第5話 美作市
ベルピール自然公園。
美作富士と呼ばれる日名倉山の中腹に作られた自然公園である。
標高八六五メートルに位置するこの公園からは、瀬戸内海に浮かぶ小豆島さえ見渡すことができる。
また、ベルピール自然公園には、凱旋門にも似たアーチ形の巨大な鐘楼があり、鐘楼には巨大な鐘が備わっている。
直径二メートル、重さ六トンにも及ぶ巨大な鐘。
この鐘こそが、日本一大きな西洋ベルーースウィングベルにして、吉備武彦桃温羅の言葉が指した鐘である。
鐘の名を、『リュバンベールの鐘』。
リュバンベールとは、フランス語で『緑のリボン』。
緑のリボンは、心と心を結ぶ。
即ち、リュバンベールの鐘とは、夫婦愛を、家族愛を、友人愛を、子供たちへの愛を、あらゆる愛を作り上げる『愛の鐘』である。
ベルピール自然公園に着いた美作さかは、秘書を下ろし、一人で鐘楼の中へと入っていく。
鐘楼は施錠されているが、美作市市長の地位があれば関係ない。
鐘楼は開錠され、美作さかを中へ迎え入れた。
「しばし、耳を塞いでおくと良いでござる!」
美作さかは、鐘楼の中から叫んで秘書に伝える。
疲労困憊の秘書は、耳を塞ぐことさえ面倒が上回ったが、それでも市長の指示であればと耳を塞いだ。
美作さかは秘書が耳を塞いだことを確認すると、鐘楼の壁に手を触れる。
すると不思議なことに、リュバンベールの鐘がゆっくりと傾いた。
人間が鐘に触れることも、機械が動かすこともなく、自発的に傾いた。
そして、傾きの限界に辿り着くと同時に、重力に従って大きく振った。
ゴーーーーーーン。
ゴーーーーーーン。
鳴り響くのは、大きな鐘の音。
岡山県全体に、否、日本全体に響き渡る程の巨大な鐘の音。
日本各地の教会や恋人の聖地に設置されたスウィングベルのサイズは、せいぜいが直径五十センチメートル前後。
可聴範囲は、二百から四百メートルが限界だ。
しかし、リュバンベールの鐘は、桁違いの直径二メートル。
日本一大きな鐘と言うことは、日本一遠くまで音が届く鐘と言うことである。
耳を塞いでなお耳に届く美しい音色に、秘書はさらに強く耳を塞ぐ。
対し、美作さかは鐘楼の真ん中に立ち、耳を澄ます。
音とは、物体を通して伝わる音波である。
音波は壁にぶつかり、跳ね返る。
即ち反響する。
リュバンベールの鐘から放たれた音波は、岡山全土を駆け巡り、森羅万象にぶつかって元の位置に跳ね返る。
そして、跳ね返った音波は美作さかの耳に吸い込まれていく。
岡山県の地形が。
岡山県を歩く生物が。
美作さかの脳内で、立体地図として再現される。
美作さかはポケットからスマートフォンを取り出し、速やかに位置情報を送信する。
再現された立体地図に浮かび上がった、地球上に存在しない生物のいる位置を。
徐々に、鐘の音が消えていく。
秘書は耳から手を離し、周囲を見渡してから鐘楼へと駆け寄る。
「市長、さっきのは?」
「離れるでござるよ」
「へ?」
「音が教えてくれたでござる。今現在、岡山にいる鬼は久米南町に一体、浅口市に一体。そして」
ズリズリと、這いずる音が聞こえる。
木々が根っこから溶かされた様に沈んでいき、生い茂った草が溶けていく。
否、飲み込まれていく。
「ジュババババ!」
奇怪な笑い声と共に、餓鬼が現れた。
「ひいっ!?」
秘書が驚くのも、無理はない。
餓鬼は、アメーバのように流動的な体をしており、しかしアメーバとは程遠い巨大な体だった。
小さな平屋であれば、丸呑みできるほどの巨大な体。
いつ飲み込まれてもおかしくない恐怖が、秘書の視界にあった。
「あれが、鬼でござる。正確には、餓鬼というでござるよ」
「が、餓鬼……」
餓鬼の体は透明で、ドロドロと動き続ける体内では、眼球が一つ転がっていた。
回転する眼球は体の中から秘書を捉えると、ピタリと動きを止める。
「なるほどでござる。透明な体で眼球が回転できれば、三百六十度どころか四πステラジアン全てが視界という訳でござるな。便利な体でござる」
「よ、四πステラジアン?」
アメーバ型の餓鬼は、音のする方向から秘書の体がある方向へと進行方向を変え、ズリズリと進む。
「一応、やってみるでござるか」
美作さかは餓鬼を見ながら、再び鐘楼に手を触れる。
「あ」
「今回は、大丈夫でござる」
秘書は咄嗟に耳を塞ごうとするが、美作さかがそれを止める。
音波は指向性を持つ。
つまり、方向によってエネルギーの強弱が異なる性質を持つ。
人間が聞こえる音ほど指向性が低く全方位に届き、人間が聞こえない超音波ほど指向性が高い。
先程、美作さかが鳴らした音は、前者。
そして、今回鳴らす音は、後者である。
リュバンベールの鐘は再び傾き、音を鳴らす。
今度は超音波として、密集した音波が餓鬼を襲う。
「ジュバー!」
音波が餓鬼の体を通り抜け、体を吹き飛ばす。
音波が餓鬼の周辺の地面を通り抜け、地面をえぐり取る。
餓鬼の体はバラバラになって、水飛沫のように地面に落ちた。
えぐり取られてできた穴の底には、眼球が一つゴロンと転がった。
「さ、さすがです市長!」
「まだでござるな」
崩壊した餓鬼を前に、秘書は美作さかを讃える。
が、餓鬼の生命力は、人間を超える。
バラバラになった体は、それぞれが高速で眼球の元へと集まっていく。
そして、倍速再生でもしているような速度で、元の巨大な体へと戻っていった。
眼球が体の一番上にプカリと浮かび、美作さかの姿を捉えた。
「ジュババババア!」
「ふむ、やはり流動体故、ばらばらにしても死なぬようでござるな。そのうえ、体が小さくなればなるほど移動速度があがるようでござる。やっかいでござるなあ」
餓鬼の瞳に、怒りなどない。
怒りがないということは、美作さかの一撃に対して何も感じていないということだ。
即ち、無傷。
「し、市長ぉ」
情けない声を出す秘書の頭を、美作さかは優しく撫でた。
「問題ないでござる。すまないが、例のあれを取って来て欲しいでござるよ」