雨月
再び夢を見た。長い夢を。
妃屶での一件が終わって以来、私がこの官学に通う事は少なくなった。それでも今は6年生。
無事にここまで進学できたのは、先鉾として忙しい日々を送る私を、官学側が配慮してくれたからだ。
そしてなぜ、私がいま官学に足を運んでいるのか。それはウヅキに会うため以外に他ならない。
「ウヅキ君?」
「はい。どうしても話したい事があって」
しかし返ってきた答えは意外なものだった。
「実はね、ウヅキ君、十数年前から学校に来てないの」
「……え」
「ソウ君は滅多に顔を出さないから知らなかったんだね」
「じ、じゃあ今はどこに?」
焦りと同時に汗が伝う。
夏だと言うのに、まるで秋のような涼しさを覚える。
「私たちも探してるんだけどね、まだ分からないの。妹のユウヅキ君も知らないって言うし」
嫌な予感が絶えず私を襲う。
私が夕律の記憶を取り戻し始めたかと思ったら、今度はウヅキが行方知れずとなっているのだから。
誰かに監視されているのではないかと疑いたくなる程、タイミングが良すぎるのだ。やはりウヅキは…………。
「何か、心当たりとか無いのでしょうかっ?」
焦燥のままに私は聞く。全く。ミウ先生が知るはずもないのに、一体何をしているのだろうか。
「ご、ごめんなさいね。私には皆目…………」
「あ、あははっ。そうですよね。無理を言ってしまい申し訳ありません」
きっと、今の私は不格好な笑みを浮かべているに違いない。焦りが混じった不細工な笑顔。
だがそれすら気にならない程、私の心は焦っていたのだ。
――――ミウ先生の事務室を出た後、私は下りの浮石に乗りながら考えていた。
吾月と重なるウヅキの面影。夢の続きで目撃した彼女の優しさ。自分を捨ててでも他者を優先する彼の優しさを。
「ソウ様」
頂院から降ると、ユキメが私を出迎えてくれた。背に広がる蒼空さえも、霞んで見える美しさで。
数十年前に失った腕と目は、間違いなく私の責任。決して、ウヅキのせいではない。
「ユキメ。腕の痛みはどう?」
「え…………。急にどうされたのですか?」
「その、たまにさ、痛そうに抑える時があるじゃん? でも最近、それも見なくなったから」
するとユキメは、寂しそうに靡く羽織の袖を、左手で優しく握りしめる。けどその表情に、苦しみは無い。
「もうすっかり良くなりました。痛みも左程感じません」
「そっか」
彼女との楽しい時間。その筈なのに、頭に残る憂いがそうさせない。しかし彼女は、いつもと変わらない笑みで私の頭を撫でる。
「ふふっ。ソウ様は優しいですね」
「え、えぇ?」
「このユキメ。貴女のお傍に居られることが、幸せでなりません」
すんなりと入って来る彼女の声。雨のような寂しさ、それでいてどこか暖かみを感じる声。
ああ。今すぐ彼女に口付けをしたい。あの柔らかい頬に触れたい。彼女の全てが欲しい。
でも私の中の夕律が、まだ早いと言ってくる。全てにケジメを付けるまで、私の我が儘を聞いてくれと。
「分かってるよ。律」
「――――え?」
「あっ、ううんっ。何でもない! 独り言!」
身振り手振りで取り繕うが、しかし彼女は鋭い。
「律とは、ソウ様の前身の神様の事ですか?」
「…………うん」
「何か、思うところがあるようですね」
私の頬に手を添えて、彼女はこの目を覗き込んでくる。全てを見透かすような緋色の目で。
だから私は言う事にした。夕律が生きた時代の話を。吾月が雨月と言う名の神に、縛られていることを。そしてウヅキと吾月が、同一の神かもしれないという事を。
「よくぞ、私に話してくれました」
私の話を聞き終えた後、彼女は囁くようにそう言った。
「でもね、ユキメの怪我は、決して吾月…………じゃなくて、ウヅキのせいなんかじゃ」
「ソウ様。私はこれまで、この怪我で誰かを恨んだことはありません」
私の言葉を遮るように彼女は言う。
更にユキメは私の耳元に口を近付けると、今にも触れそうな距離で言葉を続けた。
「むしろ感謝してるくらいです。お陰で、ソウ様は私から離れられないのですから」
「…………え」
「分かりませんか? 私の右腕は今、貴女の内で、貴女の心を握っているのですよ?」
初めて目の当たりにするユキメの一面。
さながら心臓を握りつぶされるかのような感覚を覚えたが、彼女は直ぐに笑顔を見せた。
「うっふふ。冗談です」
子供の様に無邪気に笑うユキメを見て、その言葉が本当に冗談だったことを理解する。そしてその瞬間、緊張によって溜まった空気が、音を立てて口から噴き出た。
「っこ、怖いよ!」
「あははっ。だって、余りにも神妙なお顔だったんですもの」
「もう。ユキメの冗談は心臓に悪い!」
「ふふ。ごめんなさい」
口元を袖で隠しながら笑うユキメ。けど、その冗談のお陰で私の不安が消え去ったことは、最早言うまでもない。
「……やっぱりユキメには敵わないな」
「ん、何か仰いましたか?」
「ううん。独り言」
そう言って私が口を綻ばせると、彼女も気持ちが良さそうな顔で微笑みを返してくれた。
「さて! 面倒ごとはちゃちゃっと片付けて、早く結婚しよ!」
背筋を伸ばし、大きくを吸った息を吐きながら、私は空に向かって言葉を放った。
そうすればもちろん、彼女は顔を真っ赤にするわけで。
「そ、そそそっ、そのような大声で申さずともっ」
「あれー? さっきまでの余裕はどこに行ったのかな。我が人生の伴侶よ?」
「じ、人生の伴侶だなんて…………」
遂にユキメは立ち眩みを起こして膝を着く。そして私は、それを見て大いに笑う。
本当に楽しい。全ての物事がどうでもいいと思えるくらい、彼女と過ごす時間は心地が良い。
「――――ああっ、ここにおられましたかッ、蒼陽姫!」
それでも時間と言う物は、本当に酷なものである。
「何か?」
「今すぐ学長舎へお越しくださいッ」
「何か、あったんですか?」
「急襲です! たった今、西ノ宮の街が襲撃を受けました!」
※※※※※※※※※
「兄さま、大丈夫?」
「え?」
「またぼうっとしてたよ?」
西ノ宮の外れに位置する小さな集落。
私が村長ミカヅキの家で夕餉を取っていると、白兎族のユウヅキが、私の顔を覗き込んでそう言った。
なので私は、兄として彼女に伝える。微笑みながら。
「大丈夫だよ」
すると彼女は口を尖らせ、綺麗に整った眉をひそめて。
「最近の兄さま、何か変」
「え、そうかな?」
「うん。官学にも来ないし、月が出る度、悲しそうな顔するし」
ユウヅキとは、まだ出会って日も浅い。
なのに彼女は、私の事をよく知っている。
いや、私からすれば短いように感じるだけで、彼女達からすれば、これが尋常なのだろう。
「ユウヅキは、僕の事が好きかい?」
私がそう言えば、彼女は白米を口に運ぶのと同時に、目を皿のように大きくした。
「きゅ、急にどうしたの?」
「今では兄妹だけど、元は孤児同士だったろ? だから兄として、上手く出来たかなって思って」
別れの言葉は切り出せなかったが、やはり急だったろうか?
そんな憂いで頭が一杯になる。でもユウヅキは、手に持った茶碗を囲炉裏の傍に置き、その口元を僅かに綻ばせた。
「ユウヅキはね、ウヅキが兄さまで善かったって思ってる。利他的で、どこまでも優しい兄さまが、私は好きだから」
その言葉に、涙がこぼれる。
―――白兎族は昔、月の神を信仰していた。
彼らも他の種族と同じように生活をしていたが、月の神が謀反を起こしたせいで、迫害を受けるようになってしまった。
それが800年前の平定。
月の神に信仰を捧げたばかりに、彼らは後ろ指を指されるようになったのだ。
「そうか。僕も、ユウヅキが好きだよ」
心の芯から出た言葉。
けれど私は、その言葉に自身がない。
神によって保障された彼らの生活。その筈は、彼らが信仰する私によって、断たれてしまったのだから。
「兄さま…………」
頬を赤らめ、どこか恥ずかしそうに身をよじるユウヅキ。彼女と過ごせる時間も残りわずか。
だから私は、最後の願いとも言える頼みを、彼女にすることにした。
「なあユウヅキ。もう一回、僕の事を“おにい"って呼んでくれないかな」
「え?」
「あの呼び方、好きだったんだ」
産まれてすぐに両親を失くした彼女。
村長のミカヅキが彼女を連れてきた時、初めて妹と呼べる存在が私に出来た。そして心を開いた彼女が、私の事をそうやって呼んだのだ。
「お、おにい」
「ふふ、ありがとう」
「もうっ、恥ずかしいってば!」
いろりを囲み、こうして家族で食事を摂る。
私が神様と呼ばれていた頃、私はそれに憧れていた。唯一姉と呼べる存在は、私の事を腫物のように思っていた。
だからこそ楽しかった。この時が。いつまでも続けばいいと思っていた。
コンコン。
ユウヅキが頬をふくらませ、私に向かって目を尖らせたとき、屋敷の扉を誰かが叩いた。
「こんな時間に誰だろ?」
彼女が席を立ち、訪問者を迎えようとする。
戸の向こうには誰がいるのか、私は知っている。――開けてはいけないなんて事、分かってる。
「待ってユウヅキ」
「え?」
「僕が見てくるよ」
土間へ行こうとするユウヅキを引き留め、彼女の体を優しく抱き寄せた。
「…………兄さま?」
「僕が居なくても、しっかりな」
私はそれだけ言って、伝わる彼女の体温を遠ざける。
それは、もう感じることの出来ない温もり。これで私は、永遠に一人。
「何それ。どういう意味?」
「ううん。なんでもない」
「ちょ、ちょっと!」
私を止めようとする彼女を無視し、私は玄関へと向かう。
もちろんユウヅキは後を追って来るが、私は神通力を使い、不抜の結界で彼女を居間に閉じ込めた。
音も通さぬ結界のため、彼女が何を言っているのかは聞き取れない。きっと必死になって結界を叩いている事だろう。
でもごめんね夕月。あなたとはここでお別れだ。
――――――――
「随分と手間取ってたけど、大丈夫、雨月?」
戸を開けると、そこには一柱の女神が立っていた。
黄金の月下でしおらしく、優々閑々とした立ち姿で。――しかし眉根を僅かにひそめており、その複雑な心境を面に出している。
「うん。僕は大丈夫だよ。那々名嘉」
西ノ宮の民から厚い信仰を受ける彼女は、今では立派な川の神となった。
その半身は蛇のように物々しく、かのヤヅノ蛇神にも劣らない神霊を纏っている。……だが、それを素直に喜べるほど愚直ではない。
彼女がこうなってしまったのも、私のせいなのだから。
あの日、私が彼女を大川の神に仕立て上げたばかりに、彼女は今日まで苦しんで来たのだ。
「本当に、お母様の言葉に従うつもりなの?」
彼女が私に問う。
それは気遣っての言葉なのだろうが、私は死んだ二枚貝のように口を紡いだ。
「ソウちゃんは、どう思うかな?」
暗い声音で、さらに彼女が問うてくる。が、どれもこれも答え辛いものばかり。
…………ずっと考えないように生きてきた。
800年前、彼女は私の両目を見据えながら消滅していった。目に映る私の顔を、涙で歪ませながら。
――――和魂の弱化は、荒魂の消滅に伴う。故に吾月は、ソウ様の神霊が、ただの神使から荒魂に成る時を待っていた。
あの時の失敗を力とし、今度こそ確実な消滅へと追いやるために。
そして姉上の神霊が弱まった瞬間、天都を掌握するための侵攻が始まる。
私たちは黙って傍観することしか出来ない。誓約のせいで。――それは決定された未来。
「ナナナキ、滅多なことは言うものじゃないよ」
「で、でも」
「吾月の意志は、僕たちにとっても益となる。これでいいんだ」
私たちは神霊を通して常に見られている。
今や九つにまで減らされた神霊は、どこで何をしていても掌の上。こうして二柱で話をしていても、密談など到底出来ない。
何か不穏な動きを見せてしまったら、吾月によって神霊が追い出されてしまう。
実際それで、結舞月は愛する者を殺めてしまった。
「じゃあもう、やるしかないんだね」
決心したように那々名嘉は呟く。
これから親でも殺すかのような、神妙な顔つきで。
「その時が来たら、僕がやるよ。貴女には荷が重すぎるから」
「ううん、大丈夫。もうこれ以上、雨月には苦労かけさせたくないから」
和魂に近い神霊を持つ彼女は優しく、申し訳程度の気遣いさえ跳ね返すように言った。
――――吾月を覗く四十六の神霊たちは、完璧な器となる事を求められ、吾月に忠誠を誓うように仕向けられる。
そうなってしまえば、神霊は鎖に繋がれた犬のように、吾月の支配下に置かれてしまう。
だがそうならなかった者もいる。
誰よりも荒魂としての神霊が強かった四莵三は、比類なき精神力をもって唯一吾月の手から逃れた。
希望の光が差したと思った。
だが、ツキに見放された私に、幸運が続くはずもない。
「じゃあ、一緒に殺そう」
進退両難だった私にとって、唯一幸運だったと言える事。それは、ナナナキという理解者が傍に居てくれた事だ。彼女が居なければ、私は道端に落ちている銀杏のように腐っていただろう。
「ありがとう。ナナナキ」
「うん」
彼女の提案に、私は賛同の意を表した。
きっと彼女も同じ心でいるはずだ。大切な者を殺めるのは、とても辛いのだから。




