俺を振った聖女様の言うことには
むずかしい話ではないのでのんびりどうぞ
ああ…苦しい…うまく…呼吸ができない。
俺は、死ぬのかーーー?
もう腕をあげる力もない…
まあ…でも、仕方ないか…
カムイは重たい瞼を持ち上げる事もあきらめて暗闇の中そんなふうに思っていた。
今じゃ国中の人間がこの正体不明の疫病に苦しんでバッタバッタとぶったおれて命を落としている。
平民であるカムイも例に漏れず疫病患者のお仲間入りだ、現在町医者の隣の広間に臨時で増設された医療所の病床で死にかけ中だったりする。
そんな人生諦めモードだったカムイはふいに身体中に温かい何かが注がれ身体がふわっと軽くなっていくような感覚を覚えた。
あ〜…俺これ死んだっぽいとカムイは思う。
だって何だか閉じてる瞼の先に眩い程の光を感じるのだ。
天使様のお迎えだろうか?
そうだとしたら…どんなお姿かひと目見てみたいーーー
カムイはゆっくりと重たい瞼を持ち上げる。
その開いた視界の先に映ったのは
神秘的な黒の瞳を揺らし黒く長いストレートの髪を垂らして何かを必死に伝えようとしている美しい天使の姿だった。
カムイとその天使の間に黄金の光がゆらゆらと瞬いてパチパチと星の欠片のような光がいくつも弾け飛び消え失せる。
「天使…様?…どうしてそんなお顔を?」
せっかく天界よりお迎えにきてくださったのなら
どうか笑顔を見せて欲しかった。
そんな事を考えていたカムイの耳に天使のはっきりと透き通った声が降り注ぐ。
「カムイ…あなたパン屋のカムイでしょ!?」
名前を呼ばれた瞬間、カムイは目をパチパチと瞬いた。
この神々しい光を纏った天使様に名を覚えられている…そして名をよばれている感動だ。
目尻に熱い何かが込み上げた。
「は…い俺はパン屋の…カムイ…カムイ=コルク…です天使様」
さっきまで呼吸もままならず声なんて発せなかったカムイがそう告げると天使はその瞳を揺らして口端を上げて笑った。
「カムイ…貴方は絶対に死なせない!!
あなたはこんなところで死ぬ様な運命じゃない!
生きて絶対幸せになる人なんだから!」
その直向きな意志の強い眼差しに射抜かれたようにカムイの心臓がドクンと大きく波打った。
途端に身体が楽になっていく、
それと同時に視界がはっきりとして頭もスッキリしてきた。
そうしてカムイはようやく気付く、目の前の天使に羽は無くて、服装は神聖な白と青の神官服を着ている。
気がつけばカムイは引き寄せられるように動くようになった己の手を目の前の少女へ伸ばしていた。
そっと触れた頬はパン生地のように滑らかで指の腹で人撫ですれば柔らかい。
「あなたの名は?」
瞳をパチパチと瞬いた少女はカムイの手をゆっくりと掴み自身の頬から離すとニコリと笑った。
「アリス、聖女アリスよ。
この世界を救いに来たの」
それをうっそりと夢心地で聞いたカムイの口から自然に言葉が溢れ落ちた。
「アリス、好きです。俺と結婚して下さい」
それを聞いたアリスは屈んでいた上体を起こして声をあげた。
「え、展開はや!!てゆうかごめんなさい、無理です」
カムイは秒で振られてションとまた生気を無くしかけた。
「ああ、ええっと〜とにかく貴方の身体はもう大丈夫!私行かないと、まだ苦しんでる人達が沢山いるの」
カムイは周りを見渡し一瞬で我に帰った。
「すみません!俺!こんな非常時に」
「いいえ、気にしないで、貴方は悪くないと思う…ええっと、そう、全て疫病のせいです」
そう言ってアリスは照れくさそうに笑い
気合いを入れるように自分の頬を両手でパチンとうち真剣な瞳で奥にいる患者を見据えた。
「よし!生かす!!」
カムイはその凛とした頼もしい背中を見つめ
はう!と自分の心臓を鷲掴んだ。
カムイの心臓がバクバクと音を立てていた。
カムイはこの日死にかけて一日のうちに二度も恋に落ちたのだった。
元気になったカムイは諦め悪く暇さえ出来れば
アリスが治療に回る場所へ駆けつけ差し入れと言って店のパンを渡した。
アリスはいつも喜んでくれたが
カムイのように命を救われ彼女を慕う人間が多過ぎて毎度カムイが彼女に近づくのは至難の業だった。
そして、ついに周辺の町の患者全ての治療をすませたアリスがカムイのいる土地を離れる時がきた。
カムイはもう、一度振られているしアリスを困らせたく無かった事もあり自分の気持ちを抑えていつものようにパンの入った袋をそっと差し出した。
「聖女アリス様…貴方には感謝してもしたりない…
俺の様な下町のパン屋に笑いかけてくれて嬉しかった…本当にありがとう」
するとアリスは袋を受け取るでもなくカムイの服の袖を僅かに掴みカムイにしか聞こえない声でささやいた。
「カムイ、貴方はそう遠くない未来、パン屋から転身して若き豪商になるわ。必ずよ。
その時がきたら、運命の人を探すの。名前はデイジー。オレンジ色のドレスを着た蜂蜜色のおさげの女の人よ、いい?忘れないでね」
カムイがぽかんと口を開けて固まっているとアリスはカムイの手からパンを受け取った。
「ありがとうカムイ、貴方のつくるパン大好きだった」
アリスはかけていき元気よく手を振り
カムイに最後にそんな言葉をつげて去っていった。
カムイの恋が終わりを告げた。
だけれど、カムイはアリスの言葉がずっと忘れられなかった。
異世界からきた神聖なる聖女のお告げだからだろうか。
それとも惚れた女に忘れないでとお願いされたからだろうか。
とにかく、あの未来予知のようなアリスの言葉をカムイはずっと引きずっていた。
十七歳のカムイは肩まである赤茶色の髪をいつも一つで束ねていて黒い瞳の三百眼が男前でカッコいいと下町ではかなりの人気ものだった。
カムイ目当てで若い娘がパン屋に通い
店の閉店を狙ってお姉様方がカムイを出待ちするような事もある程モテた。
だがカムイは言いよるどんな女性にも心を惹かれなかった。
みんなデイジーと言う名では無かったから、なんだろうか、それはカムイでもよくわからなかった。
「なあおやじ…パン屋から若き豪商に成り上がるにはどうしたらいいと思う?」
「はあ!?お前何をアホなことぬかしとる
下町のパン屋の息子は下町のパン屋にしかなれんわ」
カムイはテーブルに置いてあるパンを一つ取り二つにちぎり分けながら呟いた。
「だよな〜、俺もそう思うんだけど…あの聖女様のお告げでさー」
「なんだと!?聖女ってまさか、あの救世主の聖女アリス様か!?」
カムイの父親はすごい形相でテーブルから乗り出して聞き返した。
「そう…だけど?」
え?何?とカムイは父親と目を合わす。
「…精霊神の使いとして降り立ったあのお方のお告げともなれば…あながち…いや、しかし…」
「おやじ?…」
カムイの父親は腕組みしたままじっとカムイの瞳を見つめた。
「…お前の命は聖女アリス様によって生かされた命だ、お前が本気であのお方を信じてその道を一から開拓したいと思うなら、お前に一人紹介してやれるツテがある」
「…マジでいってんのかよ?店の後継ぎはどうするんだよ」
「はあ?そんなもんお前なんぞはじめっからあてにしてないわ!俺の店舐めんなよ、この店の2号、3号出したいって弟子もいるんだ、本店の主になりたいやつだって普通にいるわ。寧ろ血が繋がってるから当たり前のように継げるとか思ってんなら今すぐ出て行け!」
「本当にいいのかよ」
「だからこっちは紹介してやるっつってるだろうがこのポンコツクソ息子が、パン屋になるのか、豪商なんてなんのレールもない道突き進むんかお前で決めれ」
カムイは父親の真っ直ぐな瞳を逸らさずに両手にちぎり持ったパンを勢いよく口に放り込んだ。
むしゃむしゃごっくんと飲み込んでコップの水を一気に飲み干した。
「はー…うまい!うちのパンは死ぬ程うまい!」
「たりまえだ、もっと噛みしめて食えバカが」
どガン!!と音を立ててカムイはテーブルに額を叩き付けて両手も同時にテーブルにつき声をはりあげた。
「やってみてぇ!俺、商いなんてなんもわかんねーけど、ずっと頭から離れないんだ!その道を親父がこの店作ったみたいに開拓したい!おれにチャンスをくれ」
「下さいだろうが」
「下さい!!」
カムイの父親が深い溜息をつきカムイはそれに反応してビクリと肩をゆらした。
すると、ほんの僅かな間を置いて
大きな手が伸びてきてカムイの頭に乗っかった
くしゃり、わしゃわしゃっと
カムイの髪をぐしゃぐしゃにしながら頭をなでくる。
カムイがずっと尊敬してきた王国一美味しいパンを作る魔法の手だ。
「わかった。明日連絡とってやるからサネロス国で手広く商いをしている俺の知人の下で働いてノウハウ全部叩きこんでもらえ、その先はお前次第だ」
カムイはテーブルに額を擦りつけたまま起き上がれなかった。
父親の手が頭にのっているからだと心で言い訳しつつ瞳を揺らす熱いものが流れ落ちてしまわないようにカムイはきゅっと唇をひきむすんでいた。
そして、カムイは父親のツテで商いの道へ進んだ。
それから二年、右も左もわからない所から売買の知識、交渉取引の手腕、物を見る目を養った。
自分もまだ見た事の無かったもの、世に出る以前の素晴らしい品々がこの世には御宝の様に数多の数存在し、なおも新たに増え続けている。
それらはまるでカムイに早く早く見つけてくれと世に出る事を待ち望んでいるかのようにカムイを突き動かした。先見の明というのだろうか、時の流れを読み、先を見通し判断する力、商人に一番必要な感性をカムイは持ってうまれたようだった。
新規マーケットの開拓は新商品のパンを開発するのと似ているとカムイは思うのだ。
ちょっとしたアイデアをもとに後はコツコツ地道に改良を重ね続ける。そうしてかけた時間が新しいものを生み出していく、幼い頃からその過程をずっと見てきたカムイは粘り強く、コツコツと足を運び探求する忍耐強さを父親の背中を見てしっかりと受け継いでいた。
独立して半年後ーー
「親父、新しい小麦のパンの売れ行きはどうだ?」
「チッ、まあま好評てとこだ〜な」
「うっそつけ!店前の長蛇の列みりゃ明白なんだよ!」
「はあ!?てめーの流した新種小麦使う前からこちとら繁盛しとるわ!アホか!」
「バカ言え!うちのパンが元々死ぬほど美味かったのは認めるが客の列が2割増えてる!寧ろ俺目当てで来てた客が去った事考えたら3割以上が新種小麦のおかげと言える!」
「そのだーれも知らんかった小麦使って世界一うまいパン開発して流行らせてやったのは誰や?
王室御用達のパン職人に勝るお貴族どもの舌を唸らすパンがてめーに作れるかよ」
「作れん!」
「わかったなら俺の代わりに国王陛下から爵位貰ってこい。なんかくれるらしいが俺はいらん。王城へ行くとかめんどくさい。お前がかわりに貰ってこい」
カムイの父はちょっとそこまで買い出し行ってこいと同じようにそんな言葉を投げて来て、カムイは口を開けて「…は…はあーーーー!?」と
まあ、絶叫するしか無いわけで、
偉大な父はどこまでいっても追い越せない高い壁なのだとカムイは痛感するのだった。
独立して一年後ーー
隣国フィリーネ国の第二王子に聖女アリスが嫁いだという話を国民皆が耳にした年、
新種の小麦や国内外の小麦菓子の輸出入を生業に規模を拡大し急成長を遂げた若き商人の立ち上げた商会とその商人の名前は国内には留まらず近隣諸国まで名を馳せた
半年前までは爵位を持たない平民不勢と揶揄され苦い経験を積んだこともあったカムイは父親の代わりに賜った男爵位を存分に役立てさらに高みを目指していた。
それはそんな道すがらの出会いだった。
カムイは一人の令嬢に出会った。
宝石や宝飾品の売買を生業とする代々歴史ある家系の子爵令嬢だ。
カムイは宝飾品が出来上がる過程で残った宝石の欠片を合成して新たな合成石として再生する技術を売り込みに来ていた。
自らが一から職人を選りすぐり引き抜くよりブランドの知れた有力な商家に技術のみを提供して財を得るそんな商いごとの話をしに訪問した先で応接間に通され子爵と話しをしていた時だった。
ノックも無しにガチャリと扉を開けてカムイの前に一人の女性が現れたのだ。
オレンジ色のドレスの端をぐしゃりと持ち上げ蜂蜜色の髪をおさげに編んだその女性にカムイは釘付けになる。
会ったことはない…まったくの初対面なはずなのに何故か無性に目が離せない。
この女性…を俺は知っている…?
そんな気になっているカムイの目の前までズカズカとやってきて鈴の鳴るような声で彼女が話し出す。
「お父様ー!見てくださいまし!
また新たなデザインを考えつきましたわ!
まるでブーケの様に華やかで繊細なデザイン
きっと花の名前を持つわたくしのもとに花の精霊が舞い降りて描かせたデザインなのですわ!
ほらお父様!みてみて」
呆気にとられるカムイの前で目を閉じてふるふると震えながら顔を真っ赤にそめる子爵の怒りが爆発した。
「このバカ娘がーーー!
客人の前で何をさらしとるんだ!なぜノックも無しに勝手に入ってくる!?なんだそのシワシワのドレスは!?なんでそうお前はガサツなんだ」
「え〜??だって今日これ着ろって言ったのお父様でしょう?わたくしワンピースの方がやっぱり性に合ってますわ、動きやすいし外にスケッチに行くのにも最適ですのに、お父様がお客様が来るから今日だけは〜って言うから」
「それをそのお客人の前で暴露するお前の神経はどうなっとるんだ!?もうこれ以上にどうしろというんだ!!長女なのに最後まで行き遅れたお前にどうにか良い嫁ぎ先をと根回しする親の気持ちをことごとく踏み躙りおって」
ほろほろと泣き崩れる子爵を見てもカムイの気は彼女から逸れる事が無い、
ずーっとなんかひっかかったモヤつくこの気持ちはなんだ?カムイはついに覗き込むようにして彼女を見つめ出した。
その視線にようやく気付いた令嬢は目をぱちくりとさせてカムイと視線をまじあわせた。
「あの…わたくしの顔に何かついてます?」
「…右の頬に黄色の絵の具が…」
「あらやだ、ふふふっ」
茶目っ気のある眼が三日月を作り可愛らしいピンクの舌先が僅かに口元から覗く。
白い指がぴっと頬に着いた絵の具をなぞりさらに頬に広がった。
きゅう〜っ、とカムイの胸を締め付けるこの感情をカムイは既に経験済みだ。
そして全てが重なり合って、ようやくカムイは核心に迫る。
「あの!御令嬢、よろしければ貴方のお名前をお聞かせ願えませんか」
「あら、これはご丁寧に…」
彼女がニッコリと笑ってまたドレスの端をぐしゃりと持ち上げた。
「ルージアス子爵家が長女、デイジー=ルージアスですわ」
「デイジー…子爵…令嬢…オレンジのドレス…
蜂蜜色のおさげ…デイジー…君が俺の…」
惹きつけられるようにカムイは立ち上がってデイジーの前に片膝をつく。
「デイジー嬢、貴方を一目みて恋に落ちました
貴方はまごう事なき俺の運命の相手です
どうか俺と結婚して下さい」
自然に求婚していた。
そうするのが当たり前のようにカムイはデイジーの手をとり手の甲にキスを落とした。
「え?名前も知らない人と結婚とか嫌です」
デイジーがバッサリと断りカムイはまた秒で振られた。だが、今度のカムイは以前とは違った。
次は逃してなるものか!とカムイの瞳がキラリと光る。
彼女が探していたデイジーで
聖女様の言っていた運命の人なのだ
だからここで諦めるわけにはいかない。
カムイはスクッと立ち上がり今度はデイジーの両手を握って詰め寄った。
「俺の名前はカムイです。カムイ=コルク、最近男爵位を得たばかりですがお金は死ぬ程持っています!我がコルク商会はまだまだ成長段階ですが俺は世界に名を馳せる豪商になります!必ずです」
ぽっかーんと口を開けて目の前で熱烈アタックをうけている娘を見る子爵がハッと我に戻り声をあげた。
「喜んで!!よろこんでその求婚お受けいたしますコルク男爵殿」
先に落ちたのは父親のほうであった。
「はあ?ちょっとお父様、求婚されたのわたくしなんだけど…」
「うるさい!いいからお前は早くはいといえ」
「えー、でもわたくしお金とか別に興味無いですし、スケッチブックとペンと絵の具さえあれば…」
デイジーの言葉に食い気味でカムイが迫る。
「スケッチブックいくらでも買います!ペン何ダースだって特注できます!絵の具はどこのブランドですか?デイジー嬢のお気に入りを全色手にいれましょう」
デイジーの喉がこきゅっと小さくなった。
多分デイジーしか聞こえてはいないけれど…
そんな様子を見て後もうひとおしとカムイは薄く笑った。
「ではまずはお互いを知る所から、婚約ならば如何でしょう?」
「う〜〜ん」
悩む娘に子爵が呆れたように声をあげた。
「デイジー、デイジーお前カムイ殿が今どれだけ人気があるか知らんのだろ?毎日机にかじりついて宝飾のデザインばかり描いているから…」
「ほう、デザインを…」
カムイは子爵の言葉でそう言えばさっき何かデザイン画を持っていたような…と徐にテーブルに置かれた紙を手にした。
「あら?ご興味ありますか?髪飾りのデザイン画ですのよ、新作なんです」
「…この刻印は…ちょっとまってくれ!!これ、君のデザイン?君がデザインした宝飾にこの刻印を入れているの!?」
カムイのその質問に答えたのは子爵だった。
「おや、お目が高い…まさかご自分で気づかれますとは」
「こんな所に…隠れていたとは、『宝石姫』世界の王侯貴族が喉から手がでるほどほしがってやまない宝飾ブランド、そのデザインを手掛けていたのが君なのか?」
「あら、嬉しい、わたくしのブランドをお知りなんて、まだほんの数ヶ月前に市場に出たばかりですのに」
「勿論知ってるさ、我が国の王太子妃ユリアナシンフォニア様の王太子妃としての初のお披露目といえる外交の席で一際注目を浴びた髪飾り、ユリアナ様の美しい髪に眩いほどに美しく映えたその髪飾りにそこにいた全ての貴族が息を呑んで目を見張ったと聞く
俺はその場に居合わせる事など出来なかったから必死に情報を集めた、でも『宝石姫』というブランド名とそれを記す刻印にたどり着くのがやっとだった…」
カムイはデザイン画を持ったままその手に力を込めてしまいくしゃりと紙が音を立てた。
「カムイ様?」
デイジーが
私のデザイン画くしゃってしないで、と眉を顰めた。
カムイはハッと我にかえってすぐ力を弱めて謝罪した。
そして手に持ったデザイン画を皺がないか確認して
からすっとデイジーに手渡した。
「…素晴らしいデザインだ。君のブランドはこの先更に世間に広く知れ渡るだろう…っ…」
商人であるカムイにとって、デイジーが『宝石姫』のデザイナーだと知れたのは幸運な事だった。
だけれどデイジーに恋をしたカムイにとってはその真実は崖から突き落とされたかのような不幸な知らせとなってしまった。
カムイは悲壮な顔つきでデイジーの指先に触れた。
そうして、僅かな望みをかけてもう一度口を開いた。
「デイジー嬢、先程の婚約者から…と言う話取り消させて下さい」
「まあ」
デイジーはデザイン画を口元につけカムイを目を丸くして見つめた。
子爵は衝撃でまたも口を開け広げ今度は真っ青になっている。
「ただの婚約者では、俺は貴方を…君を奪われてしまう。デイジー嬢、これから君のブランドが名を馳せるにつれ必ず君個人を欲する者が現れる。
子爵家以上の貴族が競って君を手に入れようとするはずだ、そして、子爵家は立場上その申し出を断れず婚姻を結ぶ他無くなる、そうなった時、男爵位の俺じゃ太刀打ちも出来ない」
カムイの話を耳にした子爵が生き返ったように前のめり眉間に皺をつくる。
「いや…カムイ殿、それは些か考えが過ぎるのでは…」
「いいえ、ルージアス子爵、私の見解では必ずそうなる、貴族も商家も今デイジー嬢の事を探し回っている情報が少ないのはおそらくは子爵がデイジー嬢をうまくお隠ししていたのでしょう、ですがそれも時間の問題。数ヶ月としないでどこかの貴族に目をつけられるはずです。」
「おおお、なんと…嫁入り先を探し回っていたというのに今度は選ぶ側に…このデイジーが?」
少し嬉しそうな子爵とは裏腹にデイジーは真顔でカムイに問いかける。
「それで、カムイ様は私に何か言うことがございますのでしょう?」
デイジーが僅かにカムイの触れている指に力を込めた。
それに勇気を貰ったカムイは真っ直ぐにデイジーの瞳を見つめた。
「俺は君を誰にも奪われたくない!
やっと君をみつけたのに、運命の相手を得られないなんてごめんだ、俺は最底辺の爵位しか持っていない、それだって父親から代わりに受けたものだ。
結婚して君に与えてやれるのは何不自由の無い暮らしと俺の愛情、あとスケッチブックとペンと絵の具!後世界一うまいパン!それだけ…」
聞きながら子爵もデイジーさえも爵位以外全部揃っているように思う…が、静かにカムイの話を聞く。
「俺以上に持っていて、君に与えられる男が近い将来現れるはずだ、それはわかるんだ…だけど俺は君が欲しい…君のブランドなんかどうでもいい」
「はあ?どうでも!?」デイジーが何?と聞き返しカムイは慌てた。
「あっ、違う、いや、違わないけど…つまり〜
俺は君自身に惚れたの!わかる?ひとめぼれなんだ
だから君が『宝石姫』のデザイナーじゃなくても好きになって求婚するって事!だから今俺を選んで欲しい、君に選ぶ権利を与えない俺はずるい、と思う
だけどお願いだ!結婚して!」
切羽詰まったカムイのプロポーズは貴族の殻さえ被らないただの商人のカムイが懇願するように告げた辿々しいものだった。
だけれどその言葉はしっかりとデイジーの心を突き動かした。
「貴方のプロポーズをお受けいたしますカムイ様」
花が咲くようにデイジーが微笑んで
子爵はおおお〜と手を叩いてボーゼンとしている。
カムイは目元を赤く染めて瞳を揺らしながら呟いた。
「嘘だろ…こんなめっちゃくちゃな求婚なのに
本当に?」
「ええ、だってここで貴方を逃したらわたくしどこぞのわたくしなんか全く興味なくてただ「宝石姫」を得たいだけの方に捕まってしまうのでしょう?
ならばカムイ様とさっさと婚姻したほうがいい事くらいわたくしでもわかりますわ、それに…
貴方は「宝石姫」なんかどうでも良くって…わたくしが欲しくて、結婚したら愛してくれるのでしょう?」
カムイから顔を逸らしたデイジーが耳から首まで真っ赤にしてそんな事を言うものだからカムイは抱きしめてしまいたい衝動が走りデイジーの肩の横で両手を広げ
横からジーっと見てくる子爵の視線に気が付いてサッと手を下げた。
「もちろん!もちろんです。貴方と言う花に毎日愛情という名の水をそそぐと約束します」
「貴方とかデイジー嬢とか、君とか、呼び方が定まらないのも落ち着かないのでわたくしのことはどうぞデイジーとお呼び下さい、未来の旦那様」
「じゃあ俺の事はカムイと!限りなく近い未来の奥さん」
「…どんだけ近い未来でしょうか?」デイジーが軽い気持ちでカムイに問いかけた。
「お、義父様が良ければ今日、明日にでも」
お伺いをたてるようにカムイが子爵の方を見る。
「えええええ!?式は?」
何の準備も出来んがなと子爵もビックリである。
「もちろん行います。先に書類上でのみ早急に手続きを済ませ式はゆっくりと準備をするのはどうでしょう?」
「なるほど」それを聞いて子爵も納得した様子だ。
「え〜、わたくしガヤガヤしたの好きじゃないから式なんかしないで書類だけで…」
「「ダメ!」」
カムイと子爵が見事にハモってデイジーは、おおっと。とたじろいだ。
その後、デイジーは約束どおりカムイに大量の画材をプレゼントされカムイの父のパンを会う度に餌付けのように与えられた。
カムイの予想は的中してカムイとデイジーが婚姻した数週間後に過去にデイジーとの婚約話を断った貴族が「宝石姫」欲しさに子爵家に再申し入れしてきたりそれ以上の高爵位のお貴族まで子爵家に足を運んできたがカムイと既に婚姻していると知り皆が一様に悔しがった。
カムイはデイジーと二人で暮らす為に王都で屋敷を購入した、それほど広大では無いが一等地で治安がよい土地に国内一の設計士に設計させた小規模ながらセンスの光邸宅を建てスケッチ好きのデイジーの為に温室やガゼボのある庭園もつくり少数でも有能で人柄の良い使用人を雇い入れた。
そうしてカムイは休日には自ら調理場に立ってパン生地を捏ねて焼き出来立てのパンを持ってデイジーと庭園でほのぼのと過ごすのだ。
「ねぇデイジー、運命て信じる?」
「わたくしは運命なんて信じないわ、見えないものに縛られるなんて窮屈だもの」
「デイジーらしいね。でも俺はデイジーと真逆。
運命を信じてるし、見えない繋がりに心惹かれる」
「カムイはロマンチストよね」
デイジーがカムイを揶揄うように笑った。
「なんとでも」
カムイは反撃するように口角をあげてデイジーの手の甲にキスをする。
デイジーの頬が紅く染まった。
「…オレンジ色のドレスに、蜂蜜色のおさげのデイジーって子が俺の運命の人なんだって」
「なにそれ〜…どこの誰に言われたの?」
カムイはデイジーの手の指に自分のそれを絡めギュッと握ってデイジーの唇を食む。うっとりと二人見つめ会う中カムイが掠れた声で答えた。
「俺を振った聖女様…」
デイジーの瞳だけがパッと見開いた。
カムイはそんな事気にもしないでデイジーの唇をうっとり見つめてもう一回…とか考えている。
「あら、貴方が運命を感じた人は私だけではなかった。ということね…うふふ」
デイジーはカムイの頬をニッコリと笑って引っ張った。
その後カムイは存外妻に愛されている事を知るのだが、切りのいい所なのでこの辺で一人の運命に身を委ねた男の話はおしまいにしようと思う。
とりあえず、今日も今日とて、彼は幸せだ。
おしまい
読んで下さりありがとうございました。