目を覚ます
目を覚ます。続いて瞬き。息を吸うと脳が覚醒し、次第に音を拾うようになる。すると聞こえてくる。
「ソウ様ッ!!」
鮮明に嗅覚を刺激するのは金木犀。そして伝わる柔さと体温。心音も。吐息も。その片方から流れる喜びも。
「蒼陽姫が御目覚めになったぞ!」
「姫様ッ!!!」
「医者だ! 早う医者を呼んでこんか!」
「た、只今!」
慌しく震える空気が、官学の大広間を一杯に満たす。それには、色んな感情が混じっている。
そろそろ起きなければ。まだ、最後の我が儘が残っているのだから。
「ソウ様! まだ起きてはなりませぬ!」
「ユキメ。苦労をかけたな」
「全くですッ。貴女は一体、私にどれだけの心配をさせれば気が済むのですか! ソウ様が倒れた後、私がどれだけ…………」
涙を散らし、腫れあがったその目で怒る彼女を、私は口付けだけで黙らせる。これが一番の最適解だと理解しているから。
「ごめんねユキメ」
「わ、わわ、分かればよいのです」
力を込めれば砕けそうな肩。私はそっと遠ざける。これから先、もうきっと触れることは無いだろう、その憧れから。
「ソウ様…………?」
「ん?」
だが彼女は気付いた。今現在、私に起きている事象について。だがそれも納得できる。なぜなら私たちが、今日まで共に、築き上げてきたのだから。これから先の未来も、その筈だった。
「貴女は本当に…………本当にそこに、いらしているのですか?」
「うん」
「で、でも。ソウ様を感じることが、できません。それにその髪だって…………」
「――――ユキメ、よく聞いて」
彼女の涙、それは紛うことなき哀しみの。しかしユキメにとって、それが何よりの幸せであることも、彼女は知っている。
だから言わなければならない。
「今日まで傍に居てくれて、ありがとう」
「何を言って…………」
「ユキメの願いは、私の神霊が確と記憶している。故に心配は無用」
「な、何を仰っているのか」
「だから憶えておいて欲しいの、私の事を。それがあの子の願いでもあるから」
その言葉を聞いた時、ユキメの心は大きく揺らいだ。今、彼女の目の前に立つ私が、まるで別れを告げているようにも見えたからだ。だが、それに相違はない。
「ソウ様…………?」
「ユキメ、私はね、貴女に会えて幸せだったよ」
「お止めください。そのような事を申すのは」
「あなたは、水の中に浮かぶ太陽のように美しい人でした」
「――――やめてくださいっ」
「私もユキメを、愛してるよ」
私はそれだけを言って、この身を繋ぐその腕を解いた。私自身の手で。もう二度と戻れぬ場所に、最後の居場所すら抹消するべく。
「今まで、ありがとう」
「嫌だ、行かないで!」
ユキメは私を止めようと腕を伸ばした。だがその右腕は、すでに彼女の心にある。何をどう試そうと、ユキメの想いは、常に我が内にて溢れている。
十分なんて事はないけれど、今の私には、勿体ないんだよ。
「【眠りなさい。龍よ】」
彼女の頭に手を据えて、私は彼女の意識を取り上げる。これ以上、ユキメを悲しませない為に。彼女にこれ以上の不幸が訪れないように。
「姫様…………」
私が彼女に布団をかけた時、その目に涙を溜めた津が、か細い声で私を呼んだ。その頭を、深く私に下ろしながら。
「津、お主にも苦労を掛けた」
「いえ。この津、ずっと貴女様の帰りを信じておりました」
私がうつし世を離れた時、彼女がどれだけ悲しんだか。それも今になってようやく知る。
「そうか。やはりお主は、いと信頼できる腹心だ」
「こ、光栄に存じます!」
この神霊の、いや、もっとその内側から湧き出る安らぎ。しかしそれが、彼女にとってどれだけ酷な事かも理解している。
「津。あの時の約束は、果たせそうにない」
「いえ。私は、我が君が戻られただけで、満足にございまする」
津は本当の気持ちを口に出すことはしなかった。ただただ気丈に振舞い、堪えている。だから言ってやろう。
「津、これが最後だ」
刹那、彼女は面てを上げて、私の懐に駆け込んで来た。
「姫様、お会いしとうございました」
切なげに震える声。今まで辛抱してきたものが溢れてくる。だから私は、そんな津の頭に手を置いて、童のような短い髪を目一杯くしゃくしゃにしてやった。
「お会いしとうございましたっ」
「ああ、私もだ」
神でさえなければ、いったいどれだけ楽なのだろう。この愛を、ただ一人にだけ注ぐことが出来れば、私は一層、そうしたのに。
だが我が儘も言ってられない。あの日から遥か今日までの間、私は聞いてもらっていたのだから。
「すまない津、私は、そろそろ行かねばならぬ」
「…………まさか、天都へ?」
「ああ」
「ならばお供いたします」
津はその目つきを、いつも通りの凛とした物に戻し、そう言ったが。しかし私は、彼女の申し出を断らなければならない。
「いや、お前たちとは共に戦えない」
私がそう言うと、津はおろか、私と津のやり取りをここまで静観していた者たちも、みな一様に口を開けた。
「な、なぜですか! あなた様がいなければ、天都を奪還する道程は見えませぬ!」
「かの者の言う通りです! 大御神がああなってしまわれた以上、我らが頼れるのはもう、蒼陽姫しかおらぬのです!」
「どうかお力添えを!」
全く。天界の神々が聞いてあきれる。しかしまぁ、その気持ちが理解できない訳でもない。不変だと思われていた物が、ああも異質な煌へと代わってしまったのだから。
「我が君、何か策でもおありなので?」
「案ずるな。我らの勝利はもう、決しておる」
否、この戦には、勝ち負けなど存在しない。ただ私は、彼女らを安心させるべく、少し言葉を弄ってそう言ったに過ぎない。
「――――なんとっ、そのような策を既に講じておられたのでございますか!?」
一柱の男神が、その言葉と共に金貨のように目を輝かせると、他の天津神および獣神たちも皆、希望の光が差したかのような顔ばせで互いの顔を見合わせる。
「勝利が決しているとは誠か!」
「と、当然だろう! 我ら陽の元の神々が、闇の軍勢などに敗れるはずが無いのだ!」
「良かった。本当に、良かった!」
羽虫のように散り散りになっていた感情が、一つに収束してゆく。心の安堵に触れる情緒。彼、彼女らの面持ちを見るに、みな私の言葉を真に受け止めてくれたらしい。
けれど、そうならない者もいる。
「蒼様。吾月はもう、前までの吾月じゃない」
「そ、そうだよ! 今の母様はもう、私たちなんか問題にならないくらいの神霊を得てるんだよ!」
憂月と那々名嘉は、他の神々とは真逆の気持ちをもって私に取り付く。なので私は、そんな彼女らを安心させるくらいの余裕を見せ、「だから?」と、問う。すると那々名嘉はたじろいで。
「だ、だからその……つまり……蒼ちゃんだけじゃ…………」
「蒼様だけでは危険だよ」
「なるほど」
確かに彼女らの言う通り、吾月は朝陽の神体に憑き、今では多大なる霊力をその身に宿している。断じて錆び付くことの無い、無意識の信心によって。――だが、吾月は完全に太陽を手にしたわけではない。
「二人とも、私たちは大丈夫だから、どんと頼ってよ」
「駄目。僕はもう、頼りっぱなしは止めたの」
「ふふ、心配しないで。憂月と那々名嘉にもしっかりと働いてもらうから」
するとどうやら、それは予想していなかった返答だったらしく、私がそう笑って片目を閉じると、彼女らの眉根からは一気に力が抜けていった。だが次にはもう、その目に力を込めて言う。
「も、もちろん! 僕たちも当然、諦めていない!」
「うん! ナナナキもそのつもりだったよ!」
「そうか、では頼りにしておるぞ。妹たちよ」
「え?」
「――――津、荒那波は何処か」
目を皿にする彼女らを他所に、私はその神霊を探しながら津に問う。
「は。アラナミと龍狩りは、この大広間を守るべく、今も他の兵と共に岩戸の外で戦をしております」
「やはりか」
アラナミはこの戦に参戦してからといもの、休みなく妖や国津神たちと刀を交えている。私もそろそろ、出ねばなるまい。
「津、行けそうか?」
「は。しかしながら、恐れ多くも君」
「そういうのはよい」
畏まる津にそう言うと、彼女はどこか嬉しそうに、そして切なげに眉根を吊り上げ、引き続きその頭を降ろしながら言う。
「は。ここにいる武弁は皆、心身ともに相当の手傷を負っております故、直ぐに発つのは厳しいものかと」
「構わぬ。奴らの傷は、もう治っておる」
「…………え」
信じられないと言った様子で、津は大広間の隅々にまで目を遣った。すると半信半疑だった表情は一変し、彼女の表情からは、信じられないと言いたげな笑みで溢れかえった。
つい先ほどまで、悪夢を見ているかのように唸っていた天都の神々。手足が折れ、捥がれ、湯気が出る程の高熱に苦しんでいた獣神たち。それはまさに地獄であったが、しかしその全てが、まるで何事も無かったかのように起き上がったのだから。
「ま、まさしく、陽の御業にございます」
口を押えながら津は呟く。だがその愛おしさに現を抜かしている場合ではない。
「お主には兵たちの指揮を頼む」
「畏まりました」
「では、頼んだぞ」
話はこれで終わるかとも思ったが、しかし津は私を止めた。
「…………姫様は、いづこへ行かれるので」
蜘蛛の糸のような細い声。だが袖を掴む小さな手は、決して手離すまいと強く震えている。
「なに、少し離れた所だ。何も心配はいらぬ」
しばしの間、沈黙が流れる。だが私の方からそれを破るつもりは無い。それでは意味が、ないからだ。
「ならば、お待ちしております。姫様の陽が、西に沈みゆくまで、いつまでも」
「ああ、達者でな」
そして私は最後、彼女に視線を戻して言う。
「吾月、お主も誠に強くなった」
「…………うん。どれもこれも、貴女と蒼陽姫のお陰だよ」
「ふふ。口も上手くなったようだな」
「なっ! 私は本当の事を言っただけだよ!」
頭の耳をぴんと立て、その頬に空気を溜める彼女。あの頃とは違い、威風堂々としている彼女を見ると、もう何も、心配はいらないのだと知る。
「そっか。じゃあユウヅキの事も、しっかりと見てあげるんだよ」
「…………うん、分かってる。もう、逃げることはしないよ。だから安心して」
「そっか。良かった」
ううん、知ってたよ。私の知る憂月は、どんな時もそうだったって事は。
それを言葉にしてもよかったのだが、彼の心情を想うと、あまりにも無粋だと感じたのでやめた。
「ソウ!」
私を呼ぶ声。どうやら先ほどの神通力によって、彼女達も目を覚ましたようだ。
「…………ソウちゃん」
「んー? どうした?」
「どうしたじゃないわよ!」
何か言いたげだったユハンを退け、ヒスイは開口一番に私を怒鳴った。けれど、最後に見るその顔は、やはりそうでなくてはいけない。
「一体どういうつもりなのか説明しなさい!」
「あはは、ごめんごめん」
「ふえぇ、ヒスイちゃん、もう少し静かにしてよ」
頬を倉鼠のように膨らませるヒスイと、周りの目を気にしてか、情けない声で注意するユハン。
私はどこか懐かしさを覚えた。だからなのかは分からないが、私は表情筋を萎えさせてヘラヘラと謝る。するとやはり、彼女は顔を赤くさせ。
「許さない!」
「はぁ!? 謝ってるじゃんっ、許してよ!」
「うるさい! アンタはいッつもそう。謝るだけで何も説明してくれない。常世の国から帰って来た時からずっと! だからアンタが心から謝るまで許さない!」
「だから謝ってるじゃんか!」
パチン。と、乾いた音と鋭い痛みが走り抜ける。そしてヒスイは、その目から涙を落として言う。
「だったら何で、私が怒ってるのに、嬉しそうにするのよ」
おかしいな。感情が面てに出るクセは直したはずなのに。
でもね、あたし嬉しいんだ。飛儺火の平定が終わってから、貴女たちとはずっと疎遠になっていたけれど、それでも貴女たちが未だ、私の事を想ってくれていた事実が。
「ごめん」
「いいわ。許してあげる」
「そっか、ありがと。やっぱりヒスイは…………」
「――――でも一つだけ条件がある」
流石は頑固真面目っ子。一筋縄ではいかないか。
「この戦が終わったら、向こう十年、私に甘味を奢ること」
彼女は人差し指を強く私に向けて、しかし寒さに震えるかのような声で、そう言い放った。待ち呆けることなく突き返される結末に、この上ない不安を抱きながら。
だから私も、その心にそぐう言葉を、返さなければならない。それだけの効力を持つ言葉を。…………だが、どれだけ必死に組み立てても、そんな高尚ものは一向に作れなかった。
「ソウちゃん?」
揺らいだ緋色のやるせも無く、私の無言に耐えかねてユハンは呼ぶ。だがそれはヒスイも同じ。
「ソウ。なんで黙ったままなのよ」
「な、何とか言ってよ」
「あ、あのさ、西ノ宮の港で見た海、覚えてる? もう六十年も前の話だけどさ」
無様なすり替え。するとやはり、ヒスイは眉をひそめる。
「今は、関係ないでしょ」
「そうだよ。どうしたのソウちゃん」
そうだよね。急に海の話をするなんて、変だよね。陳腐な純愛ドラマじゃあるまいし。
「でもね、聞いて欲しいの。バラバラになっても、また皆で、あの大海を見に行きたいなって話を。いつか年取って老けたらさ、今日の事も笑い話にしたいなって」
「意味分かんないよ。海なら、また今度にでも見に行こうよ」
「ユハンの言う通りだわ。そんな言い方するの、やめてよ…………」
分かってるよ。でも私はもう、貴女たちとはいられない。全てが観えてしまう今、これから私が向かう所には…………。
だからと言って、これまでに嘘を吐きたくはない。もう、これまでの事を、輪の外の他人だと言い張りたくはないんだよ。
「あー、ごめんごめん。変な言い方だったね」
「訂正しなさいよ」
「えー、面倒くさいよ」
「訂正しなさい!」
「んー、嫌だ」
するとヒスイは、重ねて私に張り手を食らわせようと、作った平手を高く振りかぶる。
「ソウッ、アンタって奴は――――っ」
だが、その震える左手が、それより先に進むことは無かった。誰が止めたわけではない。非常になだらかに、さりとて確かに繋がった透明が、代わって私たちにそうさせたのだ。
「ソウちゃんッ!」
「ごめん。ごめんね…………二人とも」
まるで日陰に取り残された残雪のように、溶けないように、私たちは互いの温度を抱き寄せる。
「嫌だよソウちゃん。やっとで平定も終わって、これからまた、一緒に遊べるって思ってたのにっ。こんな、こんなのっ、あんまりだよ!」
「ユハン…………」
「…………ソウはいつも、私たちを置いてきぼりにするのね」
限りなく私に近い場所で、あまりにも残酷な現実が壁を作っている。そして、それを打ち破る事を止めた彼女らは、私以上に努めて言葉を零した。
だから私は言わなければならない。あまねく不治さえ医するような、気の利いた言葉って奴を。空に還れぬ山間の雲が、ふたたびその元へと戻れるように。
「私も…………つらいよ」
――――そうじゃないだろ。こんな時に正直になってどうするんだよ。私はいつもそうだ。人の幸せを叶えるどころか、いつも誰かに支えられている。ホントに情けなく思うよ。
「ソウちゃんッ!!」
「ほんと、馬鹿みたい」
けれど、その支えのお陰があったからこそ、今日まで私は生きてこられた。そこに違いはないし、否定もしたくない。私は私なのだから。
求め、そして与える。それが私の言う神様ってやつだとしたら、今ここで言うべき言葉は、一つしかない。
「まっ、また皆でさ、海、見に行こ」
ああ、今の海は涙の比喩ではない。三人の涙が縒りあって、足元に出来た水たまりを、海原に例えるような事はしない。
「ぅぐっ…………絶対だよ!」
「うん」
「約束破ったら、三十年に増やすからね」
「えぇ、それは勘弁してよ」
どうやら私は、神様になりすぎていたらしい。最初からこうすれば良かったんだ。
まぁ、よくよく考えれば分かる事だったよな。だって、神様と友達になりたいって思う奴はいないんだから。




