頂、並ぶ月
「あの子らも、逝きましたか」
天都の壮麗たるお社、その一番手前の拝殿にて、天陽の神体に憑いた吾月は、その面持ちを崩すことなく言った。
「悲しいの?」
「そうですねぇ…………」
参道の如し長い階段。私はそれを登ることなく、彼女を見上げて言ってやる。すると吾月は、蒼穹を仰ぎて暫し考え、言葉の続きを語り始める。
「確かに彼女らとは、いと長い時間を共にして参りましたが、左様な心情を抱くことはありませんでした」
「…………そっか」
吾月は、神使に転生する前の憂月から産まれた。その内に蔓延る、四十七の神霊を統べるためだけに。だから彼女は知らないのだ。鼓動も、温度も、何もかも。ただそれだけの為に生まれてきたのだから。
「初めての太陽はどうだった?」
私が問うと、吾月は今度、三日月のように口角を上げては、その憂い気な目元を和やかに綻ばせる。
「ええ、とても美しゅうございましたわ。それに、思いのほか熱くて驚きました」
「でしょ」
「けれどやはり、お姉さまの陽が一番、美しかった。ずっと憧れていましたの」
今になって、ようやく知った吾月の事。
彼女の目的は、陽の元でただゆったりと、日々を励む事だけだった。初めからそうすることも出来たはずだが、しかし彼女は行く道を誤った。
いや、何も知らない彼女だったからこそ、そうする他なかったのだ。ただ不器用に、光を求めて手探りで。
「ねえ吾月」
「なんでしょう」
「貴女はこれから、どうするの?」
吾月は、さながら入り日でも眺めているかのような、その素顔には似合わない切なさを以って呟く。
「そうですね。やり残したこともありますし、末まで足掻いても善いと思ったのですが。いかんせん、御日様を留め置くのにも疲れてきました」
「分かるわぁ、私もそうだったし。それに天陽様の性格だと、今も内側で暴れてるんでしょ?」
「いっひひ。えぇ、それはもう、お元気よく」
変わらずの引き笑いをして見せる吾月。豪快に笑うイメージが強い天陽様の姿では、やはり似合わない笑い方だ。
「ですが蒼陽姫がお見えになってからは、少し落ち着かれた様ですわ」
「…………そ」
それはきっと、天陽様も彼女の事を理解したからなのだろう。幾千もの年月を重ねて、ようやく互いの事を知った訳だ。だから天陽様は、もう少しだけ、その神体を貸すことを許したのだ。甘々だなぁ。
対する私も、彼女に対し、もう何も案ずることが無くなったので、そのまま振り向き、天都を離れることに。
「ん、どこか行かれるのですか?」
「そろそろ彼女らが来る頃だから、私はお暇するよ」
別に吾月の全てを許したわけではない。けれど、それを罰するのは私ではない。私に出来るのは、ただその行く末を見守ることだけだ。
故に吾月は、背を向ける私に何をするでもなく、ただただ健気に頭を下げ、こう言った。
「左様ですか。さらば、お元気で」
そうして私は、彼女の言葉に小手をかざし、元の時間軸へと戻ったのだった。
*************
蒼陽姫が官学を去った後、私達もすぐさま準備を整えて、西ノ宮の社から天都へと向かった。でも、そこで目にしたのは、とても言葉では言い表しがたい景色だった。
「どうなってんだ? なんで神獣がいる…………」
「て、敵はおらぬのか?」
天上にてその体を靡かせる巨龍。そして境内を駆け回る狛犬と、日向でのびのびと欠伸をする狐。まったく。激しい戦に備えて、山でも乗っているかのような気立てで来たと言うのに…………。
「まさかとは思うが、既に蒼陽姫が?」
今、一柱の女神が言ったように、ここに敵兵がいないのは、私も蒼様のお陰だと思った。でもそれが違うという事は直ぐに分かった。なぜならまだ、吾月の神霊が天都に残っているから。
「雨月、何か感じる?」
「うん。まだ、吾月の神霊は残っている」
不安げな眼差しで問うてくるナナナキに、私はそう教えてあげた。そうすれば当然、彼女は震える手を握って怯えるのだが、しかし私は、彼女ほどの不安を抱いてはいなかった。
そう思わせるのは、突如として消えたナナナキの信仰と、それに続くかのように消滅した、苔乃花と末永岩の神霊。
「か、母様は、まだ強いままなの?」
「ううん。もう、心配いらないよ」
急速に廃れた女神たちを鑑みるに、その結論に至るのは間違いではない。そして、それを成しえたのが、蒼様だということも。
「ウヅキ殿、吾月様は、社におられるのですか?」
「はい。きっと彼女は、僕を待っているのだと思います」
「ウヅキ殿を?」
その神経を研ぎ澄まし、猫のように辺りを警戒していた津が、私の言葉に目を丸くした。
何をもってその考えに至ったのかは明確ではない。私はただ、蝋燭のように侘しく燃ゆる神霊が、今なおここに留まっている理由に、その結論を紐づけただけだ。
――――そうして私たちが、兵の殆どを救助活動に割り当て、残った神々だけで社の鳥居をくぐった時だった。
「ようやく来ましたか」
その正面に佇む拝殿の手前にて、吾月がいつもと変わらぬ笑みのままでそう言った。
「まさか本当に、大神の御神体に取り憑いておるとは…………」
「シ、シン殿、如何されるおつもりか?」
数柱の神々が息を合わせたかのように動揺する中、津だけは一切の揺らぎを見せず、彼らにこう言い放つ。
「大神の匂いは僅かに香るが、しかし手加減は無用。首を撥ねるつもりで戦に臨め」
「し、しかしッ、幾ら邪神が憑いておっても、その御神体は皇神の物なのですぞ!」
「加減をしてアレを討ち取れるほど、其方の腕は確かなのか?」
「そ、それは…………」
「――――皆さん、僕に少しだけ、お時間をください」
部隊の後方に配置されていた私だが、しかし居てもたってもいられず、私は吐き捨てるようにそう言って、前に出た。
「まてッ、危険だぞ!」
「よせ」
私を止めようとする男神。だが全て察してくれたのか、津が彼を留めてくれた。
これで邪魔の心配は無くなった。後は私が、この場を仕立てるだけ。
「たった一人で向かって来るとは、見上げたものですね」
「そうかもね。でも貴女とは、一対一で片を付けないと駄目だと思うの」
「ふん。同じ言葉を聞きましたわ。初めて語らった、あの日の夜に」
社へと続く階段上にて腰を下ろし、面白くなさそうに頬杖をついて、私を見下ろす吾月。だから私も、睨むようにして彼女に言ってやる。
「今は違う。あの頃の私は、ただ一人で抱え込んでただけだったけど。でも今の私は――――」
「申されずとも、それくらい理解しています」
私の言葉に被せる吾月。その声色に、いつもの楽し気はなかった。
目的を全うした今、彼女の興味はもう、どこにもないのだろう。私にも伝わって来るから分かるのだ。そのがらんどうの虚無感が。
「そうだよね。でもね、だかこそ分かるの。貴女の気持ちも」
「よもや、此方に同情でもしているので?」
彼女は小馬鹿にしたように嗤い、その苛立ちを隠す。
「だって吾月。今の貴女からは、何も感じることが出来ないの」
「いらぬ世話ですわ」
「あなた自身も、もう分かってるんでしょ? 望んだものが、心を満たす物では無かったということを」
「その口を、お閉じなさい」
「もうやめよ。きっと姉上も、分かってくれてるよ」
私がその一言を発した時、目の前から吾月が消え、それから寸分の差も無く、私の頬に痛みが走った。そしてその一撃によって、私は地面に両手を着いてしまう。
どうやら私は、まだ彼女の全てを知っている訳ではないらしい。
「口を慎めと、言っているのです」
口内を満たす血潮の味に、私の頭は真っ白になった。
死にかけの芋虫でも見ているかのように、冷たい眼差しで私を見下ろす吾月。まるで、いつかの姉上のような眼だ…………。
「ご……ごめんね。私が臆病なばかりに、貴女を苦しませて」
「黙りなさい」
「ごめんね。私がもっと、誰かに頼ってさえいれば、きっと貴女は…………」
「黙りなさいッ!」
「ぁぐっ」
腹部に感じる激痛。まるで刺されたような痛みだが、しかし彼女の苦しみは、こんなものではなかった筈だ。
「今さら詫びて、何になると言うのですか」
全くその通りだ。今になって謝罪したところで、何かが変わる訳ではない。
――――まだ産まれて間もない頃、彼女は私にこう言った。
【何ゆえ、吾月を照らす太陽は、こうも、ほの暗いのですか?】
【私は、嫌われてるから】
そして私と姉上の関係を知った彼女は、私に言った。
【なぜ、もっとお姉さまに対し、物申さぬので?】
【出来るわけないよ。そんなことをすれば、ますます嫌われる】
逃げてばかりだった私に、アナタは心底ウンザリしたのでしょうね…………。
【ですがそれでは、吾月の思う事など通じませんよ】
【分かってる。でも姉上は、もう私の話を聞いてくれない】
【それでは、陽はますます暗くなる一方ですわ。もう、触れることすら出来ぬ程に】
今思えば、あの頃の彼女は、既に、光の断片すらも届かぬ闇に溺れていたのだろう。
私のせいで、私が逃げてばかりだったせいで。
【貴女は困った子ですね。こうなる前に助けを求め、取り除く事も出来たでしょうに】
もう何もかも、手遅れなのだ。
【貴女との問題は、私だけで落着させないと、駄目だと思ったから】
【ふん。いつまでも貴女は、そうやって逃げ果せるのですね】
あの時、彼女が言った通り、私は今日まで逃げてきた。手を差し伸べてくれた者たちさえも、振り切って。ただ言葉で繕うだけで、何も示して来なかった報い。
私は遅すぎた。それでは駄目だと気付くことが。
いや、私だけでは気付きさえしなかったのだろう。
だって、私にそれを教えてくれたのは、他の誰でもない、あなた達だったのだから。
もう、言葉はいらないよね。
「…………分かった。じゃあ、もう終わらせよう」
いつもなら、ここで諦めていた。いや、そもそも私は、倒れた事すら無かった。だから知らなかった。起き上がるという行為が、こんなにも辛いものだったなんて事。
「ふん。此方を相手にして、敵うとでも?」
「そんなの、分かんないでしょ。初めてなんだから」
夕律姫を見て知った。蒼様が、教えてくれた。
そして何より吾月。私は、ずっと貴女の傍にいたからこそ、学んだことも多かった。
…………ずっと、貴女たちに憧れていたから、私は独りで歩けるようになったの。
「ふふっ。そうですね」
「行くよ。吾月」
――――そうして私は、初めて作った握り拳を、初めて誰かにぶつけようと振りかぶった。
「っ!」
「まるで駄目ですね」
当然、そんな不格好なものが当たる訳もなく、たくさん吾月に拳を返された。
でも、内から沸きあがるのは、痛みでも哀しみでもない。この形容し難い感情は、いったい何なのだろうか。
「姉上の拳は、もっと重かったよ!」
「っひっひひひひっ。よく言いますわ」
「いつも負けっぱなしの私だけど、今日だけは、絶対に勝つ」
「その言葉、聞かせてあげたいものですわ」
そうか。私も姉上と、こんな風に喧嘩をすればよかったのだ。
いつも拳骨一つ食らって、私は終わらせていた。でも違った。
もっと、つまらない意地を。もっと、しっかりと真っ向から。
「ッく!」
「当たった!?」
私の拳が吾月に入った。
誰かを殴るのは痛いと聞くが、あれは本当だったのか。本当に私は、ずっと逃げて来たんだな。
「っひっひ。ようやく一発ですよ?」
「五月蠅いな! 初めてなんだから仕方ないでしょ!」
「ですが、斯様な拳では、お姉さまも呆れてしまいますわ」
全くだ。今ごろ姉上も、彼女の中で腹を抱えて笑っているに違いない。
「しかし、まさか貴女と、こうして組み合うことになるとは」
「はぁっ……はっ。確かに、考えられなかったよね」
官学で学んだ格闘術が。私には無縁だと思っていた物が、まさかこんな所で役立つとは思わなかった。
「息が上がっておりますよ」
「ふぅー。体力には自信があったんだけどなぁ」
「ひひひ。また強がりを」
…………それからも、私と吾月の組打ちは続いた。でも不思議と、悪い心地はしなかった。
初めて吾月と向き合ったような気がした。彼女を恐れていたのは、彼女の事を知らなかった故のこと。
なんて不様なんだ。呆れるほどに私は、独りでは何も出来なかったのだ…………。
「はぁッ……いつになったら……たっ……倒れるのっ」
「まだまだ、甘いですわ」
「わ、私だってッ、まだまだなんだから!」
不味い唾液を嚥下して、私は再び拳を構える。もう決して、引き下がらないと強く決めて。
だが対する彼女は、どういう訳か私に微笑んで見せる。まるで、陽の様な暖かさを含んで。
そして囁く。まるで草木が、風に乗って擦れ合うような声で。
「最初からそうであったのならば、此方が産まれる事もなかったのでしょう」
「――――え」
私はそれを聞き取ることが出来ず、思わず聞き返そうとした。でも、彼女は今度、しっかりと芯を持った声音で言う。
「さぁ、来なさい、憂月」
なぜかは分からないが、目の奥が燃えるように熱くなる。私を名を呼ぶその声が、まるで違うように聞こえたからかもしれない。
「もう、終わるんだね」
「ええ。戯けたいがみ合いも、これで仕舞です」
いつも恐れていた。彼女の影を。その深淵に飲まれ、灯りを失う事を。
けれど、今は理解している。彼女も私と、何も変わらないという事を。
『【抜刀】』
そして彼女は望んでいる。
だから私も、彼女に習って、佩いた刀に手を添えた。
『【五月天ッ】』
雲を貫くような金属音。震える刀身と、痺れるような衝撃が全身を駆け巡る。
「いっひひひひッ。存外、善い太刀筋ですね」
「剣術の成績は良かったからね!」
何度も何度も、十重二十重と私達は鋼をぶつけ合う。
怒りも、恐怖も、苦しみも。それら下らぬ一切を、殺し尽さんと物打ちに委ねて。
「【一刀・桜花!】」
「【満ち黄金」
「――――それ私の!」
「ひひ、使える物は、使うものですよ」
流石だ。私の術なのに、私より使うのが上手い。
「欠け月】」
「ぅぐッ!」
ナナナキの神通力。初めてこの身に受けたけど、やはり恐ろしい術だ。でもッ
「まだぁッ!」
「――――ッく」
絶え間なく浴びせられる斬撃をかいくぐり、私は彼女の懐に刃を打ち込む。
が、それも寸での所で防がれた。
「お見事。…………けど」
円を描くように鉾先を返し、彼女の刀を絡め取る。そして弾くように振り上げれば、彼女の刀はその手から離れ、虚空を舞った。
「――――しまった」
そうして私は、そのまま上段で構え、呆気にとられた彼女へと、この刀剣を振り下ろす。
「満ち黄金ッ」
雲に隠れた月のように、淡い光を纏う黄金の結界。それは、まるで障子戸のように、覚束ないものだった。
いや、最初の結界も、欠け月も。どこれもこれも、産まれたばかりのような拙さだった。
「私の、勝ちだ」
私の刀は結界を打ち破ると、そのまま彼女の肩から入り、脇腹へと抜けて行った。
――――初めて彼女と出会った日、私は確か、喜んでいたっけ。初めて、家族のような存在が出来たことに。
でも、時が経つにつれ、次第に忘れていった。その存在の尊さと。彼女の願いを。
もし最初から、私が選択を誤ってさえいなければ、姉上とも、彼女とも、良い関係を築けたのだろうか。
ああ、だとしたら失敗だ。
「こんな事を言うのは、変かもしれないけど」
腹立たしい事に。今、彼女にしてやれることは、ただ言葉をかけてやることだけ。
「今日まで、よく頑張ったね」
陽を浴びるように横たわる彼女に、私は言う。すると彼女は、ただ一つだけ涙を零して、満面に笑む。
「…………ほら、見てください、残り月ですわ」
その視線を辿り、私も空を見上げる。すると、有り明の彼方に浮かぶ、白い月が見えた。まるで太陽に、顔を向けるかのように。
「雨で遮るには、勿体ないですね」
「…………うん」
「ああ……なんと…………美しい月陽ですこと」
こうして、線香花火のように消えかかっていた彼女の神霊は、今、その全てを燃やし尽くした。
彼女を憎まなかった日は無かった。でもそれは、私自身にも言えることだ。結局のところ、彼女も私のせいで狂ってしまったのだ。だとしたら、あまりにも報われない。
「ごめんっ。ごめんね、吾月」
お願いです。彼女の御霊を、どうか、陽の当たる、暖かい所へとお導きください。
どうか、彼女の影を、その輝きを以って照らしてください。




