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賽の河原  作者: yaasan


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6/6

願う男

 「……で、組を抜けるのか」


 深夜のファミレスで斉藤さんは表情のない顔をして正面に座る俺を見ていた。

 俺はごくりと生唾を飲み込んだ。


「組、抜けてどうするんだ?」

「い、田舎に帰ろうかと。妹とも長いこと会ってないし……」


 ふん。

 斉藤さんは面白くなさそうに鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまう。

 俺は何を言えばいいのか分からず、そのまま黙っていた。やがて斉藤さんが口を開いた。


「なあ、ハジメ、俺が斉藤でお前の名前がハジメ。合わせて斉藤(はじめ)だ。いいコンビだと思ってたんだけどな」


 斉藤さんが何を言っているのか分からず、俺は愛想笑いのつもりで引き攣った笑みを浮かべた。


「何だ、ハジメ、新選組を知らねえのか? どんだけ馬鹿なんだよ?」


 はあとばかりに俺は頷いた。


「でも斉藤さん、俺の名前は橋爪ですよ?」


「あ? 下の名前は?」


「……昌也です」


「あ? てめえ、殺すぞ。それで何でハジメって呼ばれてるんだよ!」


「いや、分からないっす。誰かがハジメって呼び始めて、それを皆が呼び出して……」


 殺されてはたまらない。慌てて言った俺の言葉に斉藤さんは天を仰いで見せた。


「何だ、その話? ハジメ、てめえは馬鹿か。普通は否定するだろうがよ。俺の名前じゃねえってよ」


「すんません。あだ名みたいなもんかなって」


「馬鹿野郎、どんなあだ名なんだよ?」


 何だかよく分からなかったが、取りあえず謝って頭を下げる俺に斉藤さんは大きな溜息をついた。それを見て俺は頭を下げたままで上目遣いに斉藤さんを見た。


「あ、あの、斉藤さん、抜けるにはやっぱり、小指とか飛ばすんでしょうか……」


「あ? てめえの腐れエンコなんているか、馬鹿。いつの時代の話だよ。組には適当に言っておくから好きにしろ」


「ほ、本当ですか!」


 てっきり小指を飛ばすなり、ボコられるなりを覚悟していた俺は、安堵のあまり笑みが溢れてしまう。


 その俺の顔を見て斉藤さんは再び表情のない顔となった。瞬時に俺の背筋が凍りつく。


「だがよ、二度と新宿には戻ってくるな。お前の破門状が出回るんだ。他の組に出入りするのも論外だぞ。下手すりゃ、ボコられるじゃすまねえからな」


「は、はいっ!」


 俺は背筋を伸ばして、返事をする。


「こいつは前別だ。持ってけ」


 斉藤さんはそう言って財布から抜き取った数枚の一万円札を俺に握らせた。


「てめえにヤクザは向かねえんだよ。どこかで刺されて、早いうちに死ぬのが目に見えてる」


 まあ、そうなのだろうなと俺も思った。斉藤さんは知るはずもないが先日、実際に刺されて死にかかったのだから。


「まあ、いいや。達者でやれや。俺はどこかで野垂れ死ぬんだろうからな。お前はど田舎で、俺の分まで静かに暮らせや」


 斉藤さんはそう言って少しだけ笑った。

 

 ……いや、俺の田舎はそれほど田舎じゃないんだけど。

 珍しく斉藤さんが笑う顔を見ながら、俺はそう思うのだった。





 部屋のチャイムが、ベッドの中にいる俺に向かって来客を告げていた。辛うじて覚醒した俺は日曜日の今日、妹とその子供、俺にとっては姪が部屋に来るの思い出した。


 部屋のドアを開けると、今年六歳になった姪が頬を膨らませて立っていた。


「昌也兄ちゃん、遅い!」


 いきなりそんな言葉を浴びせられた俺は、救いを求めて姪の背後にいる妹に視線を向けた。妹はそんな俺に苦笑を返す。


「まだ寝てた? 休みの日なのにごめんね。この間から今度の日曜日には、お兄ちゃんのところに行くって聞かなくて……」


「いや、別に構わない」


 俺たちがそう話している間に、姪は早くもワンルームの部屋に上がり込んでいた。そんな姪の後ろ姿を見ながら、俺の部屋なんて子供が遊ぶような玩具もないし遊びに来ても面白くないだろうと俺は思う。それでも姪はこうして時々、俺の部屋に母親とだけではなく、時には父親も連れて遊びに来るのだった。


 部屋に上がった姪は玄関の俺と妹を振り返って無邪気な笑顔を浮かべていた。


「愛菜、今日はお医者さんセットを持ってきたんだよ。愛菜、お医者さんするの上手なんだ」


「……そうか」


 視界の中でお医者さんをするのが上手だと得意げな愛菜の顔と、あの時のあいなの顔とが不意に重なった。


 俺の中でいつかの記憶が蘇ってくる。

 

 ……刺されて死にかかっていた俺を助けた、あいな。


 生まれてから楽しいことも大して知らないままで、あの時のあいなは死んでしまっていたのだろうか。きっと、そうだったのだろう。


 それでも、虐待を受けてもやっぱり母親のことが好きで、死んでからも母親に会いたがっていたあいな。

 死んでからも、鬼に虐められるのではないかと怖がっていたあいな……。

 そう思うと、俺の口で苦い味がゆっくりと広がっていく。

 

 俺は服の袖を捲り上げて、そこに視線を落とした。子供の頃に受けた痣などは綺麗に消えている。だが、煙草を押しつけられた跡だけは消えるはずもなく、今もそのまま腕に残って

いた。


 あの時、あいなの手足にも殴られたような痣に混じって、これと同じような跡があった。今、横にいる妹の手足にもこれと同じ傷がいくつか残されているはずだった。そんな俺だから、余計にあいなのことを思い出してしまうのだろうか。


 ……あれから十年。

 あの時のあいなはどうなったのだろうか。

 あの若い男が言っていた生まれ変わりとやらをもう済ませているのだろうか。


 ならば、今度こそ虐待なんかとは無縁なところに生まれていてほしかった。それが俺の純粋な思いだった。


 虐待を受けて親に殺された子供。そんな子供が生まれ変わっても、普通の子供が受けるはずの幸せを再び享受できないというのならば、そんな世界は糞すぎると俺は思うのだった。そんなことがあっていいはずがないと思うのだった。


 今、俺の前で屈託なく笑っている姪の愛菜。偶然にも名前が同じだっただけで、あの時のあいなが生まれ変わったのだと思うのは、流石に都合がよすぎる。


 でも、それでも俺は時々、でもと思ってしまうのだった。


 裕福ではないが、人並で幸せな暮らしをしている妹夫婦。そんな夫婦に大切に育てられている愛菜。


 本当に生まれ変わりがあるのならば、生まれ変わったあいなにも、これと同じくらいの幸せを感じていてほしかった。


 姪の愛菜がいま浮かべているこの笑顔は、おそらく俺や妹にも、そしてあいなにもなかった笑顔だ。だからこそ、生まれ変わったあいなには、この笑顔を浮かべていてほしいと俺は願うのだった。


 あの夜からはそれなりだが全うに生きてきたつもりだ。だがそれまではどう考えても、ろくでもない生き方をしてきた俺だ。


 そんなろくでもなかった俺が願ってしまうと、かえって逆効果のような気もしてくる。だけども、それでも俺は心から、あいなのために願うのだった。

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