裏切りの
「夕律様。アラナギの行方は、未だ分からぬままなのですか?」
「…………ああ」
数年前のあの日、共に笑いあった広間にて、カナビコが声音を重くして言う。
だが彼だけではない。サカマキもオクダカも、苛立ちを隠せないまま、そわそわと室内を歩き回っている。
「くそッ。上の連中、俺たちの言う事なんてまるで聞く気がねえ!」
オクダカは座布団を蹴り飛ばし、未だアラナギの捜索に先鉾が動員されない事を、不満たっぷりに嘆き叫ぶ。
「ユウリツ様ッ。やはり命を待たず、我らもアラナギの捜索に乗り出すべきですッ!」
「駄目だ。それをしてしまえば、お主らが処罰を受けることになる」
「でもサカマキの言う通りだッ。このままアラナギが反逆者として片づけられるのを、指くわえて待ってなんかいられねえ!」
彼らの気持ちは痛いほど分かる。
誰よりも忠実だったアラナギが、天都を――ましてや先鉾を裏切ることなど、到底考えられる事ではないからだ。
だからこそ私たちは、今すぐにでも彼を見つけ出し、その身に何が起きているのかを一刻も早く解明したかった。
しかしそれをさせないのは、天陽が率いる天老たちの言葉。
奴らはアラナギの行方不明を謀反として見なし、「先鉾も同様の不穏分子と今は考え、しばらく階級を剝奪し、待機を命ず」などと言って来たのだ。――それに加え、「これを破らば、如何なる事由も酌量せず、階級に伴わない処罰も考える」とも言った。
「仮にワシらを裁くのが天秤だったのなら、サカマキの考えにも賛成だったのじゃが」
「ああ全くだぜッ」
全てを見通し、罪の一切を平等に裁くのが天秤の仕事。しかし断罪するのが天老ともなると、話は全く逆の方を向いてしまう。
「我が君は、一体何をお考えになっておるのだろうか」
カナビコは視線を落としてそう言ったが、しかしこの様な事は、天陽なら絶対にしない。何か企んでいるとしたら雨月。あ奴がきっと、裏で糸を引いているに違いない。
「ユウリツ様、何処へ行かれるので?」
「厠だ。それくらいなら奴らも赦してくれるだろう」
それが偽りであることはカナビコも分かっている筈だ。だからこそ彼は、部屋を出ようとする私を止めず、ただ小さく頷いて襖を開けてくれた。
「――――シン、おるか?」
「はいっ、ここに!」
誰の目にもとまらない小部屋。そこで私はシンを呼んだ。
「雨月の様子はどうだ?」
先鉾が自粛を強制されるのと同時に、私は雨月の動向を見張るようシンに言った。しかし私が報告を求めると、彼女は表情を一層暗いものにして。
「それなのですが、先ほどから雨月の姿が見当たりません」
「なんだと?」
「今朝は確かに天都にいたのですが、今はどこにも。それに加え、天老を初めとする幾柱かの神々も、天都から姿を消しています」
アラナギが行く知れずとなって一か月。続けざまに雨月も消えた。驚くことではない。姿が見えない天老どもも、既に雨月に取り込まれていたのだろう。
という事は、アラナギも…………。
いや、余計な事は考えるな。アラナギが雨月に降ったなどと、根拠もない想像で結論を急ぐな。
行動を起こすにしても、先ずは確認せねばなるまい。
「私は天陽の所へ行く。お主は消えた神々の匂いを探せ。だが臭跡を見つけたとしても、決して追うでないぞ」
「畏まりました」
――――そうしてシンと別れた私は、次に天陽の書斎へと足を運ぶ。
「天陽。今の状況を説明しろ」
彼女の部屋。鳥のように飛び交う和紙を退け、私は天陽の手前で声音を強くした。
しかし天陽自身も現状を把握できていないのか、その頬には珍しく冷や汗が伝っている。
「わ、分からぬ。雨月は、雨月はどこに行ったのじゃ?」
探し物をするかのように、わたわたと辺りを見回す天陽。その無様を目の当たりにした私は、思わず彼女の頬を引っ叩いてしまった。――だがこれでいい。
「しっかりしろ天陽ッ! 雨月はお前を裏切ったんだ!」
まだ確証があるわけではないが、しかし私は実感していた。物事が全て雨月の計画通りに進んでいる事を。そして用済みとなった天都から、奴が逃げるように離れたことを。
「…………雨月が、余を裏切った?」
「それだけじゃない。天老を含む数柱の天律神も姿を消した。私たちは騙されていたんだよ!」
目を見開き、その呼吸を慌ただしいものにする天陽。だが私の平手打ちが効いたのか、散り散りになった思考は収束しているように見えた。
「律、教えてくれ。余は、お前を信じて良いのか?」
目に涙を浮かべる朝陽。
我が半身ともあろう者が情けないものだ。全く、此奴には振り回されっぱなしだな。
「当たり前だ」
彼女の両肩を強く握り、私だけを見させる。
そうすれば次第に涙も退き、朝陽はかつての覇気を取り戻す。
だから私は、勢いに乗じたまま彼女に求む。
「朝陽。私に命じろ。雨月の誅伐を」
その注文には朝陽も少しだけ渋ったが、それでも断る理由はなのいだろう。彼女は意を決したかのように口を開く。
「分かった。裏切り者どもを、お主の裁量で断罪することを認める」
「確と」
その時私は、流れが自分に向いて来たと思った。
朝陽が正気を取り戻し、天都が正常な機能を取り戻した今、やっとで吾月を助け出せるのだと…………そう思った。
※※※※
――――アラナギが天下りしたのは、中つ国から遥か遠方に位置する、常世の国と呼ばれる島国だった。
彼をそこに向かわせたのも、全て雨月による提案だったのだと彼女は言う。
“自身の内側で、吾月が神体の支配権を奪い取ろうと暴走している”――そう雨月に唆された朝陽は、吾月が再び表に出てくる事と、吾月に賛同する者たちの反発を恐れ、中つ国の平定を急いだらしい。
これらが、私が天都を出立する前、朝陽から聞かされた真実。
無論、その中には雨月の嘘も入り混じっているだろう。神霊の強さで言えば、雨月には遠く及ばない吾月が、神体の権利を強奪できるはずがない。
…………しかしその確信は、私がアラナギ救出のため、数柱の武神を連れて常世の国に赴いた時、音を立てて崩れ去った。
「吾月…………?」
綺麗な青色が眩しい砂浜。
私たちがそこに降り立った時、彼女もまたそこにいた。
「お久しぶりです。夕律姫」
物憂い気な目元。雪のように白い髪。黄金に輝く美しい瞳。
当然最初は疑った。
雨月が吾月のふりをしているだけなのでは…………と。しかしその神霊を感じ取った時、疑心は確信に変わった。
だが一つ分からないのは、なぜ吾月が神霊を保ったまま、この常世の国にいるのかという事。
「吾月。なぜお主がここにおる?」
「気が付いたとき、私は既にここに」
「偽りはないか? 雨月に何かされている訳ではないのか?」
「うん」
その表情は明らかに嘘をついているものだった。というより、どこか悲しそうな顔ばせ。
まるでこれから起きようとしている出来事に、彼女は心を痛めているようにも見えた。それもかなり強く。
「夕律姫。初めて貴女を目にしたとき、私は貴女を妬んだ」
「…………何を」
「私よりもお姉さまに愛される貴女が、憎くて仕方なかった。…………だからあなたも、私を許さないで」
言葉を零すたび、彼女の目からは涙が溢れる。
彼女が意図的に私を傷つけようとしているのは分かった。その涙を見て。
でもなぜ、彼女はそんな事を…………。
「まて吾月。それ以上近寄るな」
両手を広げ、啜り泣きながら歩み寄って来る吾月。
頭の先からつま先までの全てが彼女の姿。神霊も、その泣き顔も、まるで違わない。だからこそ私は、それに強く警戒することもしなかった。




