かの日
「律!」
私ではない誰かを、呼ぶ声、が聞こえる。
「夕律!」
なんて悲しき声だ。お前にはあの、いつもの陽気さが似合うと言うのに。
「朝陽」
「あぁっ、気付いたか!」
ああそうか。私は確か、雨月に敗れて。
「大神、誠に申し上げにくいのですが、夕律姫の傷は深く――――」
「うるさい! つべこべ言わずに治すのじゃ!」
なんで天都に。私、官学にいた筈じゃ。
「最善は尽くしております! ですがこれは」
「ええいッ、使えん奴じゃ! もっと医薬に明るい神はおらんのかッ!」
「し、しかし。オオユナより薬に詳しい神はおりませぬ」
溜め息が出る。いつも申しておるだろ朝陽。お前はもっと、他者を気遣えるようになれと。
ため息が出る。天陽様、ちょっと怖すぎるって。もっと優しく言えないもんかなぁ。
しかしまぁ、それも彼女らしくて善いか。
「ッく。…………やはり、やるしかないのか」
「大神、どちらへ行かれるので?」
「大神! 夕律様は安静にさせておかなければ!」
「やかましい。主らは付いて来るな」
伝えなければ。吾月の事を。死んでしまう前に。
「朝陽、吾月は、吾月の中には四十以上の神霊が」
「喋るな津!」
「吾月を止めるまで…………平定は、延ばしてください」
「喋るなと言うておる! 本当に死んでしまうぞ!」
駄目だ、意識が遠のく。口が回らん。私は一体、何を言っているのだ。
「待ってろ律、もう少しだからな」
「朝陽」
「なんじゃ」
「遠い未来、一二三という名の……龍人の子が…………産まれる」
「何を言うとるのじゃ! しっかりしろ!」
「その子を、愛してやってくれ」
「駄目だ、逝くな! 逝かないでくれ! 律!」
死に際というのは、面白いものだな。あの朝陽が斯様に泣く姿は、初めて見る。しかし、悪くない物だ。
朝陽、すまない。私は先に逝くよ。
――――――――――――――――
「ここは」
海のような青空が広がる草原。その真ん中には、美しい光が一つ。時折そよ吹く、母のように髪を撫でる風が、たまらなく心地いい。
まさかここが、黄泉の国?
「ひふみ」
「え?」
私を呼ぶ声。でも、聞いたことがある声だ。
「いや、蒼陽と呼ぶべきか」
振り返るとそこには、一柱の女神。身長は天陽様と同じくらい。でも髪の色は綺麗な緋色。加えてその瞳は、まるで夕焼けの様な切なさを纏っている。
そして私は、彼女を知っている。
「夕律?」
「ああ。大きくなったな」
その名を呼べば、どこか嬉しそうに微笑む夕律。
「あの、何で、私はここに?」
「お前は今、死にかけておる」
「…………え」
彼女の言葉を聞いて思い出す。あの紅い月と、体内を貫く冷たい感触。そして、残して来てしまった大切な者達。
「ど、どうしよう、どうしよう! ユキ、ユキメが死んじゃう!」
「落ち着け。まだ死んではおらぬ」
「そっか、良かったぁ。――――いや良くないっ。早く戻らないと!」
「大丈夫だ。まだ間に合う」
「で、でもぉ」
「いいから落ち着け!」
狼狽え続ける私の頬を、夕律は呆れた様子でむぎゅっと挟む。そのマメだらけのゴツゴツしている手の平で。
「蒼、よく聞け。お前の中には、私と朝陽がいる」
「ど、どういうこと?」
「お前が一つにするのだ。私たちの神霊を」
「何言ってるか分かんないよ。だって夕律は死んだんでしょ?」
「違う。お前の中で眠っていた我が神霊は、いま再び、お前の中で火を灯した」
まるで安っぽいファンタジー映画のような話だが、でも私は気付いていた。彼女を意識し始めた時から、あの夢を見るようになってから。かつて夕律が見てきたあの景色を。
「でも待ってよ。私は夕律で、夕律は私なんでしょ?」
「少し違う。お前は、朝陽でも夕律でもない」
「なにそれ…………」
「お前は、私から生まれた女神なのだ」
ぐちゃぐちゃだ。そんなスクランブルエッグみたな感じで良いのか。
「そしてお前は朝陽の神使となり、その神血を自らに宿した。私が眠る、その体内にな」
待て待て。私は夕律から産まれた別の魂で。それでもって夕律の神霊は私の中で眠っていて。そしてその中に、天陽様の血が加わった。
「つまりそれって、どういう事?」
「つまりお前は、何一つとして欠けていない、完全なる天道そのもの」
「か、完全なる、天道?」
「左様。お前の神霊は、朝陽の神霊を纏う事で同化し。そして私という荒魂を起こした今、本来在るべき神霊を成したのだ」
聞こえは良いが、それを素直に受け止めることも出来ない。それに、もし今の話が本当なら、私は一体…………。
天陽様と夕律。それはまさしく、朝陽と夕陽の如し関係であることは、馬鹿な私でも分かる。だからこそ、そんな馬鹿にでも、確信が持てるくらいに言って欲しいのだ。
「ねえ、一つだけ教えて」
「なんだ」
私がそう言うと、彼女はただじっと、私の目だけを見据える。
「私は、誰なの?」
そして彼女は今度、私の頬を優しく包み、その柔らかい笑みのままにこう言った。
「忘れるな。お前は、お前だ」




