水に浸かる男
「勘弁して下さい。お願いします。勘弁して下さい……」
今にも消え入りそうな声で、若い男はそう何度も繰り返していた。
暦は一月後半。東京で一番寒いと言っていい時期だ。そんな寒い時期の夜中に、水が張られた風呂に肩まで浸っていれば、嫌でもそうなるだろうと俺は思っていた。
若い男の顔面は既に蒼白だった。蛍光灯に照らされた唇の色は、気味が悪いぐらいの紫色に変色している。そして、凄い勢いで歯をカチカチと鳴らしていた。そんな様子の男を見て、まるでカスタネットみたいだなと俺は思う。
もっとも水に入っていない俺でさえ、歯の根が合わない寒さなのだ。だから、若い男がこんな状態になってしまうのも無理のない話だった。
水の温度は何度ぐらいなのだろうか。俺はそんなどうでもいいことを考えていた。
「あ? てめえは馬鹿か。謝ってほしいんじゃねえんだよ。金を用意しろって言ってんだ」
その言葉とともに、兄貴分の斉藤さんが若い男の頭を叩いた。小気味よい音が狭いバスルームの中で響く。
続けて若い男の首が九十度に折れる。そしてその勢いで、蒼白となっている顔面が水に浸かってしまう。さっきから何度となく繰り返されている光景だった。
「おら、まだ死ぬんじゃねえよ」
斉藤さんは若い男の茶色い髪の毛を掴んで、彼の顔を水中から引き出す。
最近のホストは総じて髪の毛が長いから、こういう時は便利だなと俺は場違いの感想を抱いていた。
ホストの若い男は二十一歳になる俺の一つ上、二十二だと聞いている。同世代だし可哀想だとも思う。もしかすると俺の記憶にないだけで、この新宿歌舞伎町で顔を合わせたこともあったかもしれない。
だが、可哀想だと思うだけで助けるつもりはない。俺も斉藤さんと一緒で今は「やる」側なのだ。「やられる」側ではない。
俺は今年三十五歳になるという斉藤さんの横顔に視線を向けた。斉藤さんは茶色の髪を掴んで、若い男の頭を前後に揺すっていた。薄ら笑いを浮かべている斉藤さんの顔に、俺はいつものように軽い恐怖を覚える。
「ごめんなしゃい、勘弁して下しゃい……」
最早、若い男が発する言葉も不明瞭となり始めていた。
若い男はただそれだけを消え入りそうな声で繰り返すだけだった。
斉藤さんは呆れたような顔で俺を見た。
「ハジメ、駄目だな、こいつは。もう面倒だから殺すか」
斉藤さんは感情が全くこもっていない声で淡々と言う。俺はどう言葉を返していいか分からず、はあとだけ言って頷いた。
「何だ、はあって? お前も殺しちゃうぞ?」
珍しく斉藤さんは少しだけ戯けたように言うと、再び若い男の頭を叩く。
「おい、たかが二百万の回収で、人を殺さなくちゃならない俺らの気持ちを考えてみろ」
斉藤さんは掴んでいる茶色の髪を前後に激しく揺すり始める。
「お前から二百万回収できたところで、うちの組に入るのはたった四十万だ。四十万のシノギで結果、人を殺すんだぞ? 何とも悲しい話だろうがよ! あ? どうなんだ?」
すいましぇん、ごめんなしゃい。そんな言葉を若い男は力なく繰り返すだけだった。
「おい、謝るな。金を作れって言ってんだよ。お前の客が飛んだんだろう? だったらお前が金を払うのが筋だろうが。たかが二百万だ。マグロ漁船にでも乗れって言ってんだよ」
「ごめんなしゃい、ごめんなしゃい。許して下ひゃい。もう金を借りられるところなんてないんでしゅ。マグロ漁船なんて乗れましぇん……」
辛うじてそう言った若い男に対して、斉藤さんの苛つきもピークに達しつつあるのが俺には感じられた。俺自身にしても、寒いから早く終わらせたいとの思いもある。真冬のバスルームの馬鹿みたいな寒さに、これ以上の我慢ができそうもなかった。
一方で、人が死ぬのを目の前で見るのは初めてだった。だから寒気と同時に、それに対する恐怖や拒否感も俺の中で生まれ始めていた。
斉藤さん。
俺の兄貴分だった。組では荒事専門で、人を痛めつけることに関しては容赦がなかった。頭のネジが外れているのだろうと俺は思っている。現に組の連中も斉藤さんにはどこか一歩引いていて、関わりになりたがらない節が伺えた。
「もういいや、どっちでも。面倒だからお前は死ね」
斉藤さんが言い放った時だった。ワンルームマンションのドアが勢いよく開けられる音がした。
俺は何事かと背後を振り返った。斉藤さんも、とっさに身構えている。
現れたのは派手な感じの二十代前半に見える若い女だった。女は水風呂に浸かっている若い男を見ると、悲鳴のような声を上げた。
「まーくん、まーくん!」
駆け寄ろうとした女の顔面を斉藤さんが殴りつけた。
ぎゃっ。
そんな言葉を残して女は後方に倒れ込んだ。
斉藤さん、全くもって容赦がないと俺は改めて思う。
「うるせえぞ、女! お前は誰だ? あ? この男と一緒に殺すぞ!」
斉藤さんが倒れ込んだ女を恫喝する。
女は殴られて血が溢れる鼻を抑えながらも上半身を起こした。男はといえば、既に意識が朦朧としているようだった。歯をかちかちとさせながら、ゆらゆらと水に浸かった上半身を前後に動かしている。余りに寒くて、とうとう頭がおかしくなったのかもしれない。
「まーくん、まーくん!」
「うるせえぞ、この野郎!」
斉藤さんが再び拳を振り上げると、女はびくっとして身を縮こませた。
「おい、お前は誰だ?」
斉藤さんは拳を振り上げたままだった。
「彼女、まーくんの彼女です」
「あ? この腐れホストのか?」
鼻を押さえたままで女は二度、三度と頷く。それに合わせて彼女の金色に近い茶色の髪が大きく揺れる。
「こいつは客の飛んだ金が払えないんだとよ。だから、これから殺されるんだよ。あ? ぐだぐた言ってると、お前も一緒に殺しちまうぞ!」
斉藤さんの怒声が飛ぶ。
「払います! 私が払います!」
「あ? 二百万だぞ。お前、そんな金があるのか?」
「ないです。ないですけど、何とかします! だからまーくんを助けて下さい!」
女が必死に頭を下げている。
見た目からしてだが、頭が悪い女だなと思う。何をしている女なのかは知らないが、どうせ飲み屋や風俗嬢なのだろう。
これでやばい筋からの金を借りることになるのだ。そして頭が悪いとすれば、今後もこの女がその世界から抜け出せなくなる確率はかなり高くなってくるはずだった。
まあ正直、この女がそんな世界から抜け出せなくなったところで、俺にとってはどうでもいい話なのだが。
「そうか、お前が払ってくれるのか」
女の言葉を聞いて斉藤さんは笑顔になる。何とも言えない、嫌な笑顔だった。
そして背後を振り返ると、冷水に浸かっている若い男の頭を何度も叩く。若い男はその都度、力なく首を折って顔面を水面につけることになっていた。
「よかった、よかった。なあ、よかったな」
何がよかったのか、誰がよかったのかは知らない。そんな斉藤さんの嬉しそうな声が狭く、馬鹿みたいに寒いバスルームの中で響き渡るのだった。




