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そのLineの事

作者: となりのネクラさん

ある日の事である。空はすっきり澄んで、地上の我々にもその冷たい清浄を届けている。と同時に、穏やかな陽のひかりが慰めを運んでくれる。ときおり強い風が吹いて、まだ冬の日の続くことと、近くのパン工場がクリームパンを焼き上げたことを知らせていた。

堀田君は未だぐらついている。きっと、こう、するだろうと半分以上決めている。それはもう、決まっているのだけれど、もう何割かには、自信のなさ、弱さといったものが顔を覗かせていて、覗かせているがために、ほんのちょっぴり、今日はやめて、明日にしようか、という心もあるかも知れず、とてもかくても候。

女を誘おうとしているのである。否、誘う前の、渡りをつけようとしていた。何と言ってたずねれば良いのか、分からなくなり、もういっその事、だしぬけに抱きついて告白してしまえ、という気にもなり、要するにだって居るのである。あんまり茹だって頭を悩ませているので、見かねた事務所の大先生が、君、根詰め過ぎじゃないかね、ちょっと外の空気でも吸ってきたまえ。僕も一服してくる。そう言うやいなや、もう影も形も見えぬ。風博士さながら、これが大先生のお手並みなのであった。

堀田君は事務所の前の通りを、あの、女の影でも見えないかと最後にもう一度眺めて、さて事務所内の自分の椅子に戻ってきてみると、流石に大先生は良いお知恵をもっていなさる、私よい考えの浮かびましたと、ふたたび、imageしてみる。

からんっ、とドアのなる音がする。女は、保険の外交なのである。入ってきて、こんにちは。先生は、と堀田君に聞く。堀田君は、立って、にこりと笑ったつもり。すぐ、戻りますから、応接で。と生真面目に返事して、案内する。そこからが、始まりである。

「夢を見たんですよね」

「夢?」と女が聞き返す。

「えぇ。河童がね。助けを求めてるんですよ。初めはね、何か、水鳥とカラスのあいの子みたいな声がするンです。水鳥はこう、自転車のブレーキが擦れた時にあんな音を立てますね。プップップッと、高い、摩擦音です。それでカラスはも少し低い。カー、というのじゃなくて、ガァ、に近い音ですね。これのあいのこ。」

「えぇ。」女はまだ、頷いて聞いている。が、腹の底では、今日は何を昼食にしようか、考えている。

「その声は、初めただの鳴き声なんですね。おや、聞きなれない鳴き声だ、と思ってそっちに向かうと、小さな、工場の倉庫みたいな所から、その声が聞こえる。しきりに聴こえてくる。どうも言い争うような、口々に話すような、ざわめき。

倉庫は扉が閉じて、鍵もついている。けれども隙間が空いています。たいてい、こういう扉はぴしりと隙間なく閉まることは無いものです。」ここで、堀田君はまた、女を見た。

「それは、中が気になりま、すね。」女は、左耳から抜けていこうとした言葉を何とか捕まえて、返事をした。あくびを噛み殺して、言い切った。

堀田君は頷いて、「えぇ。私も気になったので、近づいて、覗き込みました。」

「覗き込んだと思ったら、間近に、得体の知れない顔がにゅっと覗いたので、驚いて、後ずさりました。すると、倉庫の中でも、何かが倒れたか、崩れたかした音がします。もう一度、そうっと覗き込んでみると、あちらも、そうっと。」

「あらま。」女はもう、爪を弄るのにも、枝毛を探すのにも飽きた様である。堀田君はしかし、幸いにも、女を見ていない。

「しかし今度は、何とか、目を逸らさずにおりますと、河童の方も何とか、踏ん張ったような風情です。河童の足と、足の間には、また河童。肩車をして、僕の方を見て居ります。

その、後ろには、まだまだ、いっぱい居る。立ってるの、座ってるの、何かどつきあいをしているのと、ぺちゃくちゃ、お喋りしているのが、ちらっと。それで間近にいるふたり、肩車したのは、何かこちらに向けて言っておりますが、ちっともわからない。首をかしげていますと、河童がね、なにか差し出している。真ん中を潰した紙コップです。これが扉の隙間から出てきて、私の手は自然とこれを拾っている。引き寄せると抵抗があって、これがコップの底に糸のついた、つまりは糸電話をしようというのですね。

その紙コップを耳に当てるなり、河童は言いました。

「ハロー、人間世界。聞こえますか?」私は今度は紙コップを口に持ってきました。少し、へんな臭いがします。

「聞こえます。何です、それは。」

「ふむ? これが一般的な、人間世界の挨拶と聞いたのですけれど。」

この挨拶から始まって、異文化交流というものを試みました。河童は挨拶をする時には、どんな相手でも、「よぅ。」という位で、それは何か式典があったり改まった席でも、長々とおしゃべりはせずに、この「よぅ。」だけで済ませてしまうそうで、人間の挨拶らしきものが分からなかったというのです。私はいくつかの挨拶を教えました。


君たち河童は、川の中に居るものでは無いのか、またどうして、そんな暗いところに居るのかね、と聞けば、私達はこれから売られるのだ、どうせ売られるのなら、よっぽど良い環境にして貰わなくては、と売主をだまくらかして、最上級の部屋を用意させている、と答える。河童にとってはこの暗くて狭くて、雑然と汚い、すきま風の通りそうなこの倉庫が、最高であるらしい。のです。

「しかし君たちは、元々川の生き物ではなかったかな」

「それあ僕らは元々人間だからね」

驚いて私は河童の顔をまじまじと見つめました。その時初めて、私はおやと思いました。何か、デジャ・ヴを感じたのです。それが思い出せはしないかと思って、目を見開いて見ていると、

「ようやく気づいたか。仙川だよ。下は、谷野だ。」

その河童は、確かに、私の高校生時代の同級生なのでした。見れば、奥で格好つけたポーズで目を瞑って立っているのは稲山だし、座って何かを一心不乱に読んでるのは古谷です。どつき合っているのは赤川と捨石、ぺちゃくちゃおしゃべりしているのは、沼田と穂高です。なんということでしょう。私の同級生が、河童になっている!

私は目眩がしたように思いました。炎天です。季節はいつの間にか、夏なのです。しかし暑さばかりでめまいがしたのでは、ない。


「うっかり、河童になってしまってね。」

「この、超うっかりさんめ!」私は涙声でした。なんということだろう。こうなってしまっては、私には手も足も出ないのです。仙川は、優しい声で言いました。

「何、君も、ぼんやりしているとこうなってしまうのだ。だから、僕らは君を呼んだんだぜ。いいかい、良く、聞くんだよ──」しかしその時、糸電話の糸が、ぷっつりと切れてしまいました。河童になった仙川は、人間にもわかるほど愕然とした顔をして、


それで、目が覚めたんです。」


見れば、もう女は居ない。堀田君が話している最中に大先生が煙草から戻ってきたのだ。女はそれを見るや、大先生の腕に絡ませて、とっくに事務所の外に出てしまっていたのだ。



ふうっと、堀田君は息を吐き出した。やはり、長すぎる。小説じゃないのだから、とっとと話を進めて、綺麗な糸を彼女から貰わなくてはならないのだけれど、どうしてもその想像が出来ない。

と、そこまで考えて、いや、むしろ小説にするのだ、と思い当たった。もう少し余計なところを削って、展開させるのだ。よし、と猛然、堀田君は取りかかった。積み上がった仕事はそのままにして。


時計が十二時を打って、同僚達は皆、昼食を摂りに、席を立つ。中には、堀田君を誘う声もあるが、聞こえていない。またか、と、慣れた同僚達、からんっ、とドアを開けて、行ってしまう。「堀田君は?」「今日は、アレだよ。」


事務所の内は、急にしんとした。堀田君は、一心不乱に、書いている。ぴん、と糸を張ったような空間に、ペンを滑らせる音だけが響いて震える。

そこにまた、からんっ、と音がした。「こんにちは。」落ち着いた声音である。例の、女であった。堀田君は気づかず、まだ、書き続けている。いつものように、先生は、と聞こうとした女は、その、ぴんと張った空気に気がついた。

女は、手近の椅子に腰を下ろした。そうしてあとは、静寂を破らないように、堀田君をじっと、見ている。



堀田君は、まだ、気がつかない。

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