かった。
寝床が近距離に隣り合うなんて事はないようだ。
「さて、寝るか」
今日の見張りは、いつもより人数か少なくなったらしい。と言うのも、私が障壁を張ったのである程度の魔物の心配は要らなくなったからだ。
だとしても、人には全く意味をなさない障壁だ。皆で「お休みなさい」とはいかない。
関知ができる私がどこかの時間で見張り番をすると伝えたものの、これもまた却下された。人の目が少ない夜は一番危ない、と。水浴びのときにルシウス様に言われたばかりなので、おとなしく障壁係だけということで話しは完結した。
「アリシア嬢はそっちでいいか?」
団長が奥の寝床を指差した。
「私はどこでも……間借りしてしまい申し訳ないです」
「気にすんなって。何なら、ほら、俺の隣に」
「団長、寝る直前までふざけてて疲れませんか」
「へいへい、静かにしますよ。じゃ、お休み」
「アリシア、団長のイビキが煩かったら魔法で水でも掛けてやれ」
「おいルシウス殺すきか」
「ふふ、考えておきます。お休みなさい」
「ああ、お休み」
「おーおー、寝ろ寝ろ」
目を瞑ると、からだの重みを感じた。
疲れていたのだろう。そのまま沈み混んでいくような感覚になりだんだんと微睡みが深くなってく。
次に気がついたら、そこは真っ白な空間だった。
ここはどこだろう、そう思った瞬間に視界が薄ぼんやりと暗くなる。ぼやける視界が徐々に開けてくると自身が置かれた状況は全く理解できないのに、厄介なことに感情が流れ込んでくるのだ。
ーー見ないで、怖い、離して、触らないで、助けて、殺さないで
一気に流れ込んできた感情が混ざり合い、吐き気すら覚える。
そんな感情のなか、目の前の大きな窓辺に押さえつけられ、首もとに剣を押し当てられている男性と目があった。涙を流し苦痛な表情で叫んでいる。
声ははっきりと聞き取れない。心臓がばくばくと恐怖の音を立てている。無意識に彼に手を伸ばした。
ーー「やめろーっ!!」
彼の声がそうはっきり聞こえたその瞬間。下腹部に激しい痛みと圧迫感を感じた。恐怖に上がる息、乱暴に揺さぶられ髪を引かれ見上げた先にあった男性の歪んだ笑顔。
息が苦しい、怖い、怖い。
次の瞬間、スーッと辺りが白くなっていく。誰もいない真っ白な空間に1人。どくんどくんと心臓の音が響き、恐怖に冷や汗が流れる感覚か残っている。息も苦しい。
でも何でだろう、何で苦しかったのか、何でこんなに怖いと思っているのか、もう思い出せない。
「……リ……ア……!……ア……シアっ」
声が聞こえる。
聞きなれた声だ。
「アリシア、どうした、大丈夫かっ」
その声にゆっくり目を開けた。まだ息は苦しい。
ぼんやりと視界が開けてくる。涙で滲んだ視界に見えたのは、ルシウス様だった。気だるさに視線だけ動かすと、テントの外はうっすらと明るくなっているようだ。
「ルシウス、様……おはようございます」
ルシウス様手が額に触れた。ひんやりしていて気持ちいい。
「熱はないようだな。……すごい汗だ。落ち着いたら、水場に行くといい」
「ごめんなさい……何だかすごく怖い夢を見た気がして」
「大丈夫か?」
その言葉に何度か大きく深呼吸をする。
大丈夫、息苦しさは収まった。あれだけ鳴っていた心臓の音も大分落ち着いているように思える。
「大丈夫です……ご心配をお掛けしました」
テントの入り口が開き、グスタフ様が入ってきた。
「目が覚めたか、よかった。まだ早い時間だ、ゆっくりしとけよ」
「……申し訳ありません」
「気にすんな」
大きな手がポンと頭の上に乗った。
「ほら、とりあえず水、飲めよ」
冷たい水が喉を通っていく感覚が分かる。
いった何の夢だったんだろう。すごく怖かった、そんな気がするけれど……うまく頭が回らない。
少ししてテントの外に出た、外はやや明るさが増しているものの、まだ薄暗かった。この時間は皆まだ起きていないという。
ルシウス様に水場に行くことを伝えると、1人はダメだ、とまた見張り役を買って出てくれた。私としては1人でもよかったのだけど、学習はしているつもりだ。
少し薄暗い水辺につくと、汗で張り付いた服のまま水に浸かった。中央の辺りまで進み、座り込むとちょうど胸の辺り程の水位だ。
身に付けている服が水の流れにゆらゆら揺れる。
あまり何も考えられず勢いでこのまま入ってきてしまったが、着たままだと落ち着かないものだな。水に揺れ肌に触れる布が少しくすぐったい。そんな事を考えながらふと空を見上げた。
見上げたそばに光る何かが浮遊している。青白い光がとても綺麗でそれが何かなんて考えることが出来なかった。
「……きれい」
引き寄せられるように手を伸ばしたその時だ。
「それに触れるな!!」
ろくに回らない頭の中にルシウス様の声が響いた。
「えっ?」
何故だろうと疑問に思った瞬間に、青白く光っていたそれが、どす黒い人の影に形を変えた。
アンデットだ。
そこからはもう反射だった。伸ばしかけたその手に魔力を練り込み一瞬で浄化させた。
黒い影が消えたとたん、靄のかかったような状態だった頭が正しく動き出した気がした。そして先ほどまで忘れていた夢の断片が蘇ってくる。
ーーあの場所は? あの苦しそうに叫んでいた男性はだれ? 歪んだ笑顔の男性はだれ? そもそも襲われていたのは私なの?
知っている人物は誰1人として登場しない夢だった。
流れ込んできた感情は情報量が多すぎて理解しきれないものだった。襲われての恐怖、死への恐怖、助けを求める気持ち、助けたいと思う気持ち、罪悪感、絶望……一気に押し返してきた夢の中の感情に心臓を握られるような感覚に陥る。
涙は止めどなく溢れ、呼吸がうまく出来ず短く息を何度も吸ってしまう。苦しい。
自分の荒い息だけが響く耳に、小さくバシャバシャと水の中を走って向かってくるような音が混ざった。そしてバサっと背中から何かをかけられた。滲みきった朧な視界に騎士服の刺繍が見える。
ルシウス様だ、そう思った。
振り替えって目があった彼にそのまま抱きついたのは無意識だった。
「大丈夫かっ、ゆっくり呼吸するんだ。落ち着いて……そう、ゆっくり、ゆっくり」
背中を擦ってくれる手が優しい。大丈夫この手はあの男みたいに私を乱暴に扱うことはない。
”あの男”が誰なのかもわからないのに、経験もしたことではないのに、突然無理矢理刻み込まれた恐怖心。
恐怖からとも安心からとも言えない感情のまま、ルシウス様の背中に回した手に力がこもった。それに気付いたのか背中を擦っていくれてた手が、そのまま優しく私を抱き寄せた。
「ここにいる、大丈夫」
耳元で響いた声は優しくて、ただただ涙が止まらなかった。
お読み頂きありがとうございます。
X:@sheepzzzmei