陽はまた昇る
「ねえヤチオちゃん」
「なぁに?」
黄色く染まった葦原の、その美しい山々に囲まれた神都西ノ宮。そして、その街から少し離れた場所には、小川の神を祭る社が佇んでいる。
その殿内は、陽の光がよく差し込む造りとなっており、二柱がくつろぐ居室の中を、勿体ぶることなく照らしていた。
「結婚って、どうすれば出来るの?」
恋焦がれる乙女のように、ナナナキは茶机に上半身を預けて彼女に問う。するとヤチオは、思ってもいなかった質問にお茶を噴き、大いに咳き込んだ。
「きゅ、急にどうしたの?」
「いやね、ナナナキもそろそろ身を固めたいなぁって思って」
彼女が抱く切なる想いに、ヤチオは小さくため息を吐く。
「らしくないこと言わないでちょうだい」
「だってさぁ。最近のヤチオちゃん、なんだかとっても楽しそうなんだもん」
するとヤチオは、こぼしたお茶を丁寧に拭き取りながら、「あのね」と言って言葉を始めた。
「結婚て、確かに響きは良いけど、大変なのよ?」
「そうなの?」
「ええ。だってその相手と、悠久の時を共にするのよ?」
「いい事だと思うけどなぁ。寂しくなさそうだし」
「そうね。でもそれは、誠に愛する相手と居て、初めてそう思うの」
人差し指を立て言いながら、彼女はナナナキに、慎重さという物を植え付ける。それは、ナナナキの為を想っての言葉。
「そうなんだ」
「そうよ。考えてもごらんなさい。好きでもない神と寝食を共にして、楽しいと思う?」
彼女の問いかけに、ナナナキはしばし空を仰いで考える。そして少しの沈黙の後、彼女は首を横に振りながら言う。
「思わない」
「でしょぉ? だから、気の早い結婚は駄目よ。しっかりとよく考えてから、ナナナキも縁を組みなさい」
ここまで真摯にヤチオの話を聞いていたナナナキ。ところが、彼女は一つだけ気に掛かった。彼女のその口ぶりと、やれやれと言わんばかりの表情を見て。
「…………もしかしてヤチオちゃん、後悔してる?」
彼女の鋭い質問。するとヤチオは、小さく眉間にしわを作った。だがその次に放たれた言葉は、ナナナキの予想をはるかに上回った。
「そんなわけないでしょぉ!」
目を細め、口角を三日月のように吊り上げると、彼女は煙を払うような動作をしながら否定した。そして頬を僅かに赤く染め、彼女は言葉の続きを述べ始める。
「だってオクダカ様はお優しいし、頼もしいし、面白いしぃ」
「うんうん」
「私の手料理を美味しそうに食べるお姿は、ほんっとに尊いの!」
「そうなんだ」
両手を頬に添え、ふにゃふにゃと身をよじらせながら笑むヤチオ。だが対するナナナキは、面白くなさそうに頬杖をつき、適当に相槌を打っていた。
それでもヤチオの惚気は止まらない。
「あとね! この前なんか、私に美しい小刀を送ってくださったのよ!」
「へぇ」
「でね、その時、オクダカ様は私に何て言ったと思う?」
鬱陶しい質問にため息を吐きながら、ナナナキは何も考えず答える。
「君の心も、この刀身のように美しい。とか?」
するとヤチオは、オクダカの真似をしているのか、精一杯声音を重くして。
「お前の為に作らせたんだ。これならどんな物でも一刀で断ち切れる。ですって!」
「なにそれ」
「きっと悪い縁を切ってくれる神剣なのよ。まあでも、そんなのも問題にならないくらい、オクダカ様は頼もしいのだけどね」
冷めた茶を口に流し込みながら、ナナナキは真っ赤に染まったヤチオの顔を眺めつづける。
「あぁんっ、私、今すぐオクダカ様に会いたいわ!」
ヤチオはそう言って立ち上がると、まるで首輪を外された犬のように、脇目も振らずナナナキの社を出て行ったのであった。
そして独りポツンと取り残された彼女は、茶飲みに新しいお茶を注ぎ、ぽつりと小さく言葉を零す。
「ああならないように気を付けなくっちゃ」
***************
西ノ宮の都から、さらに北方へいった所に位置する大都。そして、そこからまた少しだけ北上すると、盆地に集まる小さな集落が見える。
「結舞月」
しょうしょうと降り積もる雪を眺めながら、一柱の男神が白い息を吐く。
「アラナギ様」
縁側から雪化粧を眺めていた結舞月は、彼の言葉に振り返る。閉じ切った目元を楽し気にし、あまつさえ口元も綻ばせながら。
「今年もよく降るな」
「ええ。きっと村の子供達も、今ごろ大いに燥いでいる事でしょう。うん」
「ああ。そうだな」
結舞月の隣に座り、その身を静かに寄せるアラナギ。すると結舞月も、まるで暖を求めるかのように、その身を彼の体に預ける。
「ここに住所を構えて正解だった」
「はい。とてもお美しい所です」
「お主の好きな海が無いのは、少し残念だが」
「海が恋しくなったら、連れて行ってください」
「無論だ」
会話に一区切りがついたところで、アラナギは袖に仕舞い込んでいた腕を出し、着物の袂から何かを取り出す。
「結舞月、お主に送り物がある」
「ほえっ。わ、私にですか?」
目を皿のように丸くして、彼女は預けた頭を持ち上げてアラナギの方へと顔を向ける。
「ああ。少し向こうを向いていてくれないか」
「う、うん」
彼の言う通りに、結舞月は体をずらして背を向ける。すると。
「えっ、な、なな、なにを?」
「いいから」
アラナギは、結舞月の髪を留めていた簪を抜き取って、その雪のように白い髪をくしで梳かし始める。
それには彼女も驚いたが、しかしアラナギは手を止めず、さながら流れる水のようにクシを入れ続ける。
「痛いか?」
「いえ、丁度いい塩梅にございます」
「うむ」
そうしてアラナギは、風に乗って四方へと散る髪をまとめ、それを慣れた手つきで結い始めた。そして最後、彼は団子状に仕上げた結髪に、黄金色をした髪飾りを優しく入れる。
「アラナギ様。これって」
「すこし恥ずかしいが、俺からの贈り物だ」
結舞月は、手渡された手鏡を食い入るように見つめては、何度も何度も角度を変える。
「とてもお綺麗です!」
「そうか。よかった」
軽く頭を振って、髪飾りの装飾を揺らしては嬉しそうに笑む結舞月。アラナギは、そんな彼女の姿を見て、どこか安堵したようにため息を吐いた。
「結舞月」
「はい、なんですか?」
アラナギは、彼女の頭に手を添えて、微笑みと共に言葉を囁く。
「お主に、出逢えてよかった」
すると結舞月は、その閉じ切った瞼から涙を滲ませ、薄っすらと両頬を赤く染めた。
「はい……はい。私も、同じ心にございます」
「ふふ、そうか。やはりお主は…………」
「――――おい兄貴ッ」
彼の言葉を遮るように現れるアラナミ。何ともタイミングの悪い登場に、二柱は呆れた溜め息を吐く。
「なんですか」
「山の麓で大熊が出たってよ! 狩りに行こうぜ!」
さながら子供の様に燥ぐ弟へ、アラナギはじっとりとした視線を送る。
「独りで行ってきなさい」
「それじゃあ詰まんねえよぉ。…………そうだ。なら結舞月も連れて行こうや」
「馬鹿者。彼女を危険に曝す気か」
「別に龍が出たわけじゃねえんだ。俺たちが付いてれば安心だろ。なあ結舞月」
頑なに動かない兄の説得は諦め、彼は結舞月へと視線を移して言う。すると彼女も、まんざらではない様子で…………。
「そうですね。たまには、アラナギ様が剣を握っている姿も見たいです。うん」
「だよなぁ! ここ最近、包丁ばっかし握りやがってよ」
前後から攻められたアラナギは、一つ小さく鼻で笑うと、終にその口元を綻ばせて見せた。
「栓ないな。結舞月が申すのであれば」
「よっしゃぁ! ならさっさと行くべ!」
ぎらぎらと目の玉を照りつかせ、息を荒くして玄関へと向かうアラナミ。
そんな彼の後ろ姿を見て、結舞月は優しい笑みのまま笑う。
「うふふ。誠に賑やかですね。アラナミ様は」
「あぁ。全くだ」
そうして三柱は、冬眠することが出来なかったと言う大熊を退治すべく、しかし、まるでピクニックでも行くかのような心持で、雪の降りしきる外へと出向いたのであった。
****************
「なぁじじい」
「なんじゃ」
天の世界。そこは一切の危険が排除された楽園であるが、だがそれでも、限りなく本来の生態系に近付けた世界。
そんなジオラマの様な竹林の中で、二柱の男神が湖に糸を垂らしている。
「女が喜ぶものって、何だと思う?」
「そういうのは、アラナギに聞くのが一番じゃろ」
「でもアイツ、天都にいねーし」
「あぁ。そうじゃったな」
水面に小さく波を立てるウキを眺めながら、彼らはぼうっと会話を続ける。
「ヤチオは料理が好きだから、包丁なんかが良いと思ってるんだが、どう思う?」
「オクダカ。一口に包丁と言っても、その種類は様々じゃぞ」
「マジで?」
「おう。肉を切る包丁に、骨を断つ包丁。中には魚を捌くことを目的とする物もあるそうじゃ」
それを聞いたオクダカは、今まで知りもしなかった事実に肝を抜かれる。
「そんなにあんのかっ?」
「気を立てるな。魚が逃げる」
「おっと、すまねえ」
カナビコの言葉によって冷静さを取り戻し、彼は一つ深呼吸を挟んで息を整える。
「じゃあ、三挺いるってことか」
「いや、それだけでは駄目じゃ」
「まだ何かいるのか?」
「考えても見ろ。肉を切れば油が付くし、骨を砕けば刃も欠ける」
その言葉をヒントにしたオクダカは、指を一本ずつ折りたたみながら言う。
「てことは、奉書に打ち粉、油と砥石もいるな、それも三挺ぶん」
「じゃな。しかし三本ともなると、手入れが大変じゃぞ」
「とてもヤチオだけでは熟せないだろうな」
「一本で済めばいいんじゃがなぁ」
その瞬間、まるで稲妻に打たれたかのような衝撃が、二柱の脳天を直撃した。
「てことは…………」
「…………刀じゃな」
「肉も切れるし、骨も断てる。魚なんて一瞬でバラバラに出来るぜ!」
「うむ。護身用にもなるし、おまけに、手入れも一振りだけで済む」
斯くして一つの結論に辿り着いたオクダカは、こうしてられない。と言わんばかりに、釣り道具をせっせと片し始める。
「やっぱアンタに聞いて正解だったぜ!」
「礼はいらん。その代わり、良い刀を贈ってやれ」
「ああ! 鍛冶屋に葦原イチの名刀を造らせるぜ!」
まるで、曇り空が晴れたかのような顔ばせで、オクダカは大手を振ってその場を去ろうとする。
だがしかし、ここでカナビコが一つの違和感に気付く。悶々と、自身の内側にて引っかかっていた疑問。果たして、これで正解なのか。…………と。
「まてオクダカッ!」
「な、なんだよ」
「刀じゃと、ヤチオ殿には尺が余るゆえ、鍛冶師には小太刀を造らせよ」
オクダカは目を丸くする。それはまるで、遥か長い時をかけ、難問の計算式を解したかのような顔。
「それもそうだ!」
「っふ。分かったら、さっさと行ってこい、小童」
「ああッ、かたじけねえ!」
そうして、うきうきと走り去るオクダカの背を、カナビコはしてやったり顔で眺めながら、小さく笑みをこぼした。
「デカくなったのぅ」
***************
場所は変わり、天界の中心。月が沈み、東の空が白け始めた有り明の頃。
二つの季節がぐるぐると巡る天都では、今日も欠伸が出る程の一日が始まろうとしていた。
「まて苔乃花ッ!」
「ひぃぃぃ!」
天都の美しい町並みは、小鳥のさえずりが五月蠅く聞こえる程の静寂に包まれているが、しかし社の殿内は、まるで祭りの様な喧騒で満たされていた。
「捕まえたッ!」
「やっ、やだ! 離してください!」
長い長い追いかけっこの末、苔乃花は遂に末永岩の手によって押し倒される。
「お前って奴は、何度言えば分かんだよ!」
「一体なにが気に食わないんですか!」
「これだよこれ!」
彼女が指さしたのは、燃ゆるような紅色に染まった自身の唇。
「私が寝てる間に、化粧するなって言ったよな!」
「で、でも、似合っておりますよ!」
「私は化粧なんかいらないんだよ!」
「でもお綺麗です! 麗しいです!」
自らの両目を、すこし潤んだ瞳で真っ直ぐ見つめてくる苔乃花に、末永岩は少しだけ頬を赤くする。
そうして末永岩は、それを隠すかのように立ち上がり、背を向ける。
「言っても聞かないってんなら、もうお前と一緒に月の当番はしないからな。居待月は独りで見ろ」
「そんな! 私は、お姉さまと一緒がいいです! お姉さまと一緒がいいんです!」
「うるせえ。私も今日から、立待月は自分で見るから、お前は来るなよ」
「そんなの承服しかねます! お姉さまがいないと、寂しくて死んでしまいまする!」
末永岩が何度、彼女を突き返そうと、苔乃花はその背中にぴったりと抱き着く。
だが、末永岩も意外と、悪い気はしていないようで。
(かわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいい!)
「駄目だ。そろそろお前も、独りで仕事しろ」
「私はっ、お姉さまと共にっ、月を見るのがっ、楽しみなんです!」
末永岩の袖を掴み、聞き分けのない子供の様に駄々をこねる苔乃花。そんな彼女の仕草を見て、末永岩は。
(かわいいいぃぃ! もう駄目だ。これ以上は愛おしすぎて)
「そ、そこまで言うなら、赦してやらんでもない」
「ホントですか!? やったやったやった」
「そのかわり! もう二度と私に化粧などするなよ!」
「無論です! 勿論です! 当然です!」
夜と朝の境目の時間。明け方とは思えぬ騒々しさであるがゆえに、二柱の駆け巡るような押し問答は、終に一柱の女神を起こしてしまう。
「五月蠅いなッ!」
力いっぱい障子戸を開け、その怒鳴り声と共に現れた女神。
「う、憂月」
「…………憂月姉さま」
「一体何ごとなの! こんな朝っぱらから!」
怒る獣の様な迫力。とても和魂とは思えないその声量に、二柱の姉妹は怖気づく。
「ごめんなさい。私はお姉さまを止めたのですが」
「はぁ!? 苔乃花お前!」
「はいはい、静かに静かに!」
それから憂月は二柱を正座させると、天津神の何たるかを、その骨の髄に染みこむまで説教を続けたのだった。
「…………はぁ。今日は契りを結ぶ日だと言うのに」
説教を終えた憂月は、それによって脳が覚めてしまったがゆえ、至福の二度寝に浸ることも出来ず、ひとりで縁側をのそのそと歩いていた。
「ただでさえ緊張で寝られなかったのになぁ」
ぶつくさと愚痴をこぼしながら、彼女は一つの部屋の前で正座をする。
そして深呼吸。
「あねうえー」
家ほどの大きさはある金襖の前で、彼女は溜めた酸素に声を乗せる。だが、その返事は帰って来ず。
「姉上ー!」
改めて襖の奥に呼びかけるも、しかし跳ね返された声だけが、社の中を悲しく木霊した。
覚える虚しさに息を吐き、今にも爆発しそうなフラストレーションを、彼女は遂に解放しようと身構える。
そして。
「あねぅ――――ッ!」
「憂月様、我が君に何かご用向きでありますか?」
いつも通りの表情、声音、抑揚。別の部屋から現れた津は、何一つ変える事無く憂月に問いかける。
「…………あ、津」
今まさに怒鳴り散らかそうとしていた憂月は、その大きく開けた口をすぐさまつぐみ、どこか恥ずかしそうに彼女の名を呼んだ。だがすぐさま乱れた着物を整えて、彼女は改めて津に向かう。
「ごめん、実はそうなんだけど、全然返事が返ってこなくて」
「心配は無用です。いつもの事ですから」
「そうなの?」
「ええ。時間も丁度良いので、ご覧に入れて差し上げます」
そう言って津は、どこか熟れた様子で首をぽきぽきと鳴らし、襖の手前で綺麗な背座をする。そして口元に手を添えて、声を落とすと…………。
「皇神、日の出です」
刹那、部屋の奥から聞こえてるくるは騒音。何かをぶつけ、何かを落とし、何かを引き裂く音が連続して聞こえてくる。
そうして、その慌しさはそのままに、勢いよく開いた襖の奥から、一柱の女神が姿を現した。
「もうそんな時間かッ」
寝ぐせの目立つ髪を揺らし、夥しい数の汗を額に浮かべる天陽。対する津は、そんな彼女とは正反対の表情で言う。
「いえ、まだ四半刻前でございます」
「なんじゃと?」
「日の出は、まだ少し早うございます」
「じゃが確かに、お前は日の出と…………」
「申し上げにくいですが、斯様なことは一言も」
すまし顔で平然と嘘を吐く津に、天陽は小首をかしげる。
「ところで、憂月さまが皇神に用向きがあるそうですよ」
「なんじゃ憂月」
起きるにはまだ早いと知った天陽は、半開きの目を憂月に向け、欠伸をしながら問う。
「すでに知ってるかもしれないけど、私、今日はじめて神使と契約するんだよ」
「あぁ、お主が禊を担当した子ウサギか」
「子兎じゃなくて白兎。あと名前はユウヅキ」
「そうかそうか。まぁ、頑張るのじゃぞ」
まるで聞こうとしない天陽にため息を吐きながらも、憂月は言葉の続きを話す。
「それで姉上からの助言が欲しいんだけど」
「あのな。余だって血を交わした神使は一人だけだぞ」
頭をぽりぽりと搔きながら、天陽はなんとも気だるそうに言い放つ。
だが、その言葉を聞いた憂月と津は、お互い眉をひそめて顔を見やった。
「姉上はまだ、神使をとってないんじゃ?」
面もちを曇らせた二柱に目を向けられ、天陽はすぐさま、先ほどの言葉を取り繕う。あくまでも言い間違いという事で。
「あぁ、そうじゃったな。さっき見た夢を引きずっとるのやもしれぬ」
どこかさっぱりとしない彼女の顔色に、憂月は何とも言えぬ不可解さを心に覚える。そして対する天陽は、これ以上揚げ足を取られないよう、話題を変えることに。
「そもそも、なぜ神使がおらぬ余に聞くのじゃ。もっと適した神がおろうに」
「んー。こういうのは姉上に聞くのが一番かと思って」
「契約どころか……禊祓すらしたことがないんじゃぞ」
その視線を明後日の方へ放りながら、天陽は僅かに震えた声で言う。かつて、己の目で確かに見てきた過去を、夢とも言えるその未来を、まるで写真でも眺めるかのように思い出しながら。
「それでも、どの天津神よりも一番長生きしてるじゃない」
「生きた年月と知識は、比例せぬものじゃ」
「そう」
天陽から助言を引き出せないと踏んだ憂月は、呆れたように息を吐く。
「じゃあ、他の神をあたることにするよ」
「うむ」
「聞いてくれてありがとう。全然参考にならなかったけど」
そう言ってゆっくりと立ち上り、そして天陽に一礼をすると、憂月はそのまま背を向ける。だが天陽は…………。
「まて憂月」
「なに?」
「血を交わすときは、よく研いだ刀を使うのじゃ。さすれば、傷も早う塞がる」
何かが吹っ切れたかのように、天陽は言葉を並べ始める。
「あと、神使が祝詞を詠んだら、極力会ってやれ。神使との絆は大切にするのじゃ」
「なるほど」
憂月は再び正座をし、彼女の言葉に耳を傾ける。
「だが生意気な口を聞いたら、ちゃんと叱ってやるんじゃぞ」
「ふふっ。大丈夫だよ。ユウヅキはそんな子じゃないから」
憂月の言葉を聞き、天陽はそこはかとない切なさを覚える。
憂月の神使と成る者が、かつて自らが愛した彼女ではない事に気づき。そして、かつて自らが愛した彼女たちは、もうどこにもいない事を思い知らされて。
「…………左様か」
「どうしたの姉上。まるで誰かの事を言ってるみたいだよ」
「いや、夢で見ただけじゃ。忘れてくれ」
「…………そっか。でもありがとう」
「ああ」
憂月が見せた笑み。それを見て、天陽は心得る。全ての者にとって尊いこの世界が、彼女たちが唯一残した遺産である事を。
「じゃあ、行ってくるね」
「憂月」
「ん?」
「確と、愛せよ」
「うん。分かってる」
二度と見ることが叶わなかった憂月の背。自身が知るものより遥かに大きくなったそれを見て、天陽は静かに涙を落とした。誰にも見られないよう、自分の書斎へと戻って。ひとりきりで。
「見ておるか? 主らの代は、誠に美しいものとなった」
愛を知らなかった者たちは、それを始めて知り。
失った者たちは、それを再び取り戻し。
かつて世界を嫌った者たちは、今、この世界で幸せを掴んでいる。
「みな、元気にしておる」
それが彼女たちの世界。人々が求めたがゆえに、与えた代。
世界の末から始まりまでの一切を。それまでに願われたその全てを。自らの存在と引き換えに、彼女たちは成就させたのだ。肉体が消え、その神霊すらも、世界に溶け込んでしまうほどの時間を費やして。
「じゃが…………」
彼女の口から滲み出る言葉。だが天陽は、それ以上を言うことはしなかった。もう何も、望むものは無いと言い聞かせながら。
「さて。そろそろ、日の出かのぅ」
******************
空には誠の日が浮かび、浜辺には背の高い樹木がずらりと並んでいる島国。
葦原とは違い、風通しのよさそうな家々が建ち、斯くして一つの町を形成している。そしてその奥には、ぽつんと佇む古びた社。
「んーんーんんー」
竹ぼうきを握り、参道の掃除に勤しむ巫女装束の女神。
そして透き通るような唄と、その軽快な腕の動きから、自らが生きるこの世界に、何の不満も持っていない事が窺える。
「吾月さまー」
するとここで、拝殿の戸が静かに開き、中から一柱の女神がその名を呼んだ。そしてその声に気付いた女神は、手を止めて静かに振り返る。
「どうしました?」
「お茶を淹れたので、休憩にしませんか?」
その言葉を聞いた吾月は、鳥居の日陰で休む音鳴に目を遣って、呆れたように笑う。
「そうですね。そうしましょうか」
そうして彼女らは、掃除道具を一か所にまとめると、楽し気な会話と共に煎茶を啜る。
陽の光が良く入る広々とした茶の間にて、何一つ変わることの無い日々に、この上ない幸福を感じながら。




