ねえ
「流石に頑丈だな」
六枚の黒翼に漆黒の着物。手に持つ太刀はサカマキよりも大きく、その身に風を纏う妖の将。
「お主は確かッ」
「お? まさか覚えていたのか?」
「妃屶の妖だなッ」
「はっはっはっはっは! 俺のような妖ですら記憶してるとは、天津神ってのは余ほど暇なんだなぁ」
刀の峰を肩に置き、大天狗サンモトは嫌らしく笑う。
「邪魔!」
「――――おっと!」
天都を潰して回るダイダラに憂いが行き、クサバナは焦った。しかしそんな刀が届くはずもなく、その斬撃は軽々しく大刀によって防がれる。
「…………なんで」
「確か天秤だったか? 嫌われ者も大変だな」
神より遥かに下位だと思われた妖に、易々と一刀を防がれ唖然とするクサバナ。
「自分が正義だと思い上がってる奴ほど、嫌われてんだぜ?」
大天狗は彼女の腕を握り締めると、そのまま風の妖術で切り刻む。
信仰を犠牲に汚れ役を続けてきた彼女。その強大な神通力とは裏腹に神体は脆く、その霊力も他の神より劣っている。
だからこそ、今や信仰も神霊も天津神と同等な大天狗の前に、クサバナは膝を着いてしまった。
「【神津宮舞――――」
「遅い」
クサバナは神通力を発動し、サンモトを自身の神域へと引きずり込もうと試みた。しかし速度で上回るサンモトは、余裕綽々たる表情でこれを一蹴。
「クサバナッ!」
「問題ない!」
大天狗サンモトに追いやられる彼女をサカマキは案ずる。初めて目の当たりにするクサバナの苦戦、その顔を死人のように青ざめながら。
「【神津……!」
「だからおせーって言ってんだろッ!」
「ッぐ」
神通力を使用するため、クサバナは大天狗から距離を取ろうとする。だが風の妖術は、そんな涙ぐましい彼女の努力さえも、たちまちのうちに零へと還す。
「見てられんッ、加勢する!」
「ふっはっは! まさか妖一匹に、二柱で来るつもりかぁッ?」
「【八百咲ッ】」
大気を震わし、八百万が牙を剥く。だが大技の連発で霊力が尽きかけている彼に、手を貸す神は多くない。
「ッは! 情けないもんだな!」
サカマキの術をいとも簡単に躱して見せたサンモトは、お返しと言わんばかりに反撃を開始。
「【凬車】」
空間を圧する八百万もろとも吹き飛ばし、彼が放った風の撃侵は、何者にも遮られることなくサカマキの神体を貫く。
「なんという術…………ッ」
「あの日の俺とは違うぞ天津神」
四莵三が討たれた後、彼はサンモトの名を継ぎ、散り散りになった妖の残党をまとめ上げた。そして妖からの信仰を得て、更に吾月に降ったことにより、彼の霊力は著しく進化していたのだ。
「【略裁・封!】」
感じる異常に眉を顰めるサンモト。だが彼は咄嗟に理解する。たった今、クサバナの神通力をその身に受けたことを。
「なんだ?」
クサバナの神通力は、決められた順序を追って対象の罪を裁いてゆくもの。そして略裁とは、その手筈を省いたもの。それゆえに重い刑は課せられないが、一時的な封印くらいなら簡単に行える。
「面白い。神通力を制限したのか?」
「今だサカマキッ」
「分かってる!!」
クサバナがやっとの思いで生み出した隙。当然サカマキはそれを逃すまいと攻撃を仕掛けるが…………。
「術を封じたからなんだと言うのだ」
残る力を振り絞り、サカマキが放った全力の一刀。だがサンモトはそれすらも防ぐ。まるで嘲笑うかのように。
「武でも敵わぬのか……ッ?」
「甘いんだよお前らは」
斬撃を止められ、口を開いたまま汗を流すサカマキに、サンモトはその大刀を振り下ろす。
今では神以上の神霊を持つサンモトの一撃は、容易にサカマキの神霊に到達し、遂にその頭を自らに下げさせた。
「天界で呆けているお前らなんぞに、俺たちの苦労は分からないだろうな」
「…………なんだと」
「鬼だ怪異だのと言われてきた俺たちの事なぞ、気にもしてこなかっただろう?」
風を封じられた大天狗。しかしその表情からは、依然として笑みは消えない。
「――――分からんだろうなぁ」
それどこかサンモトは進撃を開始。その神通力を警戒し、片膝を着いて息を荒げるクサバナに、強烈な飛び蹴りを食らわせる。
「ぇうッ!」
「分からんだろうな! 闇の中でしか生きられない俺たちの気持ちなんぞッ!」
「やめろ! それ以上はよせッ!」
「うるせえぇッ! ならばマキが死ぬ間際、お前らは攻撃を止めていたか!?」
「…………マキ?」
彼の口から出た名前。しかしサカマキは、その名におおよその見当もついていなかった。
妃屶の国で相見えたあの日、彼は愛する者を失っていた。――そしてこれは復讐だった。自らの幸せを打ち砕いた天津神への。
「ふふふふ……はは。あっははははははッ!」
何も可笑しくなどはない。しかしサンモトは高らかに笑う。内に溜まる憎悪や憎しみの一切を、ふつふつと煮えたぎる釜湯のように沸かしながら。
「そうかッ、そうだよなァ! 誰を殺めたかなんて一々覚えてられないもんな! ――――分かってたさ。神なんてもんは、所詮そんなもんだってことも!」
怒り狂った獣のように牙を剥き、6枚の黒翼を矛先のように尖らせる。眼前で絶え絶えのクサバナただ一点を見据えながら。
「やめろッ、やめてくれッ!」
「…………待ってろマキ」
サカマキは駆け出す。残された霊力など鑑みず、その神霊を荒々しく削りながら、手を伸ばし、友を救う為に。
「クサバナァァ!!」
そして、そんな彼の姿を目にして、クサバナはどこか嬉しそうに口元を綻ばせた。
「サカマキ」
…………所かまわず五月蠅い奴は、毎夜輝く月の如く、毎日クサバナの所へやって来た。
【クサバナ!】
【五月蠅い】
【今日こそはその首を縦に振ってもらうぞ!】
【先鉾には入らないと何度も言ってる】
【斯様に申さず、騙されたと思って!】
【クサバナは天秤の仕事で忙しい! 何度来ても同じッ。帰れ!」
何度、彼の申し出を突き返しただろう。毎日毎日、誠に鬱陶しかった。でもクサバナの本当の心は…………。
【クサバナ!】
奴はクサバナの仕事場に足を運んでは、四半刻程だけ組織への勧誘を行う。
【本当にうるさい! 毎日来れるほど暇なのか先鉾はッ】
その日はいつもに増して言葉が激しかった。だから奴も、それに負けない声量で返してくるのだと思っていた。けれど奴は。
【クサバナ、顔色が悪いぞっ】
【見れば分かるだろ。クサバナは忙しいの】
その頃の天秤は、まだ設立してから日も浅く、それ故に人手も足りていなかった。それを増やす時間も。
どれだけ裁いても善くならない世界。毎日のように心を殺して、もううんざりだった。
【そうか。頑張っておるのだなっ】
【分かったら帰れ】
【それは断る!】
【…………人の話を聞かぬのかお前は】
【クサバナ! 今すぐ先鉾に来いッ!】
【お前は一体何を聞いてた! 入らんと言ったら入らん!】
余裕などなかった。休みも無く断罪する毎日に。そこに奴のしつこい勧誘が加わり尚更。
趣味の機織りも出来ない。風呂にもゆっくり浸かれない。日が落ちれば家へと帰り、日が昇れば罪を覗き見る。
何でクサバナだけ…………。
【…………疲れたから帰って】
【駄目だ! お主、休めておらんのだろう!】
【そう思うのなら、大人しく帰れ】
【実はな、我が君から既に許しは貰っておるのだ!】
【何の】
【今日からお主は先鉾の一柱だ!】
腹が立って仕様がない。此奴はクサバナの気持ちも知らずに、毎日嫌味の無い笑顔を浮かべて。遂には強引に手を取って。
【兎に角、今すぐ行くぞ!】
【おい、まだ仕事が――――っ】
【案ずるな! 手筈は整っておる!】
そうしてサカマキは、先鉾に宛がわれているという部屋にクサバナを連れて行った。…………しかし。
【誰もいないけど】
【うむ。どうやら今日は、仕事が無いみたいだな!】
【だったら何で…………】
【――――となれば今日は休みだ! 町にでも行ってきたらどうだっ?】
【いや仕事が】
【それは心配せんでも善い! では、私はこれにて!】
【あ、おい!】
それだけ言ってサカマキは部屋を出て行ったが、いかんせん休む気などさらさら無い。
【はぁ。これでまた、仕事が遅れた】
部屋を出て、クサバナは自分の仕事場へと戻った。でも、仕事部屋の襖を開けようとしたら声が聞えた。
【おいサカマキぃ。クサバナの勧誘は確かに任せたけど、天秤の仕事を手伝うとまでは言ってねえぞ。しかも雑用じゃねえか】
【うるさいぞオクダカ! 黙って手を動かせ!】
【――――あ、カナビコ様。それは私がやっておきますので、あっちを手伝って頂けますか?】
【う、うむ】
【あっはっは! じじいてめえ、こんな仕事も出来ねえのかよっ】
【なんじゃと、お主も出来ておらぬではないか!】
賑やかな声に、思わず笑ってしまった。
――――あいつは、クサバナの為にこんなことを。
その気持ちは確かに嬉しかったが、しかし素人に務まるほど、天秤の仕事は甘くない。だからクサバナが襖を開けようとした時、一柱の女神がサカマキに礼を言う声が聞えてきた。
【サカマキ様。何とお礼を申せばよいか】
【良い。礼などいらぬ!】
【そう言う訳にもいきません。私たちの代わりに、働き手を集めて下さっていたのですから】
襖に掛けた手が止まる。あいつ、そんなことまで…………。
【おー、なんだなんだサカマキ。お前そんなことまでしてたのかぁ?】
【天秤の人手不足は、我が君も案じておられたからな! それに、働く神が増えれば、クサバナも先鉾に来やすくなる!】
【なるほどなぁ。喋った事ねえからどんな女神か分からんかったが、いい奴そうじゃねえか】
【…………ええ。本当に頭が上がりません。クサバナ様、私たちには休みをくれるくせに、ご自身は一切お休みにならないのですから。素晴らしいお方ですよ。クサバナ様は】
確かその時は、声を押し殺して泣くだけで、結局、襖を開けることはしなかった。まるで桜の下のような和やかな空気。直ぐにそこへ飛び込みたかったのだが、止まぬ嗚咽が恥ずかしかった。
サカマキ。お主はまるで、朝が来るたび光り輝く、あの美しい太陽のような奴だった。
…………そう言えば、あの時のお礼、まだ言えて無かったな。
「ねえ咲万木。今までありが――――」
彼女は最期、僅かに微笑み、その両目から小さく涙を零した。別れの言葉は言い切れなかったが、しかしその一生に、確かな真価を見出して。




