宵い酔い善い
正体不明の敵から攻撃を受けた榮鳳官学。
山中に佇む学び舎の数々。奇襲を受けて散り散りになってしまった生徒らは、その物陰にて息をひそめる。
「私たち、ここで死ぬのかな」
陰気臭さと湿気で満ちた校舎の床下。辛うじてそこに逃げ延びた10人ほどの集団の中で、一人の少女が呟くように言った。
「ここにいれば大丈夫よ。だから静かにして」
頭に巻き角を生やした少女ヒスイは、そう言って怯える低学年の生徒らに笑みを見せる。
彼女とユハンは、何の前触れも無く始まった敵対的攻撃に戦慄した。いつも通りの日常、いつも通りの講義。いつも通りの面々。そしてその崩壊は、唐突に訪れた。
「せ、先輩。私たち、いつまでここにいれば…………」
「もう少しだから、辛抱して」
少年少女らから絶え間なく浴びせられる不安と恐怖。もちろんヒスイとユハンらも、この状況に恐れを抱いていない訳ではない。
しかし最上級生という華やかなその事実が、皮肉にも彼女らを冷静でいさせた。
「ヒスイちゃん。先生方は、助けに来ないのかな……?」
「こらユハン。貴女まで弱気にならないでちょうだい」
「…………で、でもぉ」
「しっかりして。今この子たちが頼りにしてるのは私たちだけ――――」
ギシ。
と、重々しい足音が、彼女らの頭上で床を軋ませた。
全員が口を塞いで息を殺す。――しかし死に対する恐怖は、無垢な心を容赦なく嗚咽させる。
そしてそれを聞きつけたのか、何かを探している様だった足音が突如止まった。
「誰かいるのか?」
そして男の声。しかしそれは、誰かを思いやるかのような優しい声色。
「俺だ。ニライだ。隠れているのなら出ておいで」
「…………ニ、ニライ先生?」
彼の声に、思わず反応してしまう一人の少年。そしてそれに続くかのように、他の生徒らも声を上げ始める。
「ニライ先生が助けに来てくれたんだ!」
「先生! 私たちはここにいます!」
続々と床下から這い上がろうとする生徒たち。
「待ってッ!」
しかしヒスイだけはそれを止めた。彼女だけは、彼の言動に異常を感じていたのだ。そしてその不穏な予感は的中する。
「先生っ、僕たち、ずっとここに隠れてい――――」
男児の声が途切れ、続いて悲鳴。
「いやぁッ、ヤメて!」
「何でッ、先生、何でッ?」
床下から引きずり出される生徒たち。懇願の声も、次々と儚く擦れてゆく。
「授業で教えただろ? 声を出しちゃいけないって」
「せんせ――――っ」
「やめてください! ごめんなさい! ごめんなさい!」
ヒスイたちは、たった今頭上で起きている惨状に対し、ただ息を止めることしか出来ない。
「どうしよう、どうしよう」
ユハンは顔を埋め、静かに肩を震わすが、その恐怖はヒスイも同じである。
信じていた筈の先生が教え子たちを殺める姿を想像し、その気持ち悪さから嘔吐する。
床の隙間から滴る血。つい先ほどまで、自身を頼っていた後輩たちの信頼が、生温かく彼女の首筋を伝う。
「何なのよ……これ…………」
「ヒスイちゃん、は、早く逃げよ」
ヒスイの袖を引っ張るユハンの、その怯え切った表情が彼女に決心させる。
しかしニライは、その心さえも大きく揺るがした。
「おーい。まだ誰かいるんだろぉ?」
「ヒスイちゃん、早く」
「……分かってる」
「出てこないのなら、この子も殺すからなぁ」
「…………死にたくないよ…………誰か、助けてください」
その弱り切った声を聞き、這いずる手を止めるヒスイ。その正義感が自分を殺すことになるとしても、彼女は小さな命を見捨てることは出来なかった。
「ヒスイちゃん…………ッ」
「ユハンは逃げて」
「で、でも」
袖を強く握って止めようとするユハンを見つめながら、彼女は強く言い聞かせる。
「あなたは逃げて。お願いだから」
その言葉を聞き、遂に彼女は袖を離す。死なせたくはない。かと言って死にたくもない。その狭間の中で溺れ、ユハンは決意した。
それでもヒスイは笑みを浮かべた。その目に涙を滲ませながら。
「いい? ここから逃げたら、助けを呼ぶのよ」
それだけ言って、ヒスイは床下から這い上がる。
そうして彼女を出迎えたのは、自身の倍はある巨漢と、その足元に積まれた幼き生徒たちの亡骸。
「おお、やっぱりお前だったか。ヒスイ君」
「二、ニライ先生、教えてください。なんで裏切ったんですか?」
「はは。裏切っただって? 珍しく不正解だな」
返り血によって染まった嘲笑。その歪んだ口元からは、ナメクジのように舌が這い出ている。
「俺は最初から、吾月様に忠誠を誓っている」
「さ、最初から?」
「なぁなぁヒスイ。今から死ぬのに怖くないのか? いつも冷静なお前の、可愛く歪んだ表情が見たいんだよ俺は」
もはや彼女の事を生徒として見ていないかのような眼差し。その目で彼女を舐めるように眺めながら、ニライは刀に着いた血を拭う。
「ずっと我慢してたんだ。可愛い可愛い子共に囲まれる辛さ。分かってくれよ」
「先生を慕っていた生徒を殺して、何も感じないのですか!?」
「感じる? 感じてるさ。この上ない愉悦をな」
「――――下衆が!」
ヒスイは腰の刀を抜き、怒りにまかせてニライに斬りかかる。
しかし埋めることの出来ないリーチの差が、足蹴となって彼女の横腹に食い込んだ。
「ぅぐ…………ッ」
「いいぞぉ。良い顔するじゃないかぁ」
血の海に倒れるヒスイ。感情に従っての攻撃は防御を想定していなかっため、刺すような痛みが内臓に損傷を与える。
「っがぁあぅ」
痛みに悶える彼女は、血溜まりの上で腹を抑え、屍の匂いで戦意を失いかける。
「全く。この六十年間何をしていたんだ?」
「…………ふ、ふるべ、ゆらゆらと」
「その判断も遅い」
「ッぐ!」
優位に立とうと祝詞を奏上するも、再び放たれた蹴りを受けてしまい、惜しくもそれは中断される。
そしてニライは、荒い呼吸はそのままに、彼女の息の根を止めるべく刀を振り上げた。
「安心しろ。死体になっても可愛がってやるからな」
朦朧とする意識の中、彼女は死を覚悟する。薄れてゆく痛みに対し、その無念を一層強いものにしながら。
「…………ごめんなさい。みんな」
「はは! その皆と一緒に眺めていろ。自分の骸が弄ばれる姿を!」
振り下ろされる凶刃。ヒスイの最期は、もうすぐそこに迫って。
「【縁切り! 離心ッ!】」
しかし瞬間、彼の刀が宙を舞った。
「ユ、ユハン?」
「ほう! ユハンもいたか!」
刀との縁を切られたニライは、しかし彼女の姿を目の当たりにして、その笑みを更に不快なものにする。
「龍人の生徒が少ないから、探していたところだ!」
「よくも皆をッ!」
足を龍に還らせ、更に腰からは龍の尻尾。
「いいぞぉッ。出来ればその姿のまま死んでくれッ!」
「殺してやるッ!」
龍脚による最速の詰め。尻尾によってバランスが保たれた龍体では、如何なる速度でも体制を崩さない。
「悪くない姿だ!」
「そんな」
しかしユハンが繰り出した激烈な蹴り技でさえ、牛騎族であるニライの防御力の前ではゼロに帰す。
「久しぶりの龍狩りだ。愉しませてもらうぞ!」
「ぃぎっ」
ニライはヒスイの足を掴み、そのまま地面に叩きつける。そうすれば床は裂け、生身の身体は砕かれた。
だがそれでもユハンは立つ。
「り、龍椀」
「三か所同時に出来るのか!」
意識を失う四か所の、その三か所目。だがかつてソウに与えられた強靭な精神力が、ユハンの意識を強く保たせた。
「【抜刀・閃光!】」
「おおっ」
完璧なバランスと完璧な速度。そして龍椀によって底上げされた斬撃の威力は、ニライの防御を遂に捲る。
そして龍尾による追撃。ユハンは抜刀の反動を流すように身体を回すと、そのまま尻尾による打撃を食らわした。
「いいぞいいぞ! 至極面白い!」
「そのまま死んでしまえ!」
空気が震え、室内の温度が上昇する。
ユハンはよろけるニライに隙を見出し、今ここで決着を付けようとした。
「【龍尖ッ!】」
「ほぉぉぉッ!」
尾の先端に集まる圧縮された熱。それは熱線となって泣き叫び、ありとあらゆる物体を溶断しながらニライに迫る。
「【酒嵐!】」
「――――ッ?」
ここで更にヒスイの神通力が発動。問答無用で対象を酔わすこの術は、ただ心地良いでは済まされない。
「がはッ!」
ニライの血中アルコール濃度は致死量へ到達。大脳および中枢神経の麻痺は呼吸を狂わせ、状況判断能力を著しく低下させる。
「いけっ…………ユハンッ」
「あ゛ぁ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁあッ!」
炎を従える龍のみに許された神秘。それは火の神ですら震えてしまう最強。全てをつんざく熱線は、遂にニライの腹へ食らいついた。
…………しかし。
「【月・満ち黄金】」
全てを拒否する結界は、あまねく希望をも却けた。
「そ…………そんな」
「っふふ。はッはッはははははははッ!」
ニライの神通力。それはまさに月の輝き。黄金の中でニライは嗤い、ヒスイとユハンに絶望を植え付けた。
「お、惜しかったな……ぉえっ……お前ら」
「不抜の結界…………?」
「ぞうだッ。これでお前も一回休みだろッ。うぷっ、おえ゛ぇぇぇぇぇ」
吐しゃ物をまき散らしながらニライは笑む。その目は既にあらぬ方を向いているが、意識だけは辛うじて留めている様だ。
「ばっはっは。酒も入っで――っひっく。楽じくなってきたどころだぁ゛」
床に倒れ、それでもなお彼女らの元へ這いよるニライ。その表情は最早正気とは言えないが、異常とも呼べる執着心が、彼を彼のままでいさせた。
「ユハンっ、とどめを!」
ヒスイはユハンにそう促すが、しかし龍尖による体温の上昇で、彼女の身体は山のように重たくなっている。
「い、今」
だがユハンは立ちあがる。全身から汗が吹き出し、口からは大量の唾液が滴るが、それでも彼女は刀を握った。
「…………死ね」
彼女はニライに目掛けて鉾先を光らせるが、しかし遠のく意識に足元がふらつき、あろうことか片膝を着いてしまう。
「っぶははッ。戦の最中は感情を持つなと、教えだはずだぞ」
「…………うるさい!」
ユハンは必死に刀を振るが、しかしその無様な太刀筋で斬れるほど、ニライも甘くはない。
彼はユハンの腕を掴むと、リミッターの外れた腕力で彼女の頬を殴り抜ける。
「ぁぐ」
「もう遅い゛ッ。ごぼッ…………じ、じっくりと愉しんでから殺じてやる。っふうっふふふふ」
「やめて。来ないで!」
逃げようとするユハンに覆いかぶさり、全ての体重を彼女に預けるニライは、そのままユハンの横腹を殴り続ける。
「い゛ッ、――――痛ッ」
「お゛ぉ゛ぉぉぉえッ。動き……回るな。酔いが回る」
「龍椀っ」
彼女は腕を龍に還そうと試みるが、しかしクールタイムに陥っている彼女に龍玉は反応しない。
「やめて! ユハンを離して!」
「はぁっはははあ。ユハンの次はお前だ。そこで待ってろ」
ヒスイが仕掛けた神通力は、それでも負傷によって掛かりが甘く、更にはニライの生命維持機能に追いつかず、今まさに解除されようとしていた。
それ故に焦るヒスイ。
彼女はなんとか身体を持ち上げ、落ちていた刀を拾って体勢を保たせる。
「このっ。ユハンから…………離れろ」
そうして振り下ろした刀はニライに食いつくが、しかし弱く。ニライは構わずユハンに攻撃を加え続けた。
「ヒスイちゃん…………」
助けを求めるように手を伸ばすユハン。その口からは、内臓破裂による吐血が痛々しく噴き出る。
「やめてっ。やめろっ。このっ」
ニライの膨れ上がった筋肉に食い込んだ刀は抜けず、ヒスイはただ子供の様に、弱弱しい拳を叩きつけることしか出来なかった。
「邪魔だッ!」
「――――ぅッ」
徐々に正気を取り戻したニライ。今度は確かに力を込めてヒスイを殴り飛ばした。
「全く厄介な神通力だ。折角の興に水を差しやがって」
ニライは確かな足でその巨体を持ち上げる。その手にユハンの髪を掴みながら。
「まだ死んで無いだろうなぁ。なぁッ? ユハンッ」
「…………ゆ、ゆはん」
全身の筋肉が無くなったかのように項垂れるユハンを見て、ヒスイは涙と共にその名前を口にした。…………だがしかし、ユハンからの返事はない。
「っはっはっは! まあここまで楽しませてくれたんだ。ご褒美に、一緒に並べて穢してあげるからなぁ。ひっく」
ユハンを引きずりながらヒスイに歩み寄るニライ。彼女の目にはもう、絶望しか映っていない。
これから始まる地獄。今にも絶えてしまいそうな親友の姿。卑しい笑い声。山積みとなった屍。吐き気を催す程の血の匂い。
絶望によって支配された感覚器官は、安らぎを求めて思い出に浸る。
これまでの官学生活。卒業間近ともなり、寂しい想いはあったけれど、しかしそれを凌駕するほどの幸せが、彼女の脳内を埋め尽くす。
この地獄の中、唯一支えとなる甘美な記憶。
それを思い返しながら、ヒスイは静かに瞼を閉じた。
「【遥の訪れ】」
「……………………え?」
突如現れた一つの神霊。
それに気づき、ヒスイは再び光を捉える。
「…………なッ?」
「相変わらずだな。コウドウ」
ニライの胸から突き出る白銀。それは鮮血を纏って絢爛に輝く。
「ア、アラナミ?」
「弱者をいたぶるのは強者だけの特権。って言ってたっけ?」
二メートルは優に超えるニライを、更に上から見下す甚大な男神。雑に掻き上げた赤茶色の髪。涼し気な目元。そして貴し天津神の神霊。
「なぜだ…………吾月様に、殺された筈じゃ?」
アラナミが刀を引き抜くと、ニライは彼の姿を目にするべく振り返る。
「あぁ? 俺様はこの通りだぜ?」
嫌に笑うその笑みは、ニライを子犬のように怯えさせ、その膝を着かせた。
「龍狩りを追放してから見かけなかったが、まさか吾月の間者になってたとはな。全く笑えるぜ」
「お、お前も吾月様に忠誠を誓っていたはずだろ」
「ぎゃッはははッ! 馬鹿言うんじゃねえ。俺が慕うのは兄貴だけだ」
「じゃあ結舞月様とは…………」
「ああ。誓いなんざ立ててねえ。ただ兄貴の嫁だったから、傍に居ただけだ」
そうしてアラナミはにんまりと笑い、物干し竿の如し長刀をニライの首に添える。
「さあって。てめえに使ってる時間も無いんでな。まあ、潔く死ねや」
「ま、待ってくれ! 俺は――――ッ」
その惨めな命乞いも虚しく、アラナミの鋭い一刀によって、ニライの首は竹のように切り落とされた。
「あーあ。ったく、こんなに殺しやがって」
「…………あ、あの」
呆れたようなため息を吐くアラナミに向かって、ヒスイは苦しそうに声を絞り出す。
「あ? なんだ、まだ生きてたのか?」
「た、助けて頂き、有難うございます」
ヒスイが放った最初の言葉は礼だった。そしてそれを聞いたアラナミは、何とも可笑しそうに笑いだした。
「ひゃっはっは! 真面目な奴だなっ。まさか俺様に礼を言うとは」
馬鹿にしたような笑い。これにはヒスイもいい気はしなかったが、しかしアラナミの次の言葉に、彼女は大いに安らいだ。
「しかしまあ、あのニライ相手によく堪えた。あとは任せて、ゆっくり休めや」
「…………は、はい」
3メートルは超える巨体をかがめ、ヒスイの頭を雑に撫でまわすアラナミ。そしてヒスイは、包み込む様な安心感とその神霊に、頬を染めて頷いた。
「お頭様ッ。あっちにいた奴らは片付けました!」
「おーう、ご苦労。そんじゃ、残りの偽龍狩り共もとっとと殺しに行くかねえ」
「はい! どこまでも付いていきますよッ」
「いや、お前はここのガキ共を診てやってくれ。まだ息がある奴もいるんだ」
「ええッ? 私がですか!?」
襖を開けて現れた一人の女兵士。彼女はどうやら戦いたい様子だが、しかしアラナミの指示を受けて口を尖らせる。
「勘弁してくださいよ!」
「悪いな。でも、お前しか頼れる奴がいねぇんだわ」
彼が笑顔と共にそう言えば、女はまんざらでもない様子で顔を背ける。
「そ、そこまで言うなら…………」
「よし。じゃあ頼んだぞ」
「えっ、ちょっと! 行くの早いですって! もっと言ってくださいよ!」
流星の如し速さで立ち去ったアラナミに、女は泣き叫ぶようにそう言った。
そしてそんな遣り取りを眺めていたヒスイは、少し肩透かしを食らった様な感覚を覚え、安堵の溜め息と共に眠りに就いたのだった。




