さよならなんて、言わないで
「ソウ様! 朝でございます!」
あの楽しかった会食から早五日。ついに私が官学へ行く日が来てしまった。
部屋の外ではいつも通り、トモエが私を起こそうと声を上げている。
「ソウさっ……!」
「――――お早うトモエ」
襖を開けると、まだ寝ていると思っていたのか、彼女は幽霊でも見たかのように目を見開く。まあ、私はいつも寝坊助だったから仕方ない。
「お早うございます。朝食の準備が出来ております」
いつもなら、まだあどけなさが残る笑顔を私に振舞ってくれるのだが、今日の彼女は少し悲しそうだ。
「分かった。今行くね」
――――廊下。いつも歩く縁側。中庭の風景。少しうるさい鹿威し。池に落ちる水の音。
そのどれもが愛おしく、そのどれもが遠い存在に感じる。
「お早う、ソウ」
「おう、起きたか」
父と母が朝の食卓に揃っている。なかなか見られない光景だ。父のコウは毎朝モソモソ食べているが、母は仕事柄、早めに家を出ているからだ。
「お早うございます。父上、母上」
ふかふかの座布団に腰を下ろし、目の前に並ぶご飯に視線を落とす。
白米に味噌汁。淡く色づいた鮭の塩焼き。その他にも小鉢がたくさん並び、その様はバイキングさながらだ。すっかり朝は米派になってしまった。
「いただきます」
味噌汁を口に含む。程よい熱さで、すんなりと喉を通るいつもの味。
次に鮭の身をほぐして口に運ぶ。絶妙な塩加減で、舌の奥で鮭の塩気が強く染みつく。しかしお米を入れてあげれば、二つは絡むように口の中で溶け合う。
「美味し」
あっという間に、机上の皿が心寂しげに重なっていく。まだ、もう少しだけここに居させてほしいのに。
「ソウ様。官学へ参る籠が来ました」
縁側を歩いて来たユキメが、静かにその声を居間に響かせる。
「――――早いものだな」
父がモゴモゴと咀嚼しながらつぶやく。手に持った茶碗の中に、その視線を注いだまま。ただただ静かに、そうつぶやいた。
「さあ、早く行かないと遅刻するわよ」
「そうだぞ。初日から遅刻すると恥ずかしんだぞ」
父と母が笑う。いざ離れるとなると、この二人の存在があまりにも大きかったのだと気づく。
「…………うん」
そうしてユキメの後ろを付いてゆき、ギシギシと聞きなれた音を響かせながら、亀のように縁側を歩く。
「またすぐに会えます。そのような顔はしないでくださいまし」
前だけを見ながらユキメがそう言った。三十年前はあれだけ広かった背中も、今では私一人背負えば一杯一杯に見える。
「うん」
「お休みを貰ったら、私も会いに行きますね」
「…………うん」
駄目だ。何も言えない。言いたくない。言わないといけないはずなのに。
気づけばもう、私は玄関の前にまで辿り着いていた。――――ワラジを履くと、門の前に待機している駕籠が目に入る。
今日はもう開けない玄関を出て、心にかかる靄を膨らませながら、官学へと続く道を踏む。
「ソウ! 頑張って来いよ」
――――振り向くと、玄関の前には父と母、そしてお手伝いさん達が、縁側で泣きながら私を見守っていた。
「ソウ。しっかりご飯食べるのよ」
「……うん」
母の声。――――言わないと。
「風邪ひいたら、すぐ先生方に言うのよ」
「…………うん」
言わないと!
「――――ソウ様っ」
ユキメがぐっと肩を抱き寄せる。そして、涙で湿ったその声で、私に優しく囁きかける。
「悲しい言葉は、いりませぬ」
「うん…………ッ」
私は走った。父と母の元へ。――そして強く抱きしめる。私の腕に二人は収まらないけれど、それでも精一杯強く抱きしめた。
「父上、母上」
こういう経験は初めてだったから分からなかった。でも別に、さよならは言わなくていいんだ。いつも通りで、いいんだ。
「――――行ってきます」
頭上から鼻をすする音が聞こえる。顔を埋めているから見えないが、その複雑な音から分かることは、たった一つだけ。
「……うむ。気を付けてな」
「ソウ、行ってらっしゃい」
再び私は走った。今度はユキメの元へ。
「――――ソウ様」
ユキメのお腹だ。この三十年間、ずっと一緒にいたから分かる。この匂い。この抱擁感。この温もり。
「……行ってきます」
「はい。行ってらっしゃいませ」
そうさ。今生の別れではないのだ、そんなに苦しい物じゃない。だってそうだろ。いずれまた、ここに帰って来るのだから。
「ソウ様!」
――――駕籠に乗ろうとすだれをめくりあげた時、言語を絶する表情で、ユキメが声を上げた。
「……お体に、お気を付けて」
深々と頭を下げるユキメ。感情こそは見えなかったが、私を送り届けるその声は、とても力強いものだった。
「ありがとう。ユキメもね」
――――さあ。これで私も前に進める。お世話になった人たちにお礼も言ったし、これまでの六十年間をしっかり脳に焼き付けた。もう十分すぎるほどに。
そして駕籠に足を入れ、頭が入りきるその瞬間まで、お世話になった我が家の光景を、確とこの目に映し続けた。
――――それじゃあ、私の大好きな故郷よ、また帰るその日まで。
ご愛読ありがとうございます!
遂にソウも学生です。




